ドノン会戦
ソロン達が出立して二日後。
辺りはまだ薄暗く、朝と呼ぶには早すぎる時刻だった。
ドンタイア村に留まるサンドロスの元に、狼兵の伝令が報告にやって来た。
「ラグナイの軍勢が王都イドリスを出発しました。方角は西――やはり、この村へと攻め込むつもりかと」
「来たか……。積極的に攻めてくるようだな。数は分かるか?」
「少なくとも三千は下らないと思われます。ひょっとしたら、四千を超える可能性も……」
「そうか」
敵の数は多い。だがそれは、サンドロスも想定していた通りだ。
こちらが動かなければ、敵はじきにドンタイア村に迫るだろう。
この村にも一応の防御柵はあるが、そもそもが魔物避けに過ぎないものだ。テネドラの町のような頑丈な壁はなかった。木の柵などは、軍隊にかかれば火で焼き払われるのが精々だろう。
ならば、こちらも打って出るの一手だ。
サンドロスは正面から会戦する腹を固めた。そして、導入できる全軍を出陣させたのであった。
兵達には、夜中でも半時間以内に出陣できる心構えを指示してある。たちまち、二千を超える軍勢が出発した。
今から会議室で入念に作戦を練る時間はない。
もっとも、戦いは想定内だ。大まかな計画はナイゼル主導の下、既に決められていた。作戦の細部は進軍しながら、馬上で決定していくことにした。
必然的にドンタイア村と王都の中間地点で、両軍は激突することになる。
「ドノン盆地だな」
サンドロスがつぶやいた。
それだけで、周囲の将士にもその意図が伝わった。
イドリスの国土は起伏に富んでおり、また会戦には不向きな狭所も多い。戦場の選択は戦いの行方を決する上で軽視できない要素だった。
幸い、戦場の選択権は守備側に委ねられている。サンドロスが選んだのは、村から東へ四里――そこに広がるドノン盆地だった。
ドノン盆地の近隣は、白い虎の生息地として有名である。
白虎は強靭かつ美しい獣として、特に軍人には愛好されていた。白虎はイドリスの王家を象徴する紋章にもなっており、その意味でも決戦の地にふさわしいといえた。
ドノン盆地は盆地という名称の通り、南北を山で挟まれていた。大軍で戦うには少しばかり狭くはある。
しかしそれも、数で劣るこちらにとっては悪い条件ではない。
何よりも西側がゆるやかな高所となっているため、東側から来る敵軍を迎え撃つにも都合がよかった。
サンドロスは軍を率いて、昼過ぎには目的地へ到達していた。
軍の先頭に立った彼は、自ら遠く東の方角に目をやった。
山に挟まれた野原が、なだらかな下り坂となって長く続いている。遠くまで見渡せる見通しのよい地形だ。
今のところ、そこには何の異常も見受けられない。ちらほら山と野原を行き交う獣の姿が見える程度だろうか。
予想通り、敵軍の姿はまだ目に入らなかった。斥候の報告も同様で、敵の到着にはまだ数時間がかかるだろう。
その間、腹が減っては戦はできぬとばかりに、休憩を取ることにした。ただし一部の部隊は、敵の進軍に備えて準備を行うよう指示することも忘れない。
*
「おお、おお~、来たなゾロゾロと」
ドノン盆地に構えるサンドロスの視界へ、ラグナイ軍の姿が入ってきた。下界の昼間は日射しが弱く曇っている。そんな中でも、白い鎧兜は遠方からよく見えた。
「敵の戦力はこちらの二倍といったところでしょうかね」
サンドロスの隣から話しかけてきたのはナイゼルだ。彼は戦場においても、サンドロスの軍師として働くことになっている。
まだ敵の陣容を確認できる距離ではないが、その戦力がこちらを凌駕していることは測るまでもなかった。
「まあ、このぐらいなら予想の範疇だな。どうせまだ、緑カバも出してくるんだろうが……」
それでも、サンドロスに焦る表情は見られない。劣勢は元より覚悟の上なのだ。
眼下に広がる野原の向こうで、敵軍が砂埃と共に迫ってくる。軍勢の数に比較して道が狭いため、隊列が縦に長く伸びていた。
次第に敵の陣容が目に入ってくる。
前衛に構えるのは盾を持った兵の数々。その中にまぎれて目立つ赤い衣と帽子の姿――それがザウラスト教の神官がまとう衣装だった。
まだ弓や魔法が届く距離ではない。だが、このまま前進を続けるならば、やがては射程に入る。
敵軍が止まる様子はない。そのままの勢いで向かって来る。
敵もこちらが有利な地形にいることは承知しているはずだ。それでも、会戦を行う決断をしたようだ。
大した差ではないと踏んだのかもしれない。事実、戦力差を考えれば、この程度の優位で覆せるはずもなかった。
敵軍が射程に入る直前、神官達が緑の石のような物を放り投げた。
石は地面に当たって割れ、煙となった。そこから姿を現したのは、教団が行使する魔物――緑の巨獣グリガントだ。
グリガントは全部で五体。
一部のイドリス兵が不気味な魔物の姿に、ざわつく様子を見せた。恐らく、今までラグナイとの戦闘を経験していない新兵だろう。
「やっぱり、使ってきやがったな」
もっとも、サンドロスにとっては既に見慣れた魔物である。それは前衛を固める多くの兵士にとっても同じことだ。主力となる兵には、これしきで戦意を喪失する軟弱者は存在しない。
敵軍が進軍を速めてきた。グリガントを先頭に、一気に射程圏内を突破する気だ。だが、そうさせるわけにはいかない。
そして、戦いの火蓋は切られた。
「魔法を放て!」
サンドロスは最初の号令を下した。
まず放たれるのは射程の長い魔法だ。魔道士が一斉に杖を向けて、敵陣へと魔法を放った。
いくつもの火球がグリガントへと飛来する。
魔法は炎だけではない。土の魔法で放たれた岩石が、引力を借りて敵陣へと転がっていく。
先頭のグリガントは、一発や二発の火球を受けても物ともしなかった。だが、これが十発、二十発と繰り返されるとそうはいかない。
まもなく一体目のグリガントが、野原に黒焦げの骸をさらした。
もっとも、敵軍にしても先刻承知の上だろう。
緑の巨獣は射撃の良い的になるが、それはつまり盾にもなるということ。その間、後ろのラグナイ軍は安全に進軍できるというわけだ。
二体目のグリガントも岩雪崩の下敷きになった。岩は止まらず、後ろの敵兵を巻き込んでいく。
それでも敵軍は止まらない。グリガントの屍からあふれ出す瘴気を避けながら、ゆるやかな坂を登ってくる。
しかし、それは弓の射程に入ったことも意味していた。
「矢を放て!」
魔道士達に続けと、イドリス軍から矢が放たれた。
ラグナイ軍からの反撃はまだない。イドリス軍のほうがやや高所を陣取っているため、敵に先んじて弓を射れるのだ。
三体、四体とグリガントが倒れていく。さすがの化物も百を超える矢で全身を射たれては、立っていられるはずもなかった。
緑の聖獣は残り一体を残すのみとなった。
だが、巨獣を盾に矢と魔法の雨をくぐり抜け、ラグナイ軍は進み続けていた。やがて、こちらに反撃の矢を放てる距離まで迫った。
「ナイゼル、頼む!」
そこで、サンドロスはナイゼルに声をかけた。
ナイゼルは軍師であると同時に、王国一の魔道士でもある。これまでの攻撃には加わらず、力を温存していたのだ。
「かしこまりました。ではいきますよ!」
ナイゼルは杖を高々と掲げ、意識を集中した。杖先に輝く緑の魔石は緑風石。ナイゼルの周囲に、空気の流れが集まってくる。
ラグナイの兵が一斉に弓を構えてくる。既に距離は近く、敵の一挙手一投足が判別できるようになっていた。
なおもナイゼルは魔力の集中を続ける。時間をかけてじっくり溜めて、大きな魔法を発動しようとしているのだ。
ラグナイの弓兵がついに矢を放った。
イドリス軍へ矢の雨が降り注ごうとしたその時――
ナイゼルが一歩前に踏み出し、杖を前方に向けた。
力は解き放たれ、たちまち東へ向って風が吹き荒れた。思わず顔を覆いたくなるような強風である。
広い範囲に風を起こすには、それ相応の魔力と技術がいる。それを成し得るのがナイゼルという男の真骨頂であった。
杖先から激しい風が広がり、反動で彼の灰茶の髪が乱れた。もっとも、空気の流れを巧みに制御しているため、ほとんどの風は敵陣へと向かっていく。
ラグナイ軍は吹き荒れる暴風の中にさらされた。
多くの者は重い装備を身に着けていたため、飛ばされはしない。それでも、弓矢にとっては致命的な強風だった。
矢の射撃とは精密な技術である。強い向かい風の中で遠くに届かせるのは相当に難しい。仮に届いたとしても、まともに狙いをつけられるはずもなかった。
敵軍が満を持して放った矢は、風に吹かれて野原に落ちていった。
そして――敵にとっての向かい風は、味方にとっての追い風でもある。
「残りの矢を射ち込め! 精神が尽き果てるまで魔法を放て! 追い風に乗せろ!」
サンドロスの号令に、矢と魔法が一斉に放たれた。
追い風の中で放たれた矢は、勢いを増して敵へと襲いかかった。 追い風とはいえ強風の中で狙いを定める難しさはある。それでも緑色をした巨大な的には容易に命中した。
威力を増した矢に貫かれ、最後のグリガントも地に崩れ落ちた。
イドリス軍が放つ矢の勢いは止まらない。次々と雨のように放たれる矢は、命中さえすれば敵の盾をも突き破った。
魔道士達も弓兵に負けてはいない。彼らが放つ炎の魔法は風にあおられ、敵軍をまとめて焼き払った。放たれた岩石は風を受けて加速し、敵を盾ごと押しつぶした。
ラグナイ軍は西からの一方的な攻撃に浮足立った。もっとも、それ相応の被害を受けたとはいえ、いまだその勢力は優勢を維持していたが……。