呪海の亀裂
昼闇の砂漠を抜けた一行は、そこで昼の休憩を取ることにした。
「浮かない顔をしていますね。お母様のことですか?」
昼食中のソロンにアルヴァが声をかけてきた。知らず知らずのうちに、緊張が伝わってしまったのかもしれない。
「それもあるけど……。それより、ここから先に呪海の亀裂があるからね」
「そんな悲壮な顔をするような場所なのでしょうか? なんだか見ているだけで、心配になってきましたよ」
「そんな顔してたかな。でも実際、気持ち悪い場所だからね」
ソロンの返答に、アルヴァは訝しげにしていたが。
「ふむ……。それでこれからどうしますか?」
「計算に間違いなければ、敵より早く到着できるはず。敵は東のセベア村を経由してくるだろうから、呪海の亀裂に沿って村を目指そう」
ドンタイア村で報告を受けて以降、実際に敵がどのように動いたかは分からない。想定通りに進んでいるという確証はないのだ。
だが、ここまで来た以上は腹をくくるしかなかった。
*
昼休憩を終えて、ソロン一行は南へと出発していた。
まずは直進したところにある呪海の亀裂を目指す。
想定ではセベア村の近辺で、ラグナイ軍を待ち伏せする予定だ。ただし、敵の移動が速ければ、村を通りすぎて呪海の亀裂まで迫っている可能性もあった。
その場合でも、呪海の亀裂沿いにセベア村へ向かえば問題ない。これなら敵がよほど変則的な経路を取らない限り、行き会えるはずだった。
黒雲下から南へ離れていくたびに、土地が豊かになっていく様子が見て取れる。木々が林立し、動物の姿もちらほら見えた。
ところが遠くを見れば、その自然がまたも陰っていく。
緑が減り、地面がむき出しとなっている地形が徐々に見えてきた。この辺りは白雲の下で、十分な降雨もあるはずだ。それがなぜ、このような事態になるのか……。
その答えはすぐにやってきた。
「あれって……?」
ミスティンが視界に何かをとらえた。
少し進んでソロンにも『それ』が見えてきた。
「来たみたいだね」
何が見えるのかは知っていたため、ソロンは驚いたりはしない。
「呪海だ……」「大丈夫なのか?」
後ろの兵士達もざわめいた。
彼らにしても、子供の頃から呪海についての伝承を聞いて育っているのだ。心の奥底に恐怖心が刻まれていても不思議ではない。
「あれが……呪海の亀裂なのですか?」
『それ』を遠くに見て、アルヴァが静かにつぶやいた。
巨大な亀裂が、遥か南から川のように到達している。ただし、その川の中にあるのは青い水ではない。呪海の一端――赤く光る何かで、そこは満たされていた。
「よく見えねえけど、なんか気味がわりいなあ……」
そう言いながら、グラットもミスティンもそちらの方向に進もうとする。
気味が悪いが、それだけに確かめずにはいられないようだ。赤い光に向かって馬を歩かせようとするが……。
「あんまり、近づかないほうがいいと思うけど」
ソロンが警告すれば、アルヴァが怪訝な顔を向けてくる。
「危険なのですか? 例えば、瘴気のようなものが充満しているのでしょうか?」
「いや、近づくだけなら大抵は大丈夫だけど。いい気分にはならないと思う」
「んん? そんなに臭いのか?」
「そういうわけじゃないけど……」
グラットの疑問に、ソロンは言いよどむ。
呪海については、どう形容したらよいだろうか。ソロンにしても、初めて見た時は自分の目を信じられなかったのだ。
事に彼らは上界人だ。こればかりは己の目で見なければ、理解できないのも仕方がなかった。
「何だよ。煮えきれねえなあ。そんなふうにもったいぶられたら、よけい気になるじゃねえか」
「私も、興味津々」
この調子では止めるのが難しそうだ。あれは見るものを恐怖と共に、奇妙な魅力で惹きつけるのだ。
「それじゃ行ってみる? あんまりお勧めはしないけど……」
仕方なくソロンはそう言った。無理に拒否するよりも、自分がいる時に見たほうがマシだと判断したのだ。
怖いもの見たさか、三人ともが頷いた。
*
呪海の亀裂――それは呪海が内陸へと切れ込んだ地形である。
ソロン達は下馬し、遠くから見えるそれに近づいていった。馬や竜を近くに連れていかないようにと、ソロンは注意しておいたのだ。
本能が訴えるのか、動物も呪海に近づくことはない。それどころか、魔物すらも呪海を避けるのだった。
他の兵士にも少し離れて待つように言っておいた。わざわざ近寄ってまで呪海を見たいという者はなかったので、これはすんなりと承知してもらえた。
近づくたびに生命の気配が消えていく。緑は色を失い、地面は荒れた肌を露出させていた。
死の大地と称されることもある砂漠であるが、そこにだって生命は存在する。
獣や虫の姿がちらほら見えるし、サボテンのような植物もある。サラマンドラや砂鮫のような魔物にしたって立派な生命だ。
ところが――ここにあるのは本物の死の大地だった。
動物はおろか魔物すらいない。草花はおろか枯木すら見えない。むき出しの大地には、苔一つも生えていない。生命の息吹は微塵も感じられなかった。
そうして、そばにたどり着いた四人の目に、奇妙な光景が映り込んできた。
陸地の中に川のように切れ込んだ亀裂。そしてその中には血のような赤黒い――霧とも液体とも判別のつかない何かが満たされていた。
上界に例えていえば、赤黒い雲海だろうか。それは怪しく赤い光を放っていた。――そう光なのだ。これは真夜中に見たとしても、この赤は目に入ってくるに違いなかった。
見ようによっては、神秘的な光景といえたかもしれない。だが、そこには雲海のような美しさはない。ただ混沌とした何かが渦巻いているだけだ。
ソロンは他三人のほうを見たが、みな言葉もないようだった。
「なんだか怖いね……」
重苦しい沈黙が続く中で、ようやくミスティンが訴えたのは恐怖心だった。
「……私も同感です」
ミスティンに続いてアルヴァも心情を吐露した。取り乱して叫んだりするような彼女達ではないが、本能的な恐怖を抑えることは難しい。
悪寒を感じているかのように、アルヴァは自分の体を抱いていた。
理屈ではない。呪海を見た者は、本能的な恐怖に心を支配されるのだ。
そこには匂いもなければ音もない。それなのに、なぜこれほどの恐怖を感じるのか……。それは誰にも説明できなかった。
「ああ……。本当に気色わりいなあ。お前が嫌がる理由も分かったよ」
グラットはそう言いながらも、呪海から目を離せないでいた。呪海は見る者を恐怖させると共に、不思議と惹きつける。
「……あの杖に似ているような気がします」
アルヴァが辛い心境を吐き出すように言った。
かつて彼女が振るった女王の杖――その杖先には黒い魔石が取りつけられていた。そして魔石の中には赤黒い霧が渦巻いていたのだ。
ただしそのことは、彼女にとって最も思い出したくない事柄でもあったろうが……。
「――この呪海が……この先もずっと続いているのですね?」
「うん、どこまでもだよ。下界の陸地がなくなった先からも、世界を囲むように広がっているんだ」
川のように伸びる呪海の亀裂はどこまでも続いていた。赤い水平線のようになっていて、どこまで続くのかは窺いしれない。
あの先には世界の果てがあるのではないだろうか――そんなふうに考えたくなる光景である。
いや、まさしく呪海こそが世界の果てそのものかもしれない。少なくとも生命にとってそれは、決して踏み越えられない境界線なのだ。
「やっぱり、神竜教会の『呪い』と同じものなのかな……」
ミスティンがつぶやいた。
神竜教会の伝承にある『呪い』。それは古い世界の大半を飲み込んだといわれる。
「うん、たぶん同じものだと思う」
確信はない。だが、それ以外に考えようがなかった。まさしくこれこそが、かつて世界を飲み込まんとした『呪い』なのだと。
「いつから、こうなったんだ?」
グラットは後ずさりながら、質問を投げる。
「いつから……ね」
ソロンは首をかしげながら。
「――伝説だと元々は海があったらしいんだけどね。でも、そんなことは本気で考えたこともなかったな」
下界の人間にとって、呪海は常識のように存在する。だからこそ、それが何であるか真剣に考える者は少なかった。
「いや、普通は疑問に思うだろ。こんな気色悪いもん」
「そう言われてもね。君達にとっての雲海みたいなもんだよ。上界がなぜ雲海の上に浮いているのか? いつから雲海があるのか? 神話や伝説で説明されてはいても、それ以上深くは考えないでしょ」
ソロンの説明に、アルヴァは頷く。
「一理ありますね。我々は、あるものはあると受け入れるしかないですから」
上界と下界を行き来したソロンだからこそ、二つの世界が持つ驚異に思い至ることができた。それは他の三人にしても、同じことだろう。
ソロン以外の三人は、吸い寄せられるように呪海を眺めていた。それで、ソロンは注意した。
「間違っても、気分が沈んでいる時には近づかないでね。あれに飛び込む物好きな自殺志願者がいるんだって」
「飛び込んだら……どうなるのですか?」
アルヴァが恐る恐ると聞いた。積極的に聞きたくはないが、聞かないのも気になる――だから仕方なくといった風情である。
「少なくとも死体は絶対に見つからない。だから、この近辺では自殺の疑いがある行方不明者を無理に探すことはしない」
「そりゃ、後始末がいらなくて便利だなぁ……」
グラットは軽口を叩いたが、その口調は重かった。呪海を目にして、余裕を保っていられる人間などいないのだ。
「私はもういいかな」
ミスティンが短く言った。
それだけで他の三人にも意味は伝わった。早くここから離れたいと、全員が考えていたのだから。
「そうだね。早く捕まったみんなを探しに行こう」
虜囚を連行するラグナイ軍は、セベア村を経由して東から来るはずである。
ソロンの方針では、呪海の亀裂に沿って村へ向かう予定だ。要は西へ向かってくる相手を見逃さなければよいため、亀裂から適度に距離を取っても問題なかった。