カオスの狂宴
呪海の亀裂――その縁に王都イドリスから連れられた虜囚達が並んでいた。
数十人の虜囚を囲んでいるのは、十人の武装した男達。ラグナイ王国軍の兵士だった。
兵士達の先頭には赤い衣をまとった男が立っていた。ラグナイ王国の国教――ザウラスト教団の司祭である。
その隣には、三人ほど赤い衣をまとった神官が従っていた。
司祭は呪海に向って恍惚たる笑みを浮かべていた。それから何事か呪文のような言葉を唱え出した。
ラグナイ王国の言語はイドリスとも大きな違いはない。古くは様々な言語があったこの地方であるが、いつの間にか言語的な統一がなされていた。
しかしながら、そこで唱えられる呪文はイドリスの者達にも分からなかった。ザウラスト教団に伝わる古い言葉だろうか……。
やがて、司祭の呪文が途絶えた。儀式の手順が一つ終わったようだった。
その合間、虜囚の一人を兵士が前に押し出した。少しやせ細った赤髪の女性――イドリスの王妃ペネシアその人だった。
ペネシアの手は後ろに回されて、鎖でつながれていた。
足は一応の自由だが、手を縛る鎖は他の虜囚とも連結されている。大きく動けば他の者を巻き込むため、逃げることは困難だった。
「こんな非道が許されるのですか? どうしてあなた達は、このような行いができるのですか?」
ペネシアは司祭に向かって声を張り上げた。
抵抗ができない以上、動かせるのは口だけだった。ザウラストの司祭に説得が通じるとは思っていない。
それでも彼女は王妃だ。虜囚となった民のため、何の努力もしないわけにはいかなかった。
「これは決して非道ではありません」
司祭は動じることなく答えた。
「――あなた達は我らが神の血肉となるのです。何も悲しむ必要はない。俗世から解き放たれ、新たな段階へと昇華されるのですから」
司祭はまるで、それが吉事か何かのように朗々たる声で言い放った。
ペネシアは虜囚の代表として、道中も何度となく司祭に声をかけていた。しかし、彼は決まって今のような答えを返した。
司祭はペネシアの口に封をしなかった。
自らの信念に誤りはないと、いつでも問答に応じる構えをとった。それだけ見れば、堂々たる宗教家の態度と見えなくもない。ただし、彼の返す理屈がまともであればだが……。
「それならあなた達が、まず呪海の中に身を投じればよいでしょう! なぜ異教徒である私達にそれを押しつけるのですか!?」
ペネシアの言葉に、司祭は深々と頷いた。
「ええ、ええ。あなたのおっしゃる通りですとも。いずれは我らもカオスの海へと身を投じる所存です。ただ我らには、それぞれ神の使命が課されています。生涯を終えるその時まで、身を投じるわけにはいかぬのです」
「あなたは一体……なにを……」
あまりに意味不明な理屈に、ペネシアも言葉を失うしかない。
そんな彼女にほほえんで、司祭は語りかける。
「カオスとは全ての始まりにして、生命の行き着く先……。ゆえに、やがてはカオスへ還るのもまた人の宿命です」
「そんな宿命は、わたくしどもの知ることではありません」
冷然と突き刺すようなペネシアの言葉も、司祭には届かない。
「それでは人はなぜ生きるのか……。人のあるべき場所がカオスであるならば、人が俗世に生きる意味とは何なのか?」
「…………」
口を挟む気力も萎えてきた。
「そう――その答えは人が生きる目的もまた、カオスへ奉仕することだからです。人を産み育て、人生の最期にカオスへと身を投じること。カオスの円環より外れた異教徒を再びその御手に還すこと。――それこそが、わがザウラスト教団の背負った宿業なのですよ」
……全く理解不能だ。そもそもなぜ、彼らはこれほどまでカオス――呪海を信奉するのか……。その原点からペネシアには理解しがたい。相手が同じ言語の通じる人間とは、到底思えなかった。
「狂っています! そんなのは妄執です! あなた達も、それでいいのですか!? こんな狂った教団に協力して、いったい何の意味があるというのですか!? 目を覚ましなさいっ!」
司祭に語っても効果がない。そう判断したペネシアは、後ろの兵士達へ向かって呼びかけた。
司祭と神官――ザウラスト教の聖職者に動揺は見られない。ただラグナイの兵士達は、わずかにたじろいだようにも見えた。それでも彼らは口をつぐむばかりだった。
「無駄です」
司祭はこれ見よがしに溜息をつく。
「――あなたが何を叫ぼうとも、何を足掻こうとも、海に投じられた小石ほどの波紋も起こらない。ですが、嘆くことはありません。苦痛も、苦悩も、全てはカオスの神に捧げる供物となるのです。神はその御手で受け止めてくださるでしょう」
語り終えた司祭は、ペネシアへ余裕に満ちた態度で歩み寄った。
その瞬間――ペネシアは思い切り足を振り上げた。
「ヴぼぁっ!?」
蹴りは司祭の金的に見事命中した。惜しむらくは聖職者用の衣が厚く、想定より強く入らなかったことだ。
「な~にが、カオスの神よっ! わっけ分かんないこと言って! この狂人! クソジジイ! イカレポ○チ野郎っ!」
うずくまる司祭を、ペネシアは罵倒する。
「さすが、王妃様!」「ざまあみやがれ!」
虜囚達から喝采の声が上がった。
……計算があってやったことではない。
意味不明な理屈に、ペネシアの堪忍袋は限界を越えたのだ。ついでにいえば、普段の彼女は決してこんな言葉使いはしない。少なくとも二十年ぐらいは使っていない……はずだ。
「ふっふふ、ふ……。やってくれましたねぇ……。で、ですが、カオスの神に仕える私には卑劣な金的など通用しませんよ」
司祭は股間を押さえながら、言葉を絞り出した。
表面上はまだ余裕をつくろっているが、明らかに効果があった。無論、カオスの神を信仰したからといって金的に強くなれるはずもないのだ。
ペネシアはとてもスカッとしていた。
司祭は引きつった笑みを浮かべながら、どうにか起き上がった。
「……いいでしょう。カオスの神は全てを許してくださいます。あなたのような愚かな子羊も、神は平等に飲み込んでくださるのですから。さあペネシア王妃、まずはあなたから神と一体化なさるのです」
「…………!」
いよいよこの時が来たと、ペネシアの身の毛がよだつ。
「カオスの神へ、祈りを捧げなさい」
無情にも司祭は告げた。
それから彼は杯を左手に取って掲げた。材質も得体のしれない黒い杯だった。
兵士の一人が、彼女と他の虜囚をつなぐ鎖を断ち切った。解放するためではない。呪海の亀裂へと彼女を投げ込むためだ。
両隣にいるラグナイの兵士が、王妃の腕をつかんで離さない。
「やめなさい……!!」
ペネシアは抗議をしたが、司祭の顔色は仮面のように微動だにしない。声もなく顎をしゃくって、兵士へ合図した。
両隣の兵士は頷きもせず、ゴミでも捨てるように彼女の体を呪海へと放り出そうとした時――
兵士の胸元に矢が突き刺さった。
次の瞬間には、兵士は衝撃を受けて吹き飛んでいた。