高嶺の花 第十五章
山内元興はじめ、内海商人たちの活発な経済活動は、山口を劇しい勢いで復興させて行きました。彼ら新興の商人たちは、内海独自の潮流と航路とを熟知した海賊衆と結びつき、結託することによって、いわば水上における商売の独占権を得ていたのでございます。
これら海賊衆は、村上氏を名乗って内海の諸島に盤踞し、小早と呼ばれる細身の舟を自在に操っては神出鬼没の活動をします。幅の狭い内海は常に彼らによって監視され、関門海峡や速吸の瀬戸から現れた交易船は、いち早く寄せてくる小早によって検問を受け、通行料を要求されます。これを支払うと、以降は航行の無事が保証され、堺へと至り多額の収益を挙げることができるのです。まれに、通行料の支払いを拒み、あるいは逃走をはかるなどして海賊衆に血祭りに上げられる船などもありましたが、それは極めて珍しきこと。海賊衆とは、波間に揺れながら動く関所であり、また有能な水先案内人たちのことだったのです。
毛利氏、内海商人、海賊衆。彼らは、それぞれの長所を持ち寄って結託しました。こうして毛利氏は、短期間に内海の物流を押さえ、そこからあがる多額の収益に支えられ、さらなる勢力拡張のための力を蓄えることができるようになったのです。
そして毛利には、さらに大きな利益をもたらす、まさに宝の山と申すべきものがございました。石見の山中に産する、豊富な銀鉱でございます。これは、掘り出した銀をすべて無事に積み出せれば、年間、優に数十万石ぶんの富をもたらすほどの量です。ただ、近隣の大国、尼子氏との境界に接しており、両氏はこの銀鉱の利権を巡って、数十年ものあいだ、血で血を洗う激しい争闘を繰り返してきておりました。
西の大内氏を滅ぼし、その領域をすべて手に入れたことによって、毛利氏の旺盛な拡張志向は、こちら、東の方角へと向かうこととなります。毛利元就公は、長年、尼子氏とのかかわりに苦しめられ続けて来ました。はや六十の坂を越えた公にとり、尼子を従え、これをうち滅ぼすことは、その苦難に満ちた人生の卓尾を飾る大事業でございました。そしてそれはすなわち、石見の銀山を軸とした、さらなる富の獲得を毛利に約束することになるのです。
このところ、山口の市川邸へ、京からの客人が増えて参りました。それはまるで、かつての大内氏全盛の頃にも似た盛況ぶり。もちろん、これまで述べてきたように、毛利家が内治に努力を傾注したことにより、山口周辺の経済力がめざましく復興してきたからではございますが、この盛況には、他にも理由がございました。
以前、市川とかな様の婚儀を毛利家へ建言した、あの竺雲恵心和尚のお働きでございます。和尚は、もとは出雲の生まれ。のち京にて、東福寺の伝統ある塔頭、退耕庵の庵主として知られるようになりました。このところは、安芸と京のあいだを行ったり来たりして、毛利家のいわば外交僧の役割を担われることとなったのです。
防長経略を経て、この山口を手に入れた毛利氏は、その篤く信仰し庇護する恵心和尚のために、いくつかの寺院を建て、領地を寄進するなどしました。和尚もそれに応え、主として京における人脈を活かして、毛利家に新たな名誉と評判とをもたらす、さまざまな縁を取り持つこととなるのです。
その最たるものが、即位後しばらく、朝廷の手元不如意により行うことができなかった、正親町天皇の即位式の費用を献じたことでしょう。このことにより、中央における毛利家の存在感は高まり、返礼として多くの官位が授けられ、以降、安芸と京との距離は少しばかり近くなりました。恵心和尚は、忙しく双方を行き来しながら、活発にさまざまな縁を取り持ちました。世俗の欲得にまみれたその営為は、しかし、恵心和尚なりの、世を泰平に導くための努力であったに相違ありません。
そして、その結果、またも多くの人の流れが生まれ、奔流のように山口の市川邸へと殺到し、かな様の忙しい日々は、その後何年も続くこととなったのです。また、以前、山内元興をもてなした際にかな様が即興で舞ったという南蛮の舞は、遠く都にまで聞こえる評判となっており、都からやってくる楽人や能役者らが、特に望んでかな様と対面するような機会も増えてまいりました。
人の流れ、金の流れ、そして文化の流れ。山口は、しばし忘れていたその昔の繁栄を、またも取り戻したかに見えました。
しかし、その平和は、ほんの束の間だけのことでありました。
東西に長く宏大な版図を持つことになった大毛利氏ですが、拡大する武家勢力というものは、その宿命として、次々と増える新参の配下らに、新付の給地を与えてゆかねばなりません。短期間にきわめて大きく成長した毛利家においても、この給地が足りなくなる事態が生じ、財政を慢性的に圧迫しておりました。
足りない分は、奪い取るしかございません。こうして、毛利領の両側の境で同時に、大規模な烈しい戦いが起こることになります。東では、元就公積年の宿敵、尼子氏と。そして西では、これまで平和的な関係にあった大友氏とのあいだに、ただならぬ戦雲が立ち込めて参ったのでございます。
ある夜、子どもたちを寝かしつけたあと、市川とかな様は、夫婦差し向かいで軽く酒などを飲み、寛いでおりました。その日も朝から忙しく立ち働き、くたくたになっておりましたが、こうして二人きりで過ごす時間は、なににもまして貴重なものでございます。
子どもたちの成長について。市川家の奉公人どもの噂。山口の町で聞こえた噂話や笑い話など。交わされるのは、とりとめもない話題ばかり。やがて話題は尾崎局のことに至り、ついで毛利家中の人となりについての、市川による内々の月旦のようになって参りました。
「儂が隠棲をやめ、世に出た当初は、新たな吉川当主となった元春様の与力として政務に与ったが、なんというか、あの元春様は、大した侍じゃ。」
「剛勇無双の士と、皆が。」
「そのとおりじゃ。じゃが、豪傑に有りがちな粗暴さや傲慢さは、あの方に関しては、一切ない。日ごろは口数少なく、まるで物言わぬ木像が屋敷を歩いておるようにすら思える。しかしその実、人に対し優しく思いやりがあるところは、兄上の隆元様や、尾崎局とおんなじじゃ。」
「さようでございますか。して、あの梟のような御方は?」
「日頼様(元就)のことじゃの。」
市川は苦笑し、こう答えました。
「あの御方は、そう・・・なんと申すか、ただの愚痴言いの老人じゃ。」
「まさか!世間では、油断も隙もならぬ、虎狼のようなお人と。」
「それが意外での。日頃は、本当に、ただくどくど愚痴を並べ立てるだけの、ただの口うるさいご隠居じゃよ。とにかく、話が長くての。儂も、日頼様のお側近くに伺候する際は、多めに時を見ておく。」
「妾の、知らぬことばかりです。」
「そちの考える毛利家の姿を、もっともよく顕すお人が居るとすれば・・・ご三男であろうのう。」
「小早川の、隆景様・・・まだお若く、才気煥発とか。」
「そう。このところ、毛利の、他家に対する外交策略、一切があの御方を通してなされているようじゃ。お父君と較べても、その聡さは疑いようもない。まさに、目から鼻に抜けるような。頭を廻すことにかけては、儂も多少は得意であるが、あの方には、到底かなわぬ。しかし。」
「しかし?」
「その才気に、時として、溺れるところもあるようじゃ。溺れると申すより、頭が良すぎ、物事が見えすぎて、却って不安になられることがあるのかもしれぬ。まだ若いせいもあるだろうがの。しかしそれが、のちのち大きな失敗につながるようなことがないか、儂は時に心配になることがある。」
かな様は、やや意外な面持ちで夫の言葉を聞いておりました。これより少し前、小早川隆景殿は、古今未曾有ともいえる鮮やかな大捷を、他ならぬ、海の向こうの大友氏より挙げておられたからです。
大友氏と毛利氏は、すでに述べたとおり、この頃まではいちおうの友好関係にございました。両者は、大内家の旧領を蚕食することで共に利益を得ることができ、この点で大いに手を組む余地があったのです。大友義鎮公が、毛利との約定どおり、自らと血の繋がった実の弟君を見殺しにしたのも、あらかじめ示し合わせた、毛利との国境画定交渉があってこそ。現し世は、常に、利得で動くものでございます。
この約定により、関門海峡を挟み、防長側はすべて毛利、大内家の強い影響下にあった小領主が分立する筑前はすべて大友。こうした申し合わせで、いわば大内の領域を仲良く分け取りすることになったのですが、永禄年間になってからは、やや事情が変わってまいりました。
事情とは、毛利の、東方の尼子との戦況がはかばかしくないことです。石見の銀山など、山間のさまざまな利益を求めてしきりに軍を動かす毛利でしたが、地の利を得た尼子の抵抗は凄まじく、陸戦において手ひどく叩かれることが数度にも渡りました。この尼子の粘り強い抵抗力を削ぐには、博多から美保ヶ関を経て京へと至る、山陰の水路による物流を切断し、相手を経済的に弱らせるのが一番です。そして、水上の封鎖は、毛利のもっとも得意とするところ。
しかし、今度の舞台は、勝手知ったる瀬戸内の内海ではございません。三島村上氏をはじめとする海賊衆と、毛利氏直属の強力な水軍衆とを、日本海へと進出させなければならないのです。そのため、まずは関門海峡を制し、これらの水軍を回航する道筋を啓開することが急務となって参りました。
ここは、すでに画定した大友氏との国の境です。しかし、仮に大友が尼子と手を組み、狭い海峡を封鎖して毛利の船団を足止めするような場合に備え、海を越えた対岸にもひとつ拠点を持っておかねばならないと思われました。この頃には、内治および外交において、信用獲得を第一義に掲げ、律儀にさまざまな約束事を守るよう、みずからを大いに律し矯めつつあった毛利家ですが、こと、戦となれば事情は変わります。こういうときには、最前線に立ち危険を冒す前線の闘将たちの声だけが大きく響き、威勢のあまりよくない自重論は、影を潜めてしまいます。
議論は、ほんのわずかな間だけのこと。じきに、海峡のもっとも狭い場所を対岸の高台から塞ぐ邪魔者、門司城を奪い取ることが決まりました。作戦は即座に実施に移され、渡海奇襲は成功、わずかな数の守備隊は追い払われ、両軍最小限の犠牲でまずは毛利軍が凱歌を上げました。
もともと、門司を含む筑前一帯は、大内氏と大友氏の勢力の緩衝地帯として、あえて両者から放置されていた場所。このたびの国境画定により、いちおう大友側とはされたものの、毛利側の意識では、ここはまだ無主の地、中立地帯であったのです。
しかし、実の弟の命まで犠牲にした上で締結した、いわば血の誓いともいえる密約をいともあっさりと裏切られ面子を潰された大友義鎮公の意識は、まるで違っておりました。彼は、赫怒しました。すぐさま、豊後王国の誇る二万もの精鋭を門司に差し向け、この小さな海峡の監視哨に過ぎない砦をびっしりと包囲し、陸地から烈しく攻め立てたのです。
毛利の主力軍も、この事態にすぐさま反応し、対岸の赤間ヶ関まで本営を進めてきました。当主・毛利隆元公御自ら総大将となってここに陣し、その先手として、麾下に強力な水軍衆を持つ小早川隆景殿が、援兵数千を率い渡海の準備を進めました。そしてそれを阻止せんと、狭い半島状の地形に蝟集する大友軍。
「軍、河を半ば渡らば、これを伐つべし。」
古の兵法にも説かれるとおり、水上を渡る軍は、通常まったく戦力を発揮できず、きわめて脆弱なもの。まして、河などではなくここは海。しかも強い汐が渦巻き、なまじな水軍では操船すら困難な海峡でございます。地上に何層もの縦深で布陣する大友軍に、まったく死角はありませんでした。
しかし、そこは神算鬼謀の隆景殿。水上を押し渡り、敵前に上陸せねばならぬ自軍の圧倒的な不利を、別の長所で見事に補ってみせたのです。長所とはすなわち、自軍の船足の疾さ。彼は、夜間、舟艇隊を少し離れた地点に送り、まずそこへ小勢を上陸させました。そして、盛んに松明や篝火を焚かせ、大声で叫ばせるなど勢力を大きく見せて、大友軍にこれが主隊と誤認させました。
大友の包囲軍が、地響きをたててこの囮隊に近接していくと、頃合いをみて隆景殿は、別の一隊を率い、盛んに火などを焚きながら岬を廻り、反対側へ上陸するふりをしました。裏をかかれた大友軍は、そちらへ動きます。しかし、これもまた囮。その頃、さらにその裏、すなわち最初の陽動部隊が上陸した場所よりも城に近い浜へ、主隊が堂々と船をつけ、強力な援軍を堂々と上陸させ、城へと入れてしまったのです。
要するに、大友の大軍は、あたら多数の軍兵を擁しながら、毛利兵をひとりして伐つことなく闇の中を右往左往させられただけに終わってしまったのです。裏の裏をかく、隆景殿の鬼謀。これにより、落城寸前だった門司城の士気はめざましく回復し、援兵と合わせその戦力は倍加しました。
翌日、毛利本軍の渡海を支援して門司城を駆け下った小早川軍は、高地から逆落としの勢いで大友軍を粉砕し、上陸に成功した本隊との挟み撃ちで、大勝利を得ることに成功しました。
しかし、小早川隆景殿が、その悪魔のような恐るべき智謀を発揮するのは、ここからでございました。鍵となったのは、またも、水上における船足の疾さ。
小早川の水軍衆は、陸路をほうほうの体で退がってゆく敵を水上から先回りして待ち受け、ひとり、またひとりと討ち取ってゆきました。あちこちの入江や岬、砂浜で、大友兵の断末魔の叫びが響き、鑓に刺し貫かれた胴体が崖下に突き落とされてゆきました。その敗軍の無残さ、惨めさは言語に絶するもので、当初二万を誇った大友軍は大恐慌を起こし、最後には、国東の道なき山中をばらばらになって逃げ散ってゆく始末でございました。
この一方的な敗軍が、いかに豊後を震撼させたか。
それは、この直後、大友義鎮公が剃髪し、宗麟なる法号を名乗って半隠棲してしまったことでも窺えます。もともと情緒が不安定で、目の前の辛い政務や軍務から逃避しがちな傾向のある困った君主でしたが、それを補ってあまる才知と野心を持ち、忠良かつ有能な臣下どもの助けもあってこれまでは何とか国を保たせていたのでございます。しかし、この敗北で、彼の心の堰がひとつ、決壊してしまったようでございました。
戸次鑑連や吉弘鑑理といった大友軍の中核を成す闘将たちはなお粘り強く戦闘を継続しておりましたが、豊後府内にいた重臣たちは、したたかに叩かれた自軍精鋭の体たらくを見、戦意を喪失した惨めな御屋形の姿を見、これはかなわじと慌てて京の都に取り成しを求めました。もともと大友家は、鎌倉以来続く九州の名家。大内氏とならび古くから中央との行き来があり、多額の金品なども散じて親しい公家なども多く居り、その運動を受けてこのときは幕府が動きました。
その後もしばらく、前線では両軍がしばしば交戦する状態が続いていましたが、永禄七年、遂に将軍・足利義輝公の仲裁で和睦が成立しました。毛利としては、もとは東の尼子を伐つため、背後の通交を確保するための、裏口の作戦に過ぎません。自軍の主力は遠く出雲に在り、目下、尼子の本拠地、月山富田城を攻囲する作戦が進行中でした。軍勢二分に利あらず。いっぽう、大友氏としても、これ以上の敗軍は、せっかく手にした筑前の旧大内領での自国の威信低下につながり、その後の統治を難しくしてしまいます。ひとまずは、手打ちの頃合いでございました。
こうして毛利軍は、海を隔てた筑前で目覚ましい勝利を挙げ、門司城を確保し関門海峡の通交を確かなものとしました。これにより、さらなる山口の殷賑が保証されたばかりでなく、山陰への水軍の進出が自在となり、大いに毛利軍の作戦を助けることとなりました。遠からず、尼子氏も毛利の威の前に屈服させられることとなりましょう。こうした、小早川隆景殿の偉功は出色のもので、山口では、その智将ぶりを褒めそやす者ばかりです。
しかし、目の前にいる夫は、その隆景殿の成功を指して、「危ない」と言うのです。かな様には、なかなか理解し難いことでございました。さらにその理由を問うと、市川は、ただこう答えました。
「大いなる勝ちは、さらなる勝ちを人々に期待させてしまう。そして、それが廻り廻って、いつか、大いに勝った者の頸を締める。」
かな様には、夫の言葉の意味がよくわかりませんでした。いや、夫自身も、確たる見通しがあって言った訳ではないのでしょう。ある幸せな夜、夫婦差し向かいで交わされた、なんということもない会話の中での、なんということもない一言。しかし、その言葉は、なぜか澱のようになっていつまでもかな様の心に残りました。
この幸せは、もうすぐ、終わってしまうのかもしれない。また嵐が吹き荒れて、この平和な山口を、どす黒い雲が覆い尽くすような日が来るのかもしれない。
しかし・・・かな様は思いました。自分には、三人の、珠のような子どもたちがいる。そしてこの、実直で、秘めたる靭さを持った夫がいる。守るべきものを持ったかつての「聞かん気の姫」は、その守るべきものがある故に、逆にそれに守られ、恐ろしい嵐をやり過ごすことができるような気がしました。
毛利氏による防長経略からまだほんの四、五年。山口はめざましく復興し、安芸では太田川の河口域周辺の干拓が始められ、廣島と呼ばれ新たな田地や町などが作られ始めておりました。内海では活発な商取引が多くの富を産んで人々を潤し、対外的な戦も勝ち続き。毛利の領国は、たまゆらの泰平と繁栄とに酔い痴れておりました。
しかし、夫の不気味な予言通り、この数年後、その酔を醒ます大きな、とても大きな嵐がやって来ることになります。そして、かな様はたった独り、その嵐の真っ只中に、放り出されることになってしまうのです。




