ペネシア
「ああ、ソロン!」
駆け寄ってきたペネシアは、ソロンを強く抱きしめた。
「母さん……よく無事で」
皆が見ているため少し気恥ずかしいが、母子の再会である。ソロンもしっかりと抱き返す。
それから、改めて母を見直す。まだ四十路を大きく過ぎていないこともあって、二児の母としてはまだ若々しい。少しやつれてはいるものの、抱きしめた力は強くしっかりしていた。
「あれから、元気にしていましたか?」
ペネシアは体を離して、ソロンの手を握った。
「うん。兄さんと一緒に何とか抜け出すことができて……。それから僕一人で上界に行ってたんだ。兄さんも元気さ」
ソロンが上界へ向かったのは、兄と王都を脱出してからだ。だから母はその経緯を知らなかった。
「まあ、上界に……!? 危なくはなかったの!?」
「下界よりは安全な場所だったよ。魔物も多くはなかったし」
実際は神獣との戦いを始め、危険もそれなりに多かった。……が、心配をかけたくないので、それは黙っておく。
「お腹を壊したりはしなかった? 食事は好き嫌いせず、きちんと取っていますか?」
「うん」
「眠る時はあったかくしていますか? お腹を冷やしてはいけないわ」
「うん」
「体は清潔にしていますか? 歯磨きも忘れてはダメよ」
「それは……あんまり。旅暮らしだったし……」
途端、ペネシアの穏やかな表情が真剣になった。握ってくる手に力がこもる。
「そんなことは理由になりませんよ。旅暮らしだからこそ、清潔を忘れてはならないの。特に口内は綺麗にしておかないと、虫歯もできるから」
そんなやり取りをしているうちに、周囲の視線が集まっていくのを感じる。
「またやってるよ……」「なんか久々だな」
兵士達のささやきがソロンに突き刺さった。
「前からあんな感じなの?」
すかさずミスティンがそばの兵士に質問した。
「ええ、殿下が出張から帰るたびにあんな感じでしたね。たとえ数日の出張でも」
兵士は答えなくていいことを答えた。
すぐそばにいたアルヴァは、じっとこちらを眺めていた。
ソロンが目線で助けを求めれば、何をどう理解したのか頷いてから微笑みを返してきた。
ソロンの顔が羞恥で紅潮する。何が楽しくて、衆人環視の中で子供扱いされねばならないのか。
「あ、あの……母さん。分かったよ、歯は磨くから! 今はそれぐらいで、みんなも見てるから……!」
手を強引に振り払うとペネシアが悲しそうな顔をした。罪悪感がこみ上げてきたが、このまま続けられてはたまらない。
それでようやくペネシアも周りの様子に気づいた。近くにいたアルヴァに目を留めて、挨拶を始める。
「ソロンのお友達かしら? 母のペネシアです」
「上界のネブラシア帝国から参りました。アルヴァネッサと申します」
アルヴァはスカートをつまんで上品に挨拶を返す。
「まあ上界から!? この子が大変お世話になっております」
「とんでもありません。私こそ、ソロンには何度も助けられましたから」
……なんだろう、この空気は。
例えてみれば、子供の頃に母と学校の先生が自分について話していた時のような――そんな雰囲気。ともかく、とてつもなくむず痒いのは確かだった。
*
ペネシアと仲間達の挨拶も終わり、ソロンは帰還について考えなくてはならなかった。
兵士達や虜囚の怪我は、ミスティンが中心となって治療してくれた。大きな怪我こそなかったが、虜囚の中には過酷な行程で足を痛めていた者も多かった。
息があったラグナイ兵も二人だけいたので、こちらも治療を施した。見殺しにはできなかったのだ。今は虜囚をつないでいた鎖で、逆の立場となってつながれている。
「帰りはどうする? また砂漠を抜けていく気か?」
グラットがソロンに方針を問いかける。
これは単純に道を聞いているだけではない。ペネシアら、解放した虜囚の扱いについても確認しているのだ。
砂漠を通ったほうが早く帰れるのは確かだ。だが、一度通った道とはいえ危険は大きい。女や老人といった弱者を連れて進むには、あまりに厳しい道だ。
では、セベア村を通って帰るか?
日程が数日増えるが、このほうがはるかに安全だ。
しかし、サンドロス達はこの間にも戦いを始めているかもしれない。悠長にしていては勝敗が決してしまう。最悪の場合、望まぬ方向で……。
「早く帰って、兄さんに加勢したいところだけど……」
国の行く末を決する戦いには、なんとしても加勢したい。だが、母達を危険にはさらせない……。
「悩む必要はないわ、ソロン。サンドロスと共に戦うのでしょう。少しでも早く帰れる道を選びなさい」
思い悩むソロンにペネシアが叱咤した。
「けど、母さん達を危険にはさらせないよ」
「ならば、私達は自力でセベア村に向かいます。砂漠には、あなたが頼りとする人を連れていきなさい」
「でも、大丈夫なの?」
砂漠越えよりマシとはいえ、それでも下界の旅である。絶対に安全だとは言えなかった。
「私の力はあなたも知っているでしょう?」
ペネシアは手に持っていた杖を、これ見よがしに掲げた。杖はザウラストの神官が残した物である。
母はかつて有能な魔道士だった。ソロンも兄と、その手ほどきを受けた経験がある。
さすがに砂漠越えする体力はないだろうが、その魔力は今でも衰えていないだろう。兵士の一人や二人より、よほど頼りになるのも事実だった。
ペネシアはソロンを見据えて。
「捕まっていた中には男だって何人もいます。女や老人だって野生の魔物と戦うぐらいはできます。幸いラグナイの者達が武器を残していますからね。第一、イドリスが滅んでは私達だって帰る場所がなくなるのです。だから、戦いなさい」
それでソロンも決心した。
母達だって、イドリスのために戦うつもりなのだ。たとえ戦争に参加しなくとも、自分なりに協力してくれている。ならば、その気持ちを無駄にしてはならない。
「分かった。砂漠には僕と仲間達で行く。母さん達も気をつけて」
念のため兵士を三人、母達の護衛として割り当てることにした。
ラグナイ兵の捕虜も、母に任せた。
捕虜の兵士と話をした限りでは、ザウラストの司祭のような狂信は感じなかった。彼らは治療に対しても、丁寧にお礼を述べていた。
解放した虜囚用の食料が足りるか心配はあったが、これはすぐに解決した。ラグナイ軍が持っていた物資は、武器以外にも豊富にあったためだ。
全て生贄に捧げるつもりだったろうから、虜囚用の食料は片道しか確保していなかった。だがラグナイの者達が死亡したため、その帰り用の物資が余っていたのだ。
既に持ち主はこの世にいない。ありがたく頂いておくことにした。
そうして再会して早々、母達と分かれることになった。
母はまたもソロンを抱きしめて、
「皆様、ソロンのことをどうかよろしくお願いします」
と、深々と頭を下げたのであった。
*
三人の兵士がペネシア達に同行したため、ソロン達の一行は七人となった。帰りは既に一度通った道である。これだけの人数がいれば心配はなかった。
砂漠へ向って北へと騎馬を駆っていく。
「ソロンのお母さん凄かったね。イカレポ○チだって」
竜車の手綱を握っていたミスティンが、ふとそんなことを言い出した。
……救出する前のやり取りをしっかり聞いていたらしい。まあ、ソロンにも聞こえていたので当然だが。
「ミスティン、淑女はそんな言葉を口にしてはいけません」
アルヴァがすかさず注意する。どうやら、母は淑女として失格らしい。
「……それは忘れてもらえると嬉しいかな。ま、まあ、あんなに怒ることは滅多にないんだけどね」
「それにしても、見事な金的だったな。そういや、どっかのお姫様もやってたっけなあ」
グラットが視線をアルヴァへと向ける。
「……護身術の基本ですから。ペネシア陛下も民を守ろうと必死だったのでしょう。立派なお母様ですね」
「そ、そう言ってもらえると嬉しい」
ソロンが苦笑すれば、アルヴァはこちらの顔をしげしげと見つめて。
「ソロンはお母様によく似ていますね。きっとペネシア陛下も、昔はソロンに似た可憐な方だったのでしょう。今だってあんな大きな子供がいるとは、信じられないほど若々しいですね」
……微妙に引っかかるが、母を褒められて息子として悪い気はしない。
「確かに相変わらず若いよね。僕なんか、もっと歳相応にふけてもいいって思うぐらいだよ」
「……マザコン」
ミスティンがボソッと言ってはならぬことを言った。
「いけませんよ、ミスティン。そんなことを言っては。両親を慈しむ気持ちはとても尊いものです。からかってはなりません」
既に両親をなくしているアルヴァがたしなめた。それから、慈愛に満ちた表情をソロンに向けて。
「――ソロン、私はたとえあなたがマザコンでも、蔑んだりは決してしません。どうか安心してください」
そもそも、蔑まれる前提なのだろうか……。
「でもなんつうか、お前って絶対母ちゃんに甘やかされて育ったクチだろ。性格がモロにそんな感じだわな」
グラットが納得顔で断定する。
「ほっといてよ……」
余計なお世話である。しかし、微妙に当たっているので反論しづらかった。
ともあれ一段落はついたものの、ソロン達の戦いはまだ終らない。急ぎイドリスに戻って、兄に加勢するのだ。
ググればわかりますが、イカレポンチのポンチとは『坊っちゃん』を意味する言葉です。決して卑猥な意味ではありません。
淑女の皆様もどうぞ日常会話などにご活用ください。
なお、何らかの社会的不利益が生じても、当方は一切の責任を負わないものとします。