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高嶺の花  作者: オヤジギャガー
主要登場人物
29/32

高嶺の花 第二十八章

世にいう「大内輝弘の乱」は、発生から十四日後に鎮定されました。高嶺(こうのみね)城は、山口を奪回し、城外にわずかに残る攻囲軍を蹴散らした吉川勢の大軍にすぐさま解放され、十日ぶりに櫓門(やぐらもん)(かんぬき)が外されました。門扉の前を埋め、酸鼻なる臭を放っていた屍骸は両脇にとり片付けられ、それを啄みに降りてきていた烏どもが、一斉に空へ向け飛び立ちました。城に籠もるわずか九十数名の生き残りは、全軍の歓呼の中、陽の光をいっぱいに浴びて、よろよろと城外へとまろび(いで)たのでございます。




この史上もっとも過酷な条件下での籠城戦を率いた市川局は、実は、その期間中ほとんど戦闘の埒外(らちがい)に居りました。籠城初日、おたきに斬られた際の刀傷が化膿して高熱を発し、その後はずっと()せり、戦の指揮は息子の市川元教様と、実質的にはその下で、左座宗右衛門が執ったのでございます。すなわち、市川局の戦いとは、その功績とは、あのものすごい籠城初日での活躍に尽きるのでございます。


しかし、その働きはまさに阿修羅の如く。

天から降された雷神の如く。


ひとり陣頭に立って薙刀を振るい、全軍を叱咤して敵に向かわせ、(こう)を勧めに来た敵将をその胆力で威圧して足を(すく)ませ、遂には逃げ帰らせました。


これにより、はっきりと両軍の勢いに差がつき、その後、大内輝弘の大軍は、一度としてその持てる力を発揮することなく、ただばらばらの、思い付きのような気の抜けた寄せばかりを行い、あたら貴重な人命と時間とを空費してしまったのでございます。




もちろん、()く戦ったのは、配下の皆々も同じ。元教様は主に昼間の警戒と櫓門付近の早合撃(はやごうう)ちの指揮を執り、日に日に肝が座りまた大いに腕も上げ、最後の頃には敵勢誰一人として城門付近に寄せて来なくなってしまいました。なぜなら、寄せ(きた)れば、必ず死ぬのです。死ぬとわかって、あの腰の砕けた不甲斐ない大将のために突っ込んで参る馬鹿は居りませぬ。


左座は、夜襲の指揮を行いました。刀槍(とうそう)の術に優れた武士、早合の装填に慣れた銃列の士、そして射撃に長けた根来衆とを組み合わせ、それぞれ五名から成る数隊の斬込隊を編成しました。彼らは、闇に(まぎ)れて敵陣のあちこちに忍んで近づき、種子島を撃ちかけすぐに退き、また別のところで撃ちかけすぐと姿を消して・・・という風に、常に敵を眠らせず、夜ごと撹乱(かくらん)に努めました。


籠城初日には、おっかなびっくりで弓に(つる)を張り、()ってきたばかりの矢竹の先を尖らせていた農民兵たちも、戦闘を重ねるうち、すぐに熟練した弓兵になりました。のちには彼らも志願して左座の夜襲に加わり、追いかけてくる敵兵に矢竹を喰らわせては、夜闇の中を自在に躍動するようになりました。


しかし、彼らの勇戦敢闘はみな、籠城初日、市川局が示した不退転の決意と、底知れぬ胆力とに触発されたものでございました。局の、阿修羅のような残酷さと、天女のような美しさに、誰もが極限まで戦意を()き立てられ、彼らは一人一人が人間の範疇を越えるような勇敢さと巧妙さを発揮して、その後も大軍を翻弄し続けたのです。




しかし、あのものすごい一日、籠城初日の夕暮れ頃には、市川局の顔面は蒼白となり、幾筋もの汗が流れ、薙刀を床についてやっとその場に立っているありさまとなりました。やがて、局は激しく咳込み、ふらつき、遂にはしゃがみこんで櫓の床上に激しく嘔吐し、そのまま意識を喪ってしまったのです。


元教様と左座は、血と、自らの吐瀉物とに塗れたこの女神の身体を抱き抱え、城門の内側に誰かが急造した小屋掛のなかに運び入れ、数名の女どもに介抱させました。そのさまはまるで、ひとたび舞い降りた戦の女神が、ありとあらゆる精気を吸い尽くし、また局の肉体を離れどこかに去って行ってしまったあとのようでございました。その後、局は二度と立ち上がることができず、この戦への関わりは、ただそれきりのものとなってしまったのでございます。




恵心和尚は、戦の止んだ合間になど、城壁から梯子を下ろさせ、配下の若い僧を連れて新たに加わった遺骸の前で経を読み頭を垂れて、その魂の成仏を祈りました。和尚は、籠城中もそのあとも一切、局とは関わろうとしませんでした。おたきの頸を断ち、敵へと投げつけたその悪鬼のような振舞に、心の底からの怖れと、嫌悪を抱いたからでございます。


しかし、私は思うのです。


戦は決して、綺麗事ではございません。白刃が火花を発してぶっつかり、矢が飛び、弾丸が唸り、そしてその先に居る人間は、死ぬのです。血が舞い、肉が裂け骨が砕けて、それまで人間だったものが、あっという間に、ただの肉塊に化してしまうのです。


我が方は僅か百三十六名、いや、五名でした。


尋常な戦い方では、勝利はおろか、敵勢を一刻(いっとき)たりと支えることもできなかったでございましょう。なにか、常ならぬ力が味方して、常ならぬやり方で戦わなければ、あの八千の大軍から、山口を守り抜くことなど、到底、できなかったでありましょう。




たしかに、そのやり方は残酷でした。おたきは哀れでした。しかし、局がこれを敢然と行ったことについて、天に恥じるべき所など、なにひとつとしてございません。戦は、綺麗事ではないのです。どんなことでもして、勝たねばならぬのです。それが、たとえ天道に外れる獣道(けものみち)を征くことなのだとしても。


おたきの頸を斬ったことで、そしてそれを投げつけたことで、局は、高嶺城に籠もる兵らを救いました。そして、総攻めの際には早合撃ちでさらに膨大に生じたであろう、大内兵の犠牲をも、最小限にしたと言えるのでございます。おたきの頸は、数多くの敵味方の将士の命を救いました。それは、むしろ人の道に叶い、むしろ人の命を救う、佳き行いでございました。私は、そう思うのです。残酷なのは、うわべだけのこと。恵心和尚は、より深き思慮で、より深きところにある真実(まこと)を、虚心に見つめなければなりません。


もちろん、局があのとき、そこまで考え、強く意識を以てそれをしたとは、私も思いませぬ。あれはなにか、なにか別のものが局に()いて、または降りて、局の身体を使って、やったことなのでございます。それはあたかも、穏やかで美しい若女(わかおんな)増女(ますおんな)の面を被った能役者が、とつぜん振り返るや怖ろしい般若(はんにゃ)の面になりて、悪鬼の如くに激しく禍々(まがまが)しく舞い狂うようなものでございます。そして、用が済むとその鬼は局の身体を離れ、あとに残された局の肉体はただ嘔吐して、倒れてしまいました。


おそらく、市川局、かつてのかな様のそれまでの人生は、このときのため、ただこの一日だけのために()ったのでございます。この凄まじい一日のためだけに天から(いのち)(くだ)され、この一日にその絶頂を迎え、およそこの世に有り得べからざる奇蹟を起こしたのです。


局は、戦ったのです。そして、勝ったのです。




熱にうなされ、汗にまみれた市川局を載せた輿(こし)は、城兵に担がれ、高嶺城の城門を出てそのまま、市川邸へと帰還いたしました。


大内輝弘は、その言葉のとおり、この邸宅はじめ、山口市街のほとんどに手を付けず、町は往時のたたずまいを静かに保っておりました。ごくわずか、輝弘に従い海を渡って来た切支丹兵の一部が寺社の建物の一部を毀損したり、仏像を倒したりするようなことはございましたが、これほどの兵乱で、かくも被害僅少だったことはございません。国清寺にて囚われていた、市川局の下の子ふたりも無事に解放され、その日のうちに邸に戻ってまいりました。


市川局は、数日、意識を喪い、汗を多量に発して大声でうなり続けました。たまに、なにか譫言(うわごと)のようなことを口走りましたが、誰にも、その言葉を聞き取れるものはおりませんでした。ある日、汗みずくになった局の身体を拭こうと、侍女が固く握られた局の拳を丁寧に開くと、中から、黄色く枯れて、なかば朽ちた花びらのようなものが、手汗でぐしょぐしょに濡れたまま、はらりと出てきたそうでございます。


それが、局が密かに懐中に隠し持っていた、あの(あお)勿忘草(わすれなぐさ)のかけらであるということに気づいたのは、左座宗右衛門と、傍らに居た三人の子だけでございました。




市川局の指揮した徹底的な抗戦により、山口は十日間その命脈を保ち、その稼いだ貴重な時間のあいだに、海を越えて全軍を敵前撤収させるという離れ業を演じた毛利軍でしたが、当然、その払った犠牲も大きなものでございました。


すでに九州の山野で数千の将兵が大友軍の抵抗の前に(むな)しく戦死し、撤収に当たっては、激しく追い(すが)る追手によって殿軍(しんがり)がしたたか叩かれ、さらに数千の死骸を路傍に残しました。しかしそれでも彼らは戦い、無事に海峡を渡って主力軍をもと来た場所へと返し、毛利は、滅亡の危機をぎりぎりの際で回避したのでございます。


その功績の第一は、もちろん、高嶺(たかね)の孤軍を率いて勇戦敢闘した、市川局。そして息子の元教様です。誰もが認める事実でございましたが、しかし、局のその後の評判は、毛利家中において、はなはだ(かんば)しからぬものがございました。


まず、攻め寄せて来た大内輝弘が、かつて大友の間諜として山口に潜入していたことがあり、若き頃の局が(ねんご)ろな仲になってこれを支援していたという昔の出来事が、密かに問題視されました。すなわちこのときの縁で、実は今回も、山口への上陸を局が手引きしたのではないか?


あり得る筈もない、酷い言いがかりでございます。


もちろん、局のために弁ずる者が多数おり、この疑惑はすぐと晴れたのでございますが、この不都合な事実が、口さがない世上の噂にならぬよう、毛利氏はその後数年に渡って、ひどく民の声に気を使わねばならなくなりました。




次に、高嶺籠城の最中、捕らえた女の細作の頸を刎ね、局みずからが敵に向かって投げつけたこと。これは、一面においては、勇猛果敢な「聞かん気の姫」なる風評と共に、主として山口の町雀(まちすずめ)や田舎の民草(たみくさ)のあいだで勇ましく、面白おかしく語り継がれましたが、反面、その冷酷な仕打ちが、局の美しさに対する嫉妬とも相俟って、さまざま悪しざまに噂される要因ともなりました。


この点で、特に口を極めて局の所業を非難されたのが、籠城の際には力強いお味方として支えてくれたはずの、あの竺雲恵心和尚でございました。和尚は、いかな暗殺を企てし細作といえども天晴(あっぱれ)な戦士なりと、おたきの行いを称揚し、それを冷酷に殺害し遺体に辱めを加えた局の行いは、必ずや仏罰当たる悪鬼の所業と説きました。またおたきが極めて幸薄き生まれの女子であったことが豊後から伝わって参るや、その頸を斬り遠くへ投げ捨てた局に対する舌鋒は、ますます厳しいものとなってゆきました。


もちろん、和尚も公然と人前で市川局を責めるようなことは致しません。しかし、たとえ内々の陰口であっても、問わず語りに耳には入って参るもの。あのときの行いについて、その後一切語らず、なんの弁明も試みなかった局は、しかしひとり(ひそ)やかにお心に裂けた傷口を、ふたたびじくじくと(いた)めておられたのではありますまいか。




そして何より、大内輝弘によって意表を衝かれ、滅亡の瀬戸際にまで追い詰められた毛利元就公が、その衝撃のあまり、乱のわずか半年後に身罷(みまから)られてしまったことが、局に対する悪評の大きな原因となりました。乱の鎮定にむしろ大いに貢献したはずの局が、こうまで悪しざまに言われる理由を、私はいまだに判じかねるのでございますが、人の心とは、およそ奇妙な、理の通らぬもの。おそらく、偉大な創業者の死に動揺し、家中に蔓延した先行きへの不安が、なんらかのはけ口を求めて家中を錯綜した結果、局をめがけて殺到してしまったのだろうと思われるのです。


誠に、理不尽な話でございます。局の偉功は、毛利家中においてその後何年も顧みられることなく、誰もが触れてはならぬ類の話題となり、そのままひっそりと、忘れ去られていくことになってしまいました。もちろん、毛利輝元公、吉川小早川らの一門衆、そして家中において一の重みを成す重臣の福原貞俊殿らは、局の比類なき功績を公平に讃え、これに感状を持って報いましたが、それが実現したのも、乱から数えて数年後のことでございました。




しかし、そのようなことはみな所詮、小さきこと。局にとっては、より大切な、喜ばしい出来事がございました。討死が報じられていた夫君の市川経好殿が、混乱を極めた九州の戦地から、無事に帰還して来たのでございます。乱戦のなか行方知れずとなり死線を彷徨(さまよ)った経好殿は、なんと毛利軍が全軍撤退したあと、数ヶ月後に大友に捕らえられ、当座の和約の(しるし)として身柄を解放され、山口へと戻って参ったのでございます。


馬の背に揺られて、数年ぶりに帰還した夫の姿を、父の姿を、山口に残った母子は、涙を流しながら迎えました。




しかし、過酷な戦場をくぐり抜けて戻ってきた市川経好は、もはや、昔のままの彼ではございませんでした。日頃の温顔は、あの頃のまま。相変わらず頭の回転が早く、人の気持ちもよく斟酌(しんしゃく)し、座の空気を和やかに保つあの人柄は、一見、なんら変わるところがございません。


しかし、夜中、突然汗びっしょりになって目を覚まし、何ごとか他人にはわからぬ言葉を(わめ)き出したり、日頃は温和な性格があるきっかけで一変し、なんの前触れもなく怒り出したり、使用人や子供らや、遂には局にまで拳を上げ、激しく打擲するような挙に及ぶことがございました。それは、まるで、仏の温顔にとつぜん魔物が取り憑くような怖ろしさでございます。


斯様なときは、どこからか寄ってきた左座宗右衛門が背後から経好に組み付き、その膂力で抑え込むと、耳元に口を寄せ、何ごとかを二三事吹き込みます。すると、経好殿は落ち着き、安心したような顔に戻って、そのまま目をつぶり、その場ですやすやと寝入ってしまったりするのです。


そのあと左座は、怯える家族にこう説明しました。これは、過酷な戦場をくぐり抜け、心を傷めた者がときに(かか)る病であると。あまりにも酷く、あまりにも怖ろしい思いをした心優しき者にだけ取り憑く病だと。病だが、これを治す薬はない。治せる薬師(くすし)もいない。時だけが、ゆるやかに心の傷を癒やし、これをゆっくりと塞いで行く。しかし、それにはとても長い時間がかかる。


治りきらぬままに、死んでゆく者も居る。変わり果てた我身を呪い、正気のあるうちにと自裁に及ぶ者も居る。家族を傷つけ、大切な人々に危険を及ぼす我身を滅ぼそうと、同じことをする者も・・・しかし。


しかし、と左座は強調しました。経好様ならば大丈夫。経好様ならば、その強き意志の力と極めし知の働きとで、きっとこの心に棲みついた鬼と対峙し、いつかそれに打ち克ち、追い出すであろう。それを待つのだ、それを待つのだ。




市川経好は、戦っておりました。戦場(いくさば)から戻っても、まだ戦っておりました。いつまでも、戦っておりました。なにと戦っているのか、わからないまま、ぼろぼろになった自らの心と、昼となく夜となく、組打ちしておられました。


ようやく小康を得て、政務に戻れるようになったのが、約半歳ほどの後のことです。激情の暴発を自らの意志で抑えられるようになり、そのことへの安堵からか、常なるあの温顔が戻り、口元に笑みが戻りましたが、眼の光が昔とは少しばかり違っているようでした。感情の起伏がなくなり、その振舞いには、落ち着きというよりも、減りと張りのない虚ろさが漂うようになってしまいました。


家族はただそっと、この戦の哀れな犠牲者の脇に着座し、その疵口(きずぐち)に触れぬよう常に心しながら、ひっそりと毎日を送るようになったのでございます。戦の前には、この上もなく幸せだったこの家族に、二度とそうした日々が訪れることは、ありませんでした。


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