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高嶺の花  作者: オヤジギャガー
主要登場人物
25/32

高嶺の花 第二十四章

間髪入れずに始まった、大内勢の先遣隊五百名と、城内わずか百三十六名とのあいだの死闘は、戦いというよりも、一方的な虐殺と申し上げたほうが良い、あまりにも酷い展開となってしまいました。


百三十六名、いや、正確には城の裏手や(くるわ)などの警備に割いた若干名、また、戦闘には直接参加しておらぬ者どもは数に入れられず、おそらくは実質百名ほどの一団でございますが、とにかく、小勢の彼らが、五百名もの大内方を完膚なきまでに叩き、その、ほぼ全員の命を奪ってしまったのです。




戦闘は、この無謀な命令違反を犯した先遣隊長の吶喊(とっかん)から始まりました。雄叫びとともに白刃をかざした彼が、名乗りを挙げることもなくただ大手門前の広場に突っ込み、そのあとに数十名の兵どもが続きました。彼らは、町の民家から奪ってきた数本の梯子を押立て、真黒い甲冑の塊となって、まるで(かまど)の下の御器齧(ごきかぶり)が這ってくるがごとく、真一文字に突き進んで参ります。


そしてこの一団を、櫓門の上から、鍛錬に鍛錬を重ねた廿ほどの種子島の筒先が、狙っておりました。彼らは、待ちました。この御器齧の吶喊を、引きつけ、引きつけ、引きつけ・・・

「放て!」

元教様の下知が飛び、種子島が一斉に火と煙を吐いて、びゅんびゅんと音を立てた鉛の玉の風が、黒い甲冑の一団を襲いました。腰が折れて前のめりになる者、勢いに弾かれ上体がのけぞる者、致命傷を受けてその場で横倒しになる者。何名かは、まともに顔面や腹に命中弾を受け、血だらけの脳漿や(はらわた)を飛び散らせて、その場で命なき肉塊と化しました。土煙が立ち、人や槍穂や、ばらばらになった梯子がそのなかに没していきました。


この一撃めだけで、おそらく六名ないし七名を、(たお)したでありましょう。おそろしい、灼熱の鉛の壁に襲われたかれらは、自然に走ることを止め、その場で立ち(すく)み、あるいは地に伏せ、すでに斃れた味方の骸の陰に身を隠しました。しかし、みずから生きることを半ば諦めた隊長は無慈悲でした。そんな彼らを叱咤し、尻を蹴飛ばし、刀を振り回して立ち上がらせ、ふたたび突進を開始したのです。しかしこのとき、櫓門上では、すでに種子島が取り替えられ、第二撃の準備が整っていました。


最初の突進の勢いを失っていた彼らは、前よりもさらに容易(たやす)い標的でございました。元教様の下知が飛び、ふたたび襲い来たりた鉛の壁は、こんどは十名を遥かに越える兵らの腹わたに食い込み、兜の鉢を叩き伏せ、腕を切断して宙へと跳ね飛ばしました。


しかし・・・それでもまだ、少数の生き残りが居りました。彼らは、よろよろと立ち上がり、数名が泣き(わめ)きながら逆の方向へ逃げ出し、数名は、なおも城門目指して突進を続けました。廿(にじゅう)の筒先を揃えた銃隊は、彼らにまたも鉛の壁を見舞い、その過半を斃しましたが、あとはもはや無視いたしました。かなたに、次なる百名程度の一団が突撃してきたからでございます。


第一波の生き残りは、左座や根来衆、そして急ごしらえの農民兵たちによる弓隊が始末しました。最後の最後まで生き残り、人間とは思えぬ声で咆哮しながら突撃してきた隊長は、喉に矢を受け、ごぼごぼと黒い血の塊を吐きながら倒れて痙攣(けいれん)し、なおも這いずり門の間近まで迫ってから、そのまま物言わぬ(むくろ)となりました。敵に背を向け、涙を流しながら逃げ出した兵士たちは、哀れでした。彼らはまず、背中を城方の射撃の名手たちから狙われ、ついで脇の櫓台から矢で狙われ、そしてそれにも生き残った数名は、激昂した味方の第二波の集団から槍で突かれ、倒れ伏したところを数十もの脚に踏みつけられ、落命してしまったのです。




しかし、味方の命まで踏み砕いて突撃した第二波の命運も、第一波のそれと大差ございませんでした。その時点で、すでに種子島の一斉射撃を二度続けて喰らっており、その数は半減しておりました。第一波同様、彼らのうち、闘志を失わぬ者が立ち上がって、さらに突進を試みますが、あとはもう、一斉射と左座らの狙い撃ちの的になるだけでした。


続いて第三波が姿を現しました。彼らは、眼前に広がる恐ろしい光景にさいしょから腰が砕け、動きが鈍く、おっかなびっくりで前進して参ります。このときまで十を数えていた死の一斉射撃は、すでに八十名を越える敵兵の命を奪い、あるいは傷つけて地面に叩き伏せておりましたが、この第三波を見舞った惨害は、さらに輪をかけて悲惨でし

た。脅えながら進む彼らは、人の心情として自然と相互に固まり、幾つかの黒い大きな塊になりつつ分進する格好となったため、楼上の銃士たちからすれば、まとめて鉛弾を叩き込むに適した、ただの、のろのろとした的になってしまったのです。


動きの遅い彼らには、容赦のない五撃もの一斉射が加えられ、ほとんど間を置かずに百発に近い鉛玉が叩き込まれました。さらに生き残りは手練の左座ら射手にひとりひとり狙い撃ちされ、わずかに逃げようとする数名には背後から弓矢の雨が襲いかかりました。昨日までそこらの藪に自生していた矢竹の幹を削った、鋭い(きっさき)を幾本も背に受けた彼らは、ほぼ全員が広場のなかで命を散らしてしまいまったのでございます。


ただ惰性のように現れ、あちこちに倒れる味方の死骸に(つまづ)きながら、なんら変化なき気の抜けた突撃を行った第四波と第五波も、これを全く同じ運命を辿りました。




やがて突っ込む意思を持った兵どもの数がことごとく尽き、攻撃が、自然と、止みました。


結果は、ご覧のとおりの、一方的な勝利、いや、虐殺でございます。林泉軒のもたらした、二百丁もの種子島と早合(はやごう)は、手練(てだれ)の根来衆や左座らの即製の訓練を受けた射手と銃列の各兵らに操られて間断なく銃火を浴びせ続け、自らはほとんど一兵も損ずることなく、寄せ来る敵兵の大波を次々と破砕し、壊滅させたのです。


高嶺城大手門前には、おそらく二百ないし三百を越える敵兵の死骸が(うずたか)く積みあがり、刀や槍、飛び散った甲冑や陣笠、あるいは人体の一部分が其方此方(そちこち)にごろごろと散乱しておりました。そのすべてがどす黒い血に覆われ、(したた)り落ちた血は、地面のあちこちに不気味な糊状の黒い池を成して広場を染め上げておりました。地獄で妄人どもを責め苛み、その脚を取っては引き()り倒す血の池とは、おそらく、このような色をしているのでありましょう。


そこには、まだ幾体か、辛うじてまだ命をこの世に(つな)ぎ止めた肉塊が残っており、それらはなにか聞き取れぬ(うめ)き声をあげながら、当て所もなくもぞもぞ()い、先ほどまで味方であった別の(むくろ)にぶつかって進路を塞がれ、しばらくもがき、そのまま事切れてゆきました。何名かは、まだ「おっかあ」などと、母親を呼ぶだけの意識を保っておりましたが、数名の根来衆は、そうした声のするあたりを徹底的に狙い、情け容赦なく鉛弾を撃ち込み、その生命の火を消して廻りました。やがて、広場のどこからも声が消え、音が消え、あたりには漠とした静寂が訪れました。




鼻をつく煙硝の匂いと、焼け焦げた肉の匂い。眼前に立ち込めた火薬の(あお)い霧がゆっくりと風にあおられ、散って、晴れてゆきました。あたりから、森の樹々の潤いを帯びた新鮮な空気が流れ込み、この櫓門上の広い楼上を覆っては、立ち込める汚れた死の匂いを払ってゆきました。いつの間にか、門脇の松の一本に火がつき、樹身を舐めるように橙色の炎が回りました。周囲に伏せ敵に横矢を浴びせていた数名の兵が、慌ててこれを消し止めようと忙しく立ち回っておりました。


先ほどまで、くるくると無駄なく種子島を打手に廻しては新しい早合を求める各縦列のもとに、必死で胴乱の箱を抱えて走り回っていたおたきは、眼下に広がる、この鬼哭啾々(きこくしゅうしゅう)たる様相にしばし、慄然としました。彼女は、立ち竦み、痺れたようにしばらく動かず、広場のあちこちに出来た、そのすべてが人の骸から成る小山の盛り上がりの数々を、ただ呆然と眺めておりました。


人は、ここまで(ほう)けたように、死すとわかった(いくさ)に身を挺すか。ここまで(むな)しく、わが生命、たったひとつのわが生命を散らすか。ひとつの、生きた証が、折角のその生を()えるというのに、その瞬間はかくも呆気ないものなのか。


皆々、この世でなにかを、求めていた筈なのに。

なにかをその手に、(つか)みかけていた筈なのに。


ふらふらと、前にのめったおたきは、自らが封を切り、運び、やがて銃列の者らによって装填された早合が、彼ら、いまは物言わぬ敵兵ども目がけて無数に撃ち込まれていったことに気づきました。自らが手に取り、心を込めて正確に開けた包のひとつひとつが、じきに火を噴き、眼に見えない(はや)さで飛んでゆき、彼らの腹わたを(えぐ)り、切り裂き、骨までも砕き、かくも多くの命を奪っていったのです。たくさんの思い出を、夢を、愛を、いとも呆気なく闇の彼方に消していってしまったのでございます。




いつの間にか楼上に戻って来た恵心和尚が、なにも言わず、眼下にうずたかく積まれた死骸を睨みながら、櫓の端から端まで歩き、手を合わせなにごとかをぶつぶつ呟いていました。先ほどまで、銃隊に対し死の号令をかけ続けていた元教様は、肩を大きく上下させ、深く息を吸い込み、それを吐いてから、後ろに座り込みました。


市川局は、そんな息子の姿を見て、声をかけました。

「元教殿。よう、した。まこと天晴(あっぱれ)なる大将ぶりじゃ。」

元教様は、はっとしてまた起ちあがり、母のほうを見て、必死に笑顔を作りました。


「皆も、ようやってくれた。見よ。わがほうの大勝利じゃ。敵勢、一人として城門にすら取り付けず。あとは逃げ帰ったのであろう。」

市川局は、楼門にいた、すべての味方を見渡し、ねぎらいの言葉をかけました。


「じゃが、の・・・これで終わりではない。おそらく、敵勢、もっと大勢で寄せて来ようぞ。次は、おそらくこちらに人死も出よう。それでも、負けてはならぬ。退()がってはならぬ。いや、我らには、退がる先など、ない。ここで、寄せ来る敵を、ことごとく亡き者とするのじゃ!」


疲れ切った城兵たちに、先ほどのような元気はございません。しかし、皆々、この城に舞い降りた、美しき、そして凛々しき武の女神に対し、力強く拳を振り上げ、手にした種子島を頭上に掲げて、その(げき)に応えました。




ちょうどそのとき、遥か眼下に見下ろせる山口の市街に、異変が起こりました。


街の辻々から土煙が上がり、うねる街路のあちこちを、黒く連なる蛇のような影が移動しつつ、こちらに向かって進んで来ます。それら幾本もの影は、やがて町の端に達し、そのまま、(せき)を切った河の水の如く、あちこちから漏れて参りました。それらが、地響きを立ててこちらに近づくにつれ、天に突き立つ美々しい幟や旗印などが見え、やがて黒い影は個々のかたちを成していって、それらが、騎馬兵の大群と、その合間を徒歩で続く足軽どもであることが明らかとなりました。


その場に居る誰もが、見たこともないような大軍でございます。


大軍は、やがて町を出た平原で進軍を停止し、しばらく左右にゆらゆらと動いておりましたが、やがて隊伍を整えて、幾つかの方形(ほうけい)の陣になりました。城門まで、まだはるかに距離はございますが、この鴻ノ峰まで取り付くには幾らもかかりますまい。


先遣隊の暴走を知り、その帰還を待つのが無意味であると悟った大内輝弘が、全軍に進撃を命じたのでした。そして、それらを意図的に町の外の平原で停止させ、隊伍を組んで、その威容を城兵たちにまず、見せつけたのでございます。




それまで、門上に立つ市川局の神々しい姿に見惚れていたおたきは、こんどは、眼下の軍勢の凄まじさに圧倒されました。


つい先ほどは、数百の先遣隊を(彼女自身もそれに貢献して)完全に殲滅(せんめつ)しましたが、今度は、優にその十倍以上はありそうな大軍です。もしこれらが一斉に寄せてきたら、いかな早合撃(はやごうう)ちに習熟した名手たちの集う高嶺城大手櫓門でも、すべてを防ぎ切ることはできず、洪水に押し流されるように、その大きな奔流に呑まれてしまうことでありましょう。さすがの市川局も、今度ばかりは顔色を失い、ただ()っとかなたの大軍の黒い影を見ておるようでございます。


隊列は、しばらく動かず、そこで静止しておりましたが、やがて、にわかな動きが起こってまいりました。一斉に攻撃態勢に移る気配はなく、ただ、幾つかの方形の陣に乱れが生じるようになったのです。いくつかの方形が崩れ、そこから削れるように数本の列が前方に長く伸びはじめ、勝手に陣を離れるような動きを始めました。しかし、数騎がそれに立ち塞がり、それ以上の前進を止めているように見えます。


「さきの先遣隊の全滅が、伝わったのでござる。」

櫓門の端に立っていた左座宗右衛門が、反対側にいた市川局と、元教様に聞こえるように言いました。

「おそらく、数名の生き残りが、走ったのでございましょう。大敗に激昂した大内の者どもが、勝手に寄せようとして、将らがそれを止めていると見まする。」


局が、(うなず)きました。元教様もなにか言おうとしましたが、その前に恵心和尚が口を挟みました。

「ならば、敵将はまず我らに降伏を勧める(はら)であると見ゆるな。あそこに大軍を並べておるのも、まず勢の勢いを見せつけんがための、策じゃ。」

「いかにも。」

左座が、答えました。


和尚は、すぐ下に広がる地獄絵図のほうへ眼を落とし、そして眼を戻して、局に言いました。

「そろそろ、頃合いではないか?皆々、よう戦った。一日だけじゃが、時も、稼いだ。変報は、すでに赤間ヶ関の大殿(おおとの)のもとへ届いていよう。後のことは、大殿が何とかしてくださる。我ら、なによりも、毛利の留守居の底意地を見せつけたのじゃ。」

局の目が光り、この高位の僧を鋭く(にら)みました。局は無言でした。


「これら、お主を慕いて集まりし者どもを、むざむざ犬死させてはならぬ。敵将は、お主の昔の馴染みの者とも聞いた。まずは、降伏の使者を送って参るであろう。」

「敵勢、何ら予告することなく、先ず襲いかかって来申(きもう)した。」

市川局は、大手門前に累々と横たわる死骸の山を薙刀で指しました。

「こちらに情けをかける意志など、無し。開城せば、われら、尽く(みなごろし)となりましょうぞ。」


「いやいや、これは、なにかの手違いであろう。」

恵心和尚は、譲りませぬ。なおも局を説得しようとしました。

左座が、和尚に意外な助け舟を出しました。

「おそらく、先ほどの隊は攻め急いだもののように見えまする。また、あの大軍がすべて海から()がってきたようには、思えませぬ。おそらくは、ここ山口周辺に残る大内勢の残党が一揆となって結集したるもの。なれば、豊後より参った氷上どのが、これをすぐとまとめ切れぬと見るのが自然。」

彼は、冷静に事態をそう判じました。




市川局は、まるで山野から町に彷徨(さまよ)い出てきた狼のような眼で、左座を睨みました。そして、すぐそれをかなたの大軍勢へと戻し、しばしなにか思案しているようでありました。元教様は、そんな母の様子を、ただ固唾をのんで眺めております。下知するのが誰か、そのときは自明のことでございました。


恵心和尚は、まるで仏に(すが)るかのような表情で、白い睫毛(まつげ)の伸びた目を、しばたたかせておりました。勇敢に、巧妙に戦った城兵たちも、ただ凝っと、局の発する次なる言葉を待ちます。彼らはそれぞれ、この凄まじい一日のことを思い返し、自分たちの、これまでの生涯のことを、残してきた家族や、愛しい人のことなどを想いました。




おたきは、楼の後ろに控えてこのさまを見ておりました。そして、思い出しておりました。これまでの、自分の幸薄(さちうす)き生涯を。


戦場(いくさば)となった筑前で生まれ、幼き頃より周囲で人死(ひとじに)が相次ぎ、遂には自分の父親までも行方がわからなくなくなったこと。育った村は、打ち続く苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)と略奪とでほぼ村の体をなさなくなり、(かて)を求め、母と幼き姉弟を連れ曠野(こうや)へと彷徨い出ていったこと。そこで敗残の一軍に囚われ、酒と血と汗の匂いにまみれた彼らに続けさまに犯され、殴打され、陵辱され、気がつけば家族は散り散りばらばらになってしまっていたこと。


情けある敵将に(たす)けられ、引き取られて養われたこと。そのあと僅かな間だけ、穏やかで、幸せであったこと。そのあと、この山口に来たこと。市川邸での奉公のこと。美しき女主人のこと。自分と彼女とのあいだに横たわる、近くて、あまりにも遠い懸絶(けんぜつ)に夜ごと身悶えしたこと。(あお)い花のこと。幼き二人の子どもたちの笑顔のこと。そして、還らぬ実のわが弟たちの笑顔を、自分はすでに忘れてしまったこと。


いま、市川局の決断次第で、城兵たちの命が救われます。これから寄せ来る多くの敵兵たちの命も。すでに流れた幾百もの血が、幾千にも幾万にもなることを、防げます。




い、いや。

そんなことは、どうでもいい。


おたきは、思い出しました。つい先ほどの、局の神々しいまでの勇姿。薙刀を叩きつけ、その美しさと決然たる自らの意志とで、城兵たちの心を瞬時に一つへまとめてしまったその手並み。そして、そのあと、しばしなにかを思い返すような顔つきで茫然としていたときの表情の(かげ)。そのあと、おたきの目線に気づいて、にこっと笑ったときの顔。


雄々しい。そしてどこまでも、美しい。


おたきは、塵芥(ちりあくた)のように生まれて、ただ塵芥のように生を()える運命だった自分が、いま、その生涯の絶頂に立っていることに気づきました。なぜなら、彼女は、いままさに、そこに立っていたからです。


この無意味な戦を、早く終わらせるために。自分の生と、そして死とに意味を持たせるために。筑前の戦場(いくさば)のどこかに消えた、(はかな)い自分の家族たちの命が、決して無駄に散ったのではないと思い続けるために。




「なすべきことを、なさねばならぬ。」




おたきは、先ほど早合の封を切るのに使った、あの小刀を構え、刃のついたほうを下に向けて、狙いを定めました。そして、そのまま走り出し、左手を前に伸ばして釣り合いを取り、ぐいと足を踏み込んで勢いをつけました。


そのまま、右手に持っていた小刀を、(てのひら)のなかでしっかりと握り直し、その切っ先を、つややかな黒髪に覆われた市川局の頭めがけ、振り下ろしたのでございます。

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