竜玉船の上で
見渡す限りに広がる一面の白い海。
人々はそれを雲海と呼んでいた。
そして、雲海の上を進むのは一隻の船。
帆も風もなく動作するその船を、人々は竜玉船と呼んでいた。
雲海には水のような抵抗がないためか、意外なほど静かだ。竜玉船は滑るような速さで北西を目指していた。
* * *
「船が雲の上に浮かぶなんて、信じられないですね……!」
甲板に立った少年――ソロンは感動をあらわに、そばの船長へと声をかけた。
雲海の上に吹く強い気流が、ソロンの赤髪をなびかせている。
船旅の途中まで、ソロンは船内の倉庫にいたのだ。そのため、雲海を駆ける竜玉船の雄姿を、甲板から体験したのは今が初めてだった。
「……なあ、兄ちゃん。お前、自分の立場分かってんのか?」
対する船長の反応は冷ややかだった。
むさ苦しいヒゲを生やしたハゲ頭の船長は、怒気を込めてソロンを見下ろしている。
その他にも、四人ほどの船員がソロンを囲んでいた。
いずれも、海の男ならぬ屈強な雲海の男。それと比較すれば小柄なソロンなど、か弱い少女のようにも見えてくる。
「ええと、あの……」
ソロンは帆のない帆柱を背に口ごもった。
両手と胴体は帆柱に縄で縛りつけられて、自由にならない。背負った刀ごと縛られたせいで、背中がゴツゴツと痛んだ。
「密航だぞ、密航! 俺の船にタダで乗ろうなんざ、ムシがいいとは思わねえのか!?」
船長はソロンの肩をつかんで畳みかけた。
「なんだ、どうした?」
「密航だってさ」
そうこうしているうちに騒ぎを聞きつけたのか、大勢の乗客達が集まって来る。みな遠巻きにこちらを眺めていた。
「いや、その……。僕も悪いことだとは分かってたんです。ただ、やむにやまれぬ事情がありまして……」
ソロンは船長から視線をそらし、しどろもどろに答える。
口だけではない。悪いことだと思っていたのは本心だ。ただソロンには、悠長にしている時間がなかっただけなのだ。
深夜の港町。停泊していた竜玉船へ乗り込んだソロンは、船倉に隠れて出発を待つことにした。
船の目的地は、ここ一帯を統べるネブラシア帝国の帝都。
朝になって目論見通り船は出発し、途中までは順調に運んでいたのである。
誤算だったのはこの後だ。
ソロンにとって船といえば、もちろん海や川をゆくそれのこと。船とは酷く揺れるものであり、初めて乗った時は船酔いに悩まされたものだった。
対する雲海の船――竜玉船は揺れも少なく、意外なほど乗り心地に優れていた。ソロンの知る海の船とは、文字通り雲泥の差である。
ゆりかごのような心地よさに包まれて、ソロンがつい眠ってしまったのも仕方ない。
やがて、倉庫の点検に訪れた船員は、眠りこけた赤髪の少年を見つけたのだった。
そうして、目覚めた時にはご覧の有様。
ソロンは甲板の帆柱にくくられて、船員達に囲まれていたのである。
「お前の言い訳はどうでもいいんだよ! それより、対価は払ってもらう。身ぐるみはがしてでもな」
船長はそう言うなり、ソロンの持ち物へと目を留めた。
「――んん? 随分と立派な剣を背負ってるじゃねえか。ガキのクセに妙なもん持ってやがる。それだったら、ちっとは金になるかもしれねえな」
「刀はダメなんです! これは大切なもので……」
凄む船長に抗おうと、ソロンは必死で首を振る。
それを無視して、船員の一人が背中の刀を取り上げようとするが……。
「おじさん、かわいそうだよ。その子、あんまり悪い子には見えないし」
乗客の輪から一歩踏み出したのは、若い娘だった。
甲板で公然と詰問されるソロンを見て、哀れを催したのかもしれない。
ソロンよりも少し歳上ぐらいだろうか。娘はきらびやかな金髪を後ろでくくっていた。
「ああん、人相よけりゃ悪人じゃないってか? 俺ら人相は悪いが、真っ当に生きてるぜ? そら、姉ちゃんは黙ってな。それとも、あんたが払ってくれるのか?」
船長は娘を追い払うように、手首を振って見せたが、
「分かった、私が払ってあげるよ」
娘は迷うこともなく答えた。
けれど、ソロンだって人の厚意に甘えるわけにもいかない。
「ちょっと、待って! お金だったら持ってるんです!」
「じゃあ、なんで密航してんだよ!?」
身を乗り出して訴えれば、怪訝そうに船長がこちらをにらんだ。
「えっと、あの……。鞄から袋を出してください」
両腕がふさがっているソロンは、腰に付けた鞄を顎で指し示す。
「んん、これか?」
それに従って、船員が鞄へと手を入れた。取り出した袋を甲板へと下ろせば、どっしりとした金属音が鳴る。
開いた袋の口から覗いたのは――
「……おお、まさかこれ、金貨か!?」
途端、船員達から歓声が上がった。
前のめりになる船員達を船長が制する。
船長が代表して、金貨を袋からつまみ出す。全てを合わせれば、一年ぐらいは生活できるであろう膨大な金貨だ。
「……って、なんじゃこりゃ?」
ところが、金貨をしげしげと見やって船長は首を傾げた。
「だから、金貨ですけど……」
お金はあった。ただし、この国の通貨ではなかったのだ。
「おい、てめえら。こんな金貨見たことあるか?」
船長は部下へと金貨をさらして問いかけた。
「ねえっすよ」
「プロージャでもサラネドでも、こんな金貨は見たことねえですぜ」
近隣諸国らしき名前を挙げながら、船員達は断言した。船乗りというだけあって、各国の通貨には詳しいらしい。
「……だそうだ。オモチャの金貨じゃ残飯も食えねえよ。残念だったな」
船長はソロンの頭に手を乗せた。その目は怒りを通り越して、哀れみに達していた。
「オモチャじゃないんです! 故郷だとちゃんとした通貨だし、金だから価値だってありますよ!」
半泣きになってソロンは訴える。
この国の通貨ではないといっても、金属としての値打ちはあるはず。だのに、商人に両替を頼んだら不審がられて追い返されたのだ。悪戯か何かと思われたのだろうか。
ソロンの行動に、故郷の命運がかかっている。一刻も早く、帝都に行かねばならない。
そうして焦った末、ソロンは密航という手段に訴えたのだった。
「誰がそんなの信じるかよ。どうせこりゃ真鍮かなんかだろ?」
真鍮というのは銅と亜鉛の合金と聞いた覚えがある。見た目こそ金に似ているが、価値は比較にもならない。
もちろん、ソロンが持つそれは正真正銘の金貨だ。そもそも故郷には、そんな合金を生み出す技術もなかったのだから。
「金だって言ってるじゃないか! ウソだと思うなら、ちゃんとしたところで鑑定してよ!」
ソロンは必死に抗議を続けたが――
「うるせえよ!」
痛みが頬に走った。
太っちょの船員がソロンを殴りつけたのだ。とっさに頭を動かして避けようとしたが、あいにく身動きが取れなかった。
「おじさん、それは酷いよ!」
金髪の娘が船員をにらみつけた。屈強な男に対して、一歩も引く様子がない。見た目に反して、気が強いようだ。
「そうだぜ。それでも雲海の男かよ。女の子の顔に傷がついたらどうすんだ?」
乗客の中から、もう一人の乱入者が現れた。
二十歳を過ぎたと思われるたくましい青年だ。跳ね上げた茶髪が活動的な性格をよく表している。背中には槍を背負っているが、傭兵か冒険者といったところだろうか。
この相手には太っちょの船員も気圧されたようだった。
……それはともかく、女の子とは誰のことだろうか?
「いや……こいつよく見りゃ男だぜ。さすがに女は殴らねえよ」
太っちょの船員がソロンを指差して弁解した。
「マジで……!?」
茶髪の男は顎が落ちそうなほど口を開けて、ソロンを凝視した。
「そうなんだ……」
なぜか金髪の娘までも反応した。空色の透き通った瞳が驚きに満ちている。
「いや、普通に男だけど。むしろ、どこをどう見たら僕が女に見えるのかなと」
旅に向いた丈夫な皮服に、着古したズボン。背中には刀。自分の服装を見直しても、女性的な要素は何もない。
強いて言えば、体格が華奢で、髪が少し長くて、童顔で、瞳がつぶらで、声が少し高くて、性格が大人しいことぐらいだ。女性的な要素はそれほど多くない……はず。
子供の頃に性別を間違えられたことはある。だが十七歳になっても、こんな扱いを受けるとは屈辱だった。
「…………」
一同は沈黙し、船上には気流の音だけが流れていた。
「あー、えーと……。男でもまあ子供だし、かわいそうだろ」
茶髪の男は見るからにやる気を失っていたが、それでも一応はかばってくれた。
金髪の娘も「うんうん」と頷いて、賛同してくれる。
「……ったく、殴ったのは悪かったがな」
船長は太っちょの船員を叩いて、軽く頭を下げさせた。そうして次のようにまとめたのだった。
「――だが、密航は密航だ。帝都に着いたら、働いて返してもらう。それまでは閉じ込めさせてもらうぞ」
ソロンも有無を言わず、素直に従うしかなかった。
*
ソロンが放り込まれたのは、薄暗い船室だった。
光源は高い窓からわずかに差し込んでくるだけである。
椅子も机も何もない殺風景な部屋で、ソロンは床に座り込むしかなかった。余った部屋なのか、あるいは問題を起こした者を入れる独房なのかもしれない。
武器である刀は取り上げられたものの、それ以上の拘束は受けなかった。ソロンは船員達に比べれば小柄なため、強くは警戒されなかったのだろう。
体を自由に動かせるのは幸いだが、退屈なことに変わりはない。
「せめて、雲海が見たかったなあ……」
一人になって、最初につぶやいたのがそれだった。
どこまでも続く広大な雲の海。その美しい眺めは、今もソロンの心に焼きついて離れない。
その一点だけでも、こちらに来た甲斐があったというものだ。故郷の皆は、あの光景を見ることなく一生を終えるのだから。
しかしながら、部屋の窓は高く、ソロンの背丈では届かない。これでは雲海を見ることも叶わない。
これだったらあのまま甲板で、縛られていたほうがよかったのではなかろうか。なんなら今からでも扉を叩いて、頼み込んでみようか。
もう一度、帆柱に縛ってください――と。
「……やっぱり、やめとこう」
そんなことを考えていると、コンコンと扉を叩く音が聞こえた。船員が様子を見に来たのだろうか?
「はい、どうぞ」
ソロンは素直に返事をした。
開いた扉から現れたのは金髪の娘。ソロンをかばってくれたあの娘だった。