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高嶺の花  作者: オヤジギャガー
主要登場人物
31/32

高嶺の花 終章

さて、そろそろ、この長い物語を、終えなければなりませぬ。あなた様とお別れするのは誠に辛いのですが、致し方のない頃合いでございます。なぜなら私、左座宗右衛門も、あなた様とは別の方角へ、旅出たなければならない身の上でございますから。




長らく私の独言(ひとりごと)のような話にお付き合いいただき、あなた様には、あらためて厚く御礼を申さねば。旅の先を急がれる御身にも関わらず、長々とお引止めしたこと、重々お詫びいたします。


お詫びすべきは、それだけではございません。


これまでのお話のなかで、自分のことを、左座は何々、などと、まるで他人を見ていたかのように語ってしまったこと。聞こえてもおらぬ会話、見てもおらぬ事などを、まるで見ていたかのように私の中の想像だけで語らってしまったこと。これは、武士の風上にも置けぬ卑怯千万な語り方であったかもわかりませぬ。かつてのあなた様ならば、もっともお嫌いになりそうなやり口でございますな。


ただ私は、この物語を、なるべく公平なかたちで、あなた様にだけはきちんと聞いておいていただきたかったのでございます。そのほとんどは、あなた様もすでにご存知の話。いや、大部分が、あなた様ご自身にまつわることでもございます。しかし、そうしたことどもも、また私の眼には違ったように映ることがございます。


常にあなた様の脇に侍り、あなた様のことを想い続けていた、この左座宗右衛門の眼に映った事実を。左座が感じ、左座が胸に抱いた想いの数々を。そうしたことを、ただ私が思うまま物語し、この私の想いをあなた様にありのままお知りいただくことは、今の私にとって、なにより大切なことなのでございます。




もちろん、何をどのように物語ったとて、還らぬ命が還るわけではございません。あなた様の旅立ちを、今さら止められるわけでもございません。


しかし、あの日、あのとき、この山口の町で生き、死んでいったすべての者たち。すなわち、氷上太郎、市川経好、元教、おたき。そして他にも、今はなき多くの者たち。かれらが望み、恋し、想い焦がれて掴んだ夢と、掴み損ねて落ちていった奈落の闇と・・・私は、ここに生きて、目にしたこと、耳にしたこと、そうしたことどもを夜通しすべて語り、あなた様とその想い出を分かち合いたかったのでございます。


そしてそれこそが、私があなた様に贈る、別れの言葉でございます。




ただ頭を下げ、笑い、「左様なら。」それだけ申せば良いのにも関わらず、それができないのがこの私でございます。斯様な自分自身の不甲斐なさを、私はこれまで、何度呪ったことやら。これだけ機会がありながら、面と向かって言いたいことも申せず、ただこうして、あなた様の旅立ちのどさくさに裾を引き、無理にお引止めして、くだくだしくこれまでのことなど物語るのです。


本当に情けなく、また申し訳のないことでございます。




かな様。


あなた様と知りおうて、はや三十数年の月日が流れます。かつてのあなた様がお持ちであった、あの輝くような美しさはすっかりと影を潜め、つややかな緑髪(りょくはつ)はばさばさと乱れ抜け落ち、(とろ)けるようであった(はだ)はすっかりくすみ、頬は落ち窪み、眼のまわりは、なにか蒼黒く(あざ)のようになってございます。


聞けば、いかな美女でも、死してのち穴に入り歳月経てば、見るもおぞましく崩れ、溶け、腐乱し、(うじ)に喰われて、さながら地獄の鬼のような有様になってしまうとか。おそらくは、あれだけ美しかったあなた様も、きっとその自然の(ことわり)の例外ではないのでございましょう。このまま時が経てば、私が密かに慕い、恋し、憧れ続けたあなた様の面貌はすっかりと崩れ、腐敗し朽ちてゆき、やがて土へと還ってしまうのでございましょう。




いや。ご安心ください。左様なことには、なり申さぬ。私はまもなくここを去り、やがて夜が明け、入れ替わりに隆久様がやって来られる筈でございます。あのお優しい、徳丸さまが長じられたお姿でございます。隆久様には先ほど私から便りし、昨夜、あなた様が身罷(みまか)られたことをお伝え申し上げております。孝心厚き隆久様のこと、きっと、あなた様の冷たい手を取りてさめざめと泣き、顔を撫ぜ、ひとこと、ふたことこれまでの詫び言など申されながら、連れて参った家臣どもに銘じて、あなた様の亡骸(なきがら)を丁重に棺に入れ、国清寺へと運んで行かれる筈でございます。


国清寺に、もう恵心和尚は居りませぬ。しかし、あれだけ口を極めてあなた様の行いを非難しておられた和尚も、あなた様をお迎えすることに、今となっては何も反対なさいますまい。あの籠城の際の般若のようなお振舞いについて、あまりにも驚き、失意のあまり晩年はあなた様を拒みましたが、和尚も、あなた様を愛し、あなた様に好意を寄せていた多くの人々のうちの一人なのです。


ご安心ください。あなた様には、すでに、心安らかに御休みいただける静かな墓所が、国清寺の片隅に、ひっそりと用意されてございます。


元教様が亡くなられたあと、正式に市川家の跡取りとなった元好(もとよし)様は、お父君のあとを継いで山口奉行となられ、あちらこちらを忙しく行き来しております。世上の噂では、お父君に勝るとも劣らぬ名奉行ぶりで、毛利家の西の安定に多大な貢献をされておられるとか。やはり血は争えぬものか、実の父上の政務における稟質(びんしつ)を遺憾なく受け継がれたご様子。もちろん、あなた様の凛とした意志の(つよ)さ、そして深き海のような優しさといった美質も、存分に受け継がれ、両のお子のなかに、たしかに生きておりまする。


そんな元好様、隆久様がおわす限り、市川のお家は安泰でございます。聞けば、宮庄家も、安芸にてまずまずのご繁栄ぶりとか。お家のことで、あなた様が心煩わすようなことはございませぬ。どうか、ご安心くださいませ。




晩年のあなた様の隠棲を陰ながらお支えしたうちの一人、山内林泉軒は、いまでも健在でございます。毛利家、市川家の庇護のもと、西国との交易に腕を振るい、かつての敵国、豊後とはさまざまなつながりを持ち、之によりて大きな利を得ておるとか。いつの間にやら斯様な(つて)を、とか、いまさら問うのも無粋と申すもの。あの男のこと、またうまく差配して、何やらすれすれの商いでも続けておるのでございましょう。


林泉軒も、表立っては申しませんが、幼きみぎりよりあなたを怖れ、憎み、しかしどうしようもなくあなた様に魅かれ続けていたのです。


あの男にとってあなた様は、永遠の高嶺の花。かつての林泉軒であれば、虚栄の心を満たすため、弱り切った晩年のあなた様をわが手に入れようと、何やらよからぬことでも画策したかもしれませぬ。しかし、今のあの男は、決して、そうしようとは致しません。何故ならあのとき、抜荷の種子島を高嶺の城へと大量に運び入れて来たとき、林泉軒は、遥かな高みに、仰ぎ見たのでございます。櫓門の上に堂々と立つ、あなた様の美しき、どこまでも神々しき姿を。


それは、手に取ろうとしても取れぬ、高嶺の花。手を伸ばしても触れられぬ、禁断の花。あなた様をただ仰ぎ見ている限り、林泉軒は、よき人間でいられるのでございます。しかし、身の程をわきまえず、いったんあなた様をわがものとせんと図るや、俄に運は尽き、奈落の底へと墜ちていってしまうのでございます。(さと)彼奴(きゃつ)めは、そのことを、あの籠城の日にはっきりと悟ったのでございましょう。




その林泉軒の支えにより、私は七年ものあいだ、あなた様のもとでひっそりとお仕えして参りました。私は、この山中の寂しき庵を整え、粥を焚き、落葉を掃き、月の出る夜には庭に出てひとさし舞うなどして、病魔に冒されたあなた様のお目を愉しませることに努めてまいりました。


元教様ご生害のあと、あなた様の心は、すっかり草臥(くたび)れ、毀れてしまわれました。かつての聞かん気も影を潜め、あの深い海の如き優しさもどこかへ消えてしまい、あなた様はただ移ろう日々を、ただ(ぼう)っと過ごされるばかりで御座います。そして、そんなあなた様を、次々と病が襲い、取り付き、責め苛みました。


しかし庭に出て、月の光の下で私が舞うときにだけ、あなた様の瞳は潤み、きらきらと輝き、月や星々の光を映しながら、どこか遠くを見ておられるのです。


その目の先には、いったい、何が映っていたのでございましょう。あの幸せな、三人の子らとのひとときでしょうか。つねに心優しき夫であった、経好様の温顔でありましょうか。それとも、あの若き氷上太郎の、人の心を魅きつける笑顔でございましょうか。




はるかな昔、月の満ちる晩。氷上とあなた様は、ここ鴻ノ峰の中腹に拓けた小さな平地に立てられたお堂の上で、ふたりで座り、肩を寄せ合い、さまざまなことを語り、笑い、そして泣いておられました。そして私も、そこに居りました。近くの樹林の陰に潜み、そっと、密やかに、一晩中まんじりともせずにそのさまを遠くからただ眺めておりました。


私には、その時は永く、永く、永遠に続くのではないかと思われました。狂おしく、羨ましく、妬ましく。醒めた怒りの炎が、やるせない憤りのようなものが、この胸に、凍るような冷たさで、闇の彼方から吹きつけて参るのでございます。


暗闇の中に身を没してただ立ち尽くす私の耳には、二人が話している言葉など、聞こえはしません。しかし、そのときの私には、すべてがわかりました。あの時、あなた様は、氷上太郎のものでした。




あなたになにも言えぬ私は、嫉妬しました。この胸のうちを、この想いを、ありのままあなたにぶつけることのできぬ臆病者の私は、氷上を、終生の友と誓った仲のあの男を、わが(くら)き怒りの矛先としたのでございます。あの柔らかな微笑み、生まれながらの家柄と人品、人の心を瞬く間に捉える、えも言われぬ人としての魅力。それまでは、友として大いに認め、敬っても来たあの男の美質は、その時からすべて私にとって忌まわしきものとなりました。


私は、あの男の未来を閉ざす方法を思い付きました。それは誠に簡単なこと。豊後の吉岡長増殿に、このことをただ有体(ありてい)に報告するだけで良いのでございます。安芸国から来た見目(うるわ)しき姫君に、氷上が蕩かされ、腰砕けになっている。氷上が転向(ころ)べば、山口に潜入した我らがみな危機に陥る。早々に召喚すべし。家柄(たっと)きあの男には、まだ他に利用価値やあらん。


わが報を受け、私を信頼する吉岡殿は、言う通りにしました。我ら両名とも、吉岡殿の意向には決して逆らえませぬ。氷上は悩み、悶え苦しみ続けましたが、結局、運命に抗うことはできませんでした。私は、目的を達しました。


しかし・・・氷上がいなくなっても、ただそれだけでは、あなた様はわたしのものにはならぬのです。わたしがこの胸のうちをお伝えできぬうちは、どうにもならぬのです。あなた様は、まだあの遥か高嶺に咲く、遠き遠き花のままなのです。


私は、昏き盲目の嫉妬の末、どうにもならぬことのために、終生の友を犠牲にしてしまったことに気づき、そのことを悔いました。自分の愚かさが嫌になり、自分の卑劣さを呪い、大内義長様に従いてただ無言のまま死のうとしました。それが、木偶(でく)の私にふさわしき最期でございます。しかし義長公の自己犠牲と叡慮に依りて命を救けられ、あろうことか、あなた様の次の夫となる方に拾われて、またここ山口に戻って参る仕儀と相成りました。




運命の悪戯。それは、ただあなた様と氷上太郎との間にだけ在ったことではございません。あなた様はお気づきになられなかったでしょうが、かつて、あなた様の嫁入行列に附き従ったときの私の胸のうちは、千々に乱れ、掻きむしられるような苦しさに満ちていたのでございます。


しかし・・・あなた様の夫は、よく出来た、あまりにもよく出来た男でございました。彼の人柄に心底惚れた私は、あなた様への想いを永遠に封印し、このまま、ただ市川家を護り奉る武人としてのみ生き、あなた様の血を享けた三名の子らを躾け、立派にお育てすることに終生をかけようと思ったのです。もちろん、元教様については特に。そうすることが、氷上に対する、私なりの贖罪にもなると思うたからでした。


あなた様への想いを封印し、ただ使用人としてお仕えし・・・いや、それは、私なりに幸せな日々でございました。そういえば、夫君から何度か妻帯を勧められましたが、私はそれを断り続けました。もしかしたら、そのときはまだ心のどこかで、まだあなた様への想いを捨てきれていなかったのかもしれません。




そして、氷上が戻って参りました。かつての約定を守り、しかも、ああも劇的な形で。あの日から、私たちのすべてが変わってしまいました。


そういえば、あのときのことに関し、まだあなた様がご存知でない事実がございます。あの哀れな細作、おたきのことでございます。


おたきは、かつての私や氷上同様、幼き頃に戦場で保護され、そのあとずっと吉岡長増殿に養われていた者でございます。齢が離れすぎておるため私は知らなかったのですが、豊後に戻ったあとの氷上、すなわち大内輝弘は、吉岡邸にて、おたきとは顔馴染みでございました。


吉岡殿は、氷上が、あなた様を想うあまりに本来の目的を忘れた時に備え、念のためにと、おたきを先んじて山口に送り込んでいたのでございます。おたきは、そのまま市川邸に入り込み、その日に備えておりました。目的は、豊後と連絡しつつ、いざという時には我身を捨て山口奉行の市川経好殿を害し奉ること。


ところが、意外にも経好殿本人は博多へと出征されてしまい、あとに残ったあなた様が、あのときあくまで降伏を拒む気勢を示したことから、おたきは、日頃よき女主人と慕うあなた様を、私情を()(しい)せんとするに至ったのでございます。


ところが、何も知らない男が、かつてそのおたきと同じ境遇で同じような役割を負っていた男が、横からそのさまを見ておりました。すなわち、私、左座宗右衛門が、やけに目につくおたきの動きを警戒し、市川家に仕える武人として、その凶行を妨げたのでございます。




しかし実は・・・氷上が戻って参る前、奥座敷にあの蒼い勿忘草(わすれなぐさ)を置いたのは、おたきではございません。あなた様には信じがたいことではありましょうが、あれは元教様が置かれたのでございます。元教様は、家内に潜入してきたおたきを通じて豊後とやり取りし、やがて上陸してくる父・大内輝弘の存在を、あらかじめあなた様に印象づけようと画策されたのです。


おたきが語る、義父・経好様のお討死の報を信じ込んだ元教様は、やがて舞い戻って参る自身の実の父上と、あなた様が再びご一緒に仲睦まじく暮らされることを心から望んでおられました。そのとき、あなた様がなるべく強情張って抵抗せず、素直に父上に従うように仕向けたのでございます。


このこと、決して間違いございませぬ。なぜなら、私は元教様が身罷られた、まさにあの晩に、周囲へ炎が廻る中、舞い終わり扇を閉じた御本人から、それを(じか)に教えられたのですから。


しかし元教様も、母の、経好様に対する敬慕と家族に対する深き想い、そしてなによりも武家に生まれし娘としての誇りと気概とを、あまりに軽く見すぎていたようでございます。そして籠城初日、まさかあの林泉軒が、ああも大量の種子島を持って参るとは思わず、それを巧みに用いて私やあなた様がよもや父の大軍を撃退するなどとは思っておられなかったでありましょう。また、ご自身がその一軍の指揮を執る羽目に陥るなど、考えてもおられなかったでありましょう。


まこと、皮肉な顛末で御座います。天は皮肉がお好きなようで・・・天なのか、仏なのか、あるいは、氷上が信じた邪宗の神なのか。いずれにせよ、天上におわす尊き御方は、性質(たち)の悪い悪戯がとてもお好きな方のようでございます。これから私は、まっすぐ地獄へと参る訳でございますが、もしかして極楽も地獄と、そしてこの(うつ)()と、さして変わらぬ場所なのかも・・・何卒、何卒、あちらでもご自愛くださいますように。




そして、その元教様のご最期についてでございます。なぜ、あのとき謀叛がとつぜん露見したのか。私は、ずっと不思議でございました。しかし最近、だいたいの見当がつくようになって参りました。


大友氏との和睦のあと始まり、長年に亘って毛利家を苦しめた織田勢との危急存亡の大戦。織田信長公が手下に討たれ、その勢が四分五裂し、つい先年、あとを襲った羽柴秀吉殿と和議が成ったばかりです。そして、あの戦いの最中における織田勢の事情が、それとはなしに山口にも聞こえるようになって参りました。


あのとき、元教様ご謀叛の露見した天正六年は、毛利と織田の戦が(たけなわ)となっていた頃でございます。まだどちらが勝つともわからず、また、毛利のみならず四方に敵を抱えた織田信長公が、手強い大敵・毛利家の背後を取るために、大友と裏で手を結んだのでございます。


そして、信長公に京を逐われ毛利領に逃れられた元将軍足利義昭公が、毛利への馳走とばかり大友家を九州の凶賊と声高に非難しはじめ、これによる京での威信低下を怖れた大友が、信長公に支援を求めました。信長公は、掌中に収めたも同然の朝廷に多額の金銀を献じ、「賊徒」と非難された大友家へ、新たに貴き官位を授けることに成功したのでございます。これにより都における大友の威信は保たれ、義昭公の悪罵は、ただの負け犬の遠吠えのように虚しく響くのみとなってしまいました。


この大きな「借り」が、元教様の命運を極めました。大友は、織田に対し、なにか対毛利戦における大きな馳走をなして、返礼をせねばならぬ立場に追い込まれたのです。さりとて、長年の戦に疲れ果てた大友は、もう今さら戦端を開く訳には参りません。代わりに、なにか毛利に打撃を与えたと見えるような貢献はできないか。


そこで、犠牲として供されたのが、あなた様の息子、元教様のお命だったのです。毛利家山口奉行の一族に、謀叛出来(しゅったい)。それを煽りふたたび山口の町を危機に陥れたのが大友家であるなら、そのこと、織田に対し充分胸を張って貢献なりと主張できる、大きな手柄でございます。


細作が奔り、毛利家の内部に、元教様が豊後に通じている旨の噂を、みずから撒いて廻りました。その噂は、耳聡い福原貞俊殿の耳に届き、福原殿は、他の者に聞かれて市川家の立場が悪くなることを怖れ、先んじて経好様にのみこれを伝え、早々の処断を迫ったのでございます。


すなわち、実の父に対する想いから、実際に豊後と通じ、密やかにやり取りを続けていた元教様は、その豊後に棄てられ、織田信長公が下された官位の対価として、お命を落とすこととなってしまったのでございます。聞けば、近頃の京では官位など金で買えるものだそうで。その相場は、たかだか黄金数十枚程度であるとか。富強を誇る信長公には、なんでもないような(つい)えでございます。


あなた様のご子息は、そのわずかな黄金の代わりに、死なねばならなかったのです。あなた様と氷上とのあいだに生まれた、あのかけがえのない元教様の命の値段は、たかだか、黄金数十枚程度のものだったのでございます。




これが、結末でございましょうか。これが、あの、闇のなかで私が身を焦がしながら眺めた、氷上とあなた様との愛の行く末なのでございましょうか。


そんな莫迦な・・・そんな莫迦な。


この山口に生き、この山口に暮らし、笑い、そして泣いた私どもの生涯は、いったい何だったのでございましょうか。なにか、もっと、黄金などでは計れない、価値のあるものではなかったでございましょうか。




もうじき、夜が明けます。


この庵を辞し、これから私は、少し上がったところにある、かつての高嶺城の三の(くるわ)へと参ります。そこは、まさに、かつて氷上とあなた様が満月の夜毎に逢い、舞い、愛し合ったあの場所でございます。


もうすでに、あのとき在ったあのお堂は御座いませぬ。しかし、あの崖はそのまま残っておりまする。傍らには、あの深く怖ろしい千尋(せんじん)の谷も。それらは、もちろん、城の防御に役立つものとしてそのまま残されたのでございます。あたりの樹々は切払われ、代わりに大量の矢竹が植わり、櫓台や土塁など設けられ、あたりの風景は、当時と全く変わってしまっております。しかし、ご存知でしょうか、あの崖の上に、いったんは切払われてしまったはずのあの蒼い花々が、いつの間にかまたそっと生えて、咲いておるのでございます。


かつてほどの勢いで崖を埋め咲き誇っているわけではございません。しかし、あの蒼さ、美しさは、あのときのままで御座います。このこと、知っているのは私だけでございました。いまはじめて、あなた様にだけそっとお教えするのでございます。




今宵の月は、欠けておりまする。しかも、あたりはもう既にほのかに明るくなって参っております。しかし、私には関係ございませぬ。ただ眼をつぶれば、あの満月の晩の様子が、いまでもありありと浮かんで参ります。そこには、氷上が居ります。まだうら若き、あなた様がおられます。


氷上は、柔らかく笑っております。どこか寂しげですが、私の卑劣な裏切りなど意にも介さず、ただ優しく笑っております。彼は、私の終生の友です。お互い寄る辺なき孤児のような境遇から、ともに兄弟のようにして生きて参った友です。


そして、あなた様。月の光を映してきらきらと輝くその瞳。私が、何も言えないこの情けなき男が、生涯をかけて憧れ、愛し、見守り続けた女性。


そしてこの私。三名が集い、扇を開いて腰を落とし、摺足で交互に近づき、遠のき、たおやかに腕をくねらせて、ただ舞うのです。言葉など交わさず、黙って、微笑みながら、ただ舞うのです。いつまでも、いつまでも舞い続けるのです。




そして見上げれば、崖の上に、あの蒼い花が咲いております。


手を伸ばしても届かない、高みに咲いた蒼い花。儚げで小さく、手に取れば散って行ってしまいそうな美しき花々。皆々その美しさに憧れ、そしてそれを手にしたいと願って、墜ちて行ってしまいました。


ひとりその花に手を伸ばそうとせず、触れようともしなかったこの臆病な男が、いまやっとのこと、その花を取らんとわが手を伸ばしまする。きっと、墜ちていってしまうでありましょうが・・・あの千尋の谷へと、まっさかさまに転げて行ってしまうでしょうが。


しかしそれでもなお、あの花は咲いておりまする。

誰も触れられない高みに。

誰も登れぬ高嶺のかなたに。




かな様。


私の話は、これで終わりでございます。あなた様とも、これでお別れでございます。本当に長い間、ご一緒して参りました。いろいろな事がございましたが、今となっては、本当に一瞬のことのようで御座います。


あなたは、美しい天女のような方でした。またときに意地悪く私の胸を(さいな)む、(わざわい)のような方でした。かたときも忘れることのできぬ、呪いのような方でした。そして、悪鬼のような、戦の女神でした。私のつまらぬ、このかげろうのような一生は、ただあなた様と共に在り、あなた様に寄り添うことによってのみ、はじめて地面にそのはかない影を落とすことができるのでございます。


あなたは、私のすべてでした。


いま、やっと、本当にやっと、私は自分の思いのたけをすべて、あなたに言い尽くすことができました。現世(うつしよ)での生の最後に、このような機会を持てたことを、私は感謝いたします。これから地獄への長い道行(みちゆき)が始まりますが、私は、かつて左座宗右衛門と名乗っていた男は、胸を張り、笑みを浮かべて歩いてゆくことができます。なぜなら、私は、もう独りではございませんから。


振り返れば、高みが見えます。

あの高嶺のへりの、急な崖が見えます。


そして、そこには。

誰の手も届かない、遥かな遥かな高みには。




ただそっと、あなたが咲いているのです。

高嶺の花が、優しく、美しく、私を見下ろし、ただ咲いているのでございます。




<了>


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