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高嶺の花  作者: オヤジギャガー
主要登場人物
12/32

高嶺の花 第十一章

ひとつ大切なことを失念しておりました。これは、わたくしも又聞きの噂に過ぎないのですが、あなた様にあらためて申し上げておく価値のあることです。


氷上太郎が山口を去る少し前、大内義長公は、来るべき毛利軍との決戦に備えて、山口を防衛するための本格的な城砦の造営にかかられました。大内家全盛の頃は、ここまで他国の軍が寄せてくることなどまったく考えられていなかったのですが、(ようや)くその事態に立ち至り、慌ただしく普請が始まった次第なのです。


その城砦を建てる場所は、市街を北縁から見下ろす、(こう)(みね)。氷上とかな様が、月が満ちるごと、逢瀬に使っていた、まさにその場所でございます。本丸は遥か頂上に設けられる予定でしたが、あの、お堂があった中腹の小さな平地も、ちょっとした武者溜りや(くるわ)を設けるのに適した地形でした。


義長公じきじきに、現地を検分なさり、たまたま氷上もそれに同道しておりました。義長公は、眼下の山口市街を見下ろしながら、この城をなんと名付けようかその場でご思案なされたそうでございます。


周囲にいた重臣や、お付きのものなども、思いつくまま様々に案を申し述べました。曰く、山口城、鴻ノ峰城、勝鬨(かちどき)城、指月(さしづき)城、その他もろもろ・・・。通例ですと、よりお立場の重いお方が言上されたお名前のうち、よいものを義長公が択ばれて決まるのですが、このときふと、義長公は、傍らに控えていた氷上にも、案を問うたのです。


氷上は、しばし、考えて、

高嶺(たかね)城」

という自らの案を申し述べました。


たしかにここは、山口を遥かに見下ろす高い(みね)でございます。されど、その名が特にこの城ならではの強味や特色をよく捉えた名のようにも思えず、その場は、それきりとなりました。


きっと彼らは、そこにまだ建っていたお堂の裏手の崖を見なかったからでございます。そこには、あの絢爛たる紫の花々が、人の手の届かぬ高嶺に、わんさと咲き誇っていたでありましょうから。


しかし、氷上が山口を去ってから、義長公がお決めになった城の名前は、まさにその「高嶺城」でした。ただし、読み方が少し違い、「たかね」ではなく、「こうのみね」と名付けられることになりました。ただ、いささか音として長く、下々の者どもの間ではこっそり、「たかみね」と少し換えて呼び習わされることが多くなりました。もしかすると、これは、豊後からの指示で止む無くわがもとを去る氷上へ向けた、義長公の別れの挨拶であったのかもしれませぬ。


ともかくも、かな様に対する氷上の想いが、奈辺(なへん)に在ったものか、このことで少しはあなた様にも伝わるのではないでしょうか。


こうして、(そのときは誰も知りませんでしたが)くしくも、氷上の脳裏に残る、美しきかな様の面影が、ここ山口を護る城砦の名となり、後世にまで伝えられることとなったのです。


しかしこれは、あまりにも哀しく、あまりにも非情な歴史の皮肉となって、こののち、両者の運命を呪う名ともなってしまうのでございます。




お話を、戻しましょう。


毛利氏の周防、長門への侵攻は、じつは厳島敗軍の直後から始まっておりました。厳島で陶を喪い、その後も離反や内訌が相次ぎ、はや風前の灯と思われた大内帝国が、その後数年だけ命脈を保ち得たのは、ひとえに安芸との国境近くの地侍(じざむらい)地下人(じげびと)たちが、わが命をかえりみず、この毛利の大軍と粘り強く戦ってくれたおかげでございます。


亡き義隆公への義理立てでしょうか、それとも周防侍、あるいは国人としての矜持(きょうじ)でしょうか、とにかく数城が頑強に抵抗を続け、周辺の地侍や一揆勢がこれに合力(ごうりき)し、劣勢の彼らは約二年もの長きにわたり毛利勢を苦しめました。


その理由は、いったい何だったのでございましょうか。ひとつには、勝ちに驕った毛利将兵どもの傍若無人な振舞いが、占した土地の民草(たみくさ)を疲弊させてしまったことがございます。このときの毛利軍の中核を成すのは、山深き吉田郡山の盆地で生まれ育った者どもでございます。山と山との間に空が仕切られた、あいだに立てばすべてを見渡すことができてしまうような、狭く閉じられた世界が、彼らのすべてでした。


それが、元就公の御運が開け給うにつれ、風向きが変わって参りました。長年の忍苦から解き放たれ、安芸の平野にぞろぞろと降り立って来た彼らにとり、そこはまるで、豊かな海とともにすべてがきらきらと光り輝く桃源郷に思えたことでしょう。そして、山育ちの地金(じがね)が出ます。彼らは、そこに産する豊かな物成(ものなり)や土地などを、あたかも我が物であるかのように勝手に奪い取りはじめました。


元就公はじめ、将らはそれを押しとどめようとしましたが、毛利軍団はまだ野卑な山間の豪族どもの寄り合い所帯にすぎず、兵らの欲望と暴走を、組織として効果的に抑止する経験と技倆とを持ち合わせておりませんでした。そうした、無統制な毛利軍の略奪への怖れと反感が、人々の、あの徹底した抵抗となったのだとわたくしは思うのです。




周防の国人たちによる、特に凄まじい戦いが、須々万(すずま)の沼城での一年に亘る籠城戦でございました。山間の小盆地のなかに流れる川を堰き止め、その名の通り湿地と沼のなかにこんもりと盛り上がった小丘を城砦化したこの城へ、二千名もの将兵と、付近の住民とが立て籠もりました。早刈りの稲穂をじゅうぶんに取り込んだ城砦は戦意も旺盛、秋口から始まった毛利の攻撃を数度にわたって撃退し、勝ち誇った安芸の常勝軍へ、逆に大きな手傷を負わせました。


特に屈辱的な敗退を味わわされたのが、元就公の三男、小早川隆景(たかかげ)殿です。年若いながらも父譲りの英明さで知られる智謀の将で、厳島の合戦ではひとり、別働隊を率いて堂々と大鳥居の脇へと船をつけ陶晴賢殿の軍勢を追い込んだほどの若武者。彼は勇躍、五千もの精兵を率いて沼城に襲いかかりましたが、足場の悪い攻め口に難渋し、若さゆえ撤退の頃合いを見誤り、城方にしたたか反撃され大敗北を喰らいました。おそらく、順風満帆だった彼の人生における、初の敗北だったかと思われます。恥辱に塗れた彼は、心ひそかに城方への復讐を誓いました。


やがてご長子の毛利隆元公、さらには元就公まで加わって、翌年の早春に総攻撃が再開されました。同じ失敗を二度と犯さぬが、名将たるものの資質。隆景殿は、まさに、まぎれもなき名将でありました。彼は、対峙状態だった数ヶ月ものあいだに、あらかじめ城の周囲の沼地をじゅうぶんに偵察し、比較的水位と泥の深くない道筋を見出しておりました。


総攻撃の開始と共に、彼は部下に命じてその道筋に沿って大量の藁や(こも)、枯れた稲穂など、ありとあらゆるものを投げ込ませながらじりじりと進み、遂に沼地を渉って城の一角に取り付き、そのまま、長期の籠城に疲れ切った城兵どもを排除しながら一気に本丸を陥れたのです。


城将の山崎興盛殿だけは自刃の名誉を与えられましたが、哀れだったのは、彼に従いこの城に籠もった雑兵や民草どもです。彼らが怖れていたとおり、毛利兵はその獣性を剥き出しにして襲いかかり、戦闘は停止(ちょうじ)されていたにもかかわらず、城内に籠もっていた者どもを尽く(みなごろし)にしてしまいました。


隆景殿がそれをお命じになったわけではありませぬ。ただ、長きにわたり苦しき戦いを強いられ、輝ける山口の都への進軍を邪魔された兵どもの鬱屈が一気に爆発し、暴力は暴力を呼び、すべてが()しきほうへと連鎖して、もはや誰もそれを止められなくなったのです。




阿鼻叫喚の地獄となった城内。兵どもと同じく(たけ)りたっていたとはいえ、英明な小早川隆景殿は、こうした振舞いがやがて毛利に大きな禍をなすであろうことを悟られました。そのこころは、彼を支援して出張ってきていた元就公や、隆元公も同じ。悪辣な奸計や収奪で大きくなってきた毛利家は、これ以降、やっとのこと、戦地における民衆の慰撫や、占した土地を安んじる方策とに、心を砕くようになります。その呼び水となったのは、まぎれもない、沼城で犠牲となった、幾千もの名もなき兵や民の、物言わぬ(むくろ)であったのです。




さて、こうしてじりじりと血みどろの前進を続けた毛利軍は、ようやく、防府の天満宮に進出、ここに本営を置いて山口への突入を(うかが)う形勢となりました。背後からは、主として山陰勢を率いた勇猛果敢な元就公の次男、吉川元春殿の軍勢が迫ってまいります。


まさに、王手でした。


毛利の勢いは凄まじく、斜陽の大内には、もはや抗するすべもございません。完成まじかだった高嶺城はそのまま放棄されることとなり、大内義長公は、山口を戦火に巻き込むことを怖れ、毛利方に(まち)を明け渡してから、長門の勝山城へと退がられました。壇ノ浦のほど近く、みずからの兄君のおられる豊後とは目と鼻の先です。


ここで、兄からの援軍を待ちましたが、海峡の先からは、うんともすんとも返事がありません。勝山城を包囲した毛利軍は、もちろん型通りに周辺の(みなと)()をことごとく押さえて、豊後からの支援を断つように動きましたが、それでも、密使ひとりやって来ぬは不審です。また、外交的に、仲裁や和睦をおこなうような動きもなく、義長公は、兄に冷たく見捨てられたことを、あらためて知ることになったのでございます。


勝山城のどこかの崖の高みに、あの紫の花々は咲いていたでございましょうか。


大内の跡目を受け、兄と手を取り合って西国を制しともに栄えようと夢見た義長公は、その心地よい浅いまどろみから目覚めました。そして、壇ノ浦の海鳴りを聞きながら、自らの、ささやかな夢がはかなく散ったことを今さらながら思い知らされたのでございます。




翌日、毛利の攻囲陣から勝山城へ、二人の軍使が派遣されて来ました。彼らは、福原貞俊(さだとし)と市川経好(つねよし)と名乗り、ともに毛利を支える実務派の重臣でございました。正使の福原は、大内の降伏条件について、次のように言いました。

「われら、義長公へはとくに遺恨ござらぬ。ただ陶と結託し、先君、大内義隆様を討った逆賊、内藤隆世は赦せず。これを切腹させ、ただ騒がず降伏されれば、あとの兵らに手出しは致さぬ。義長公には船をご用意し、豊後までお送り(つかまつ)らん。」


義長公は、言下に()ね付けましたが、脇に控えていた内藤隆世がそれを押し留めました。彼は、すずやかな顔で、義長公の助命は確かか、もう一度福原に確認し、そのあとで義長公にこう言いました。

「拙者、この切腹の名誉を喜びまする。それにより兵らが、また御屋形様の御命が助かり、また先代以来の内藤の汚名も(すす)げまする。どうか、どうか、お立ち退き遊ばし、後日、また海を渡りて大内を再興されんことを御願い奉らん。」


そして、やにわに毛利の軍使ふたりのほうへ振り向くと、その場で脇差を腹に突き立て、うなりながら、そして笑いながら、自決されたのでございます。介錯もなく、そのまま事切れるまでしばしの間がございましたが、そのかん、軍使二人から目を離さず、やがて口から血が流れて、そのまま、どうと前のめりに(たお)れられました。お見事な最期でした。


副使の市川のほうは、この壮絶な敵将の最期に、やや動揺した気配が見られましたが、福原のほうは顔色も変えません。彼は、この自決を見届けたあと、

「それでは、これにて。」

とだけ言い、平然とその場をあとにしました。




内藤隆世が死際(しにぎわ)に言い遺した、「先代以来の内藤の汚名」とは、先代、興盛殿が陶殿のご謀叛のさいにとったどっちつかずの謎めいたお振舞いと、このたび、毛利からの調略に、みずからの叔父隆春殿が(なび)いてしまい、内藤家が真っ二つに分かれる醜態をさらしてしまったことを指しておりました。現に、内藤軍の大半は、隆春どののもと、ただ刀を置き山口の沿道に跪いて毛利軍の入城を迎えることとなったのです。勝山まで、大内家の死出の旅路のお供をしていたのは、わずかに数えるばかりの兵たちだけでした。


さらに、ほんの数十名でしたが、義長公みずからの供回りや、警護の武士たちがおりました。左座(ざざ)宗右衛門も、そのなかに混じっておりました。




隆世が壮絶な自決を遂げたあと、義長公と彼ら一行は、付近の長門長福院に移されました。が、翌日、境内で思い思いに散った彼ら武士たちをかき分けて、また、あの福原貞俊がやって来ました。


「はて、困り申した。」

福原は言います。

「我ら、義長公のお身柄を豊後にお移しすべく、兄君に迎えの船を寄越すよう打診しておったのですが。」

わざとらしく、意外なそうな面持ちをつくり、言葉を続けました。

「兄君いわく、左様な者は知らぬ、と。すでに大友の家を出し者、どこでどうなろうと、知ったことではない、との思し召しにござる。」


長福院の堂内は、(しん)としました。来るべきものが、やって来たのです。

「すなわち。」

福原は、大内方の面々の沈黙をいいことに、平然と冷酷な言葉を続けます。

「われらにも、義長公を受け入れる準備は無し。我らが御屋形様の温情をもって海の向こうに帰られるなら追わねども、帰る先がないとなると、これ、いささか、拙者としても困り申す。」


観念した義長公が、しずかに口を開きました。

「わし一人で良いな?」

福原は、やにわに真面目な顔になり、そのまま、(かしこ)まって平伏しました。

「いかにも。」




すでに、これから何が起こるのかを察した警護の武士共が、騒ぎ始めました。福原を護衛して附いてきていた毛利兵と、小競り合いが起き、不穏な空気が堂内を包みます。


日ごろ穏やかな義長公は、誰も聞いたことのないような大声で、一喝しました。

「鎮まれ!ことここに至っては、是非もなし。儂は、もとより大内の名に殉ずる覚悟を決めておる。いま、これなる福原殿が、儂ひとり腹を切らば、他のものには一切手出しせぬと、武士の名にかけて申された。ならば余は、喜んで腹を切り、隆世と、死んでいった者共のもとに参る。」

言い終わって、念を押すように、福原を見ました。彼は即座に、大声で叫びました。

「二言なーし!我らが欲すは、ただ義長公の御首(みしるし)のーみ!」


堂内、しわぶきひとつ漏らす者はございませんでした。




義長公は、そのまま、辞世の句をしたため、静かに腹を召されました。日の本一の武家として、燦たる栄光に包まれた大内家数百年の歴史が、ここに虚しくその幕を閉じることとなったのです。


辞世は、こうでした。

「誘ふとて なにか恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」


もはや、わたくしごときが、何を申せましょう。このとき義長公が御胸のうちでご覧になられていたのは、あの可憐な紫の花々ではございますまい。櫻花(さくらばな)か菊か、それとも牡丹か。いずれかはわかりかねますが、海を越え、いちどは掴んだその美しき花とともに、まだわずか廿(にじゅう)六歳におなりになったばかりの義長公は、その海を見ながらはかなき御命を散らされることとなったのでございます。


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