5 香精師の仕事
ヴァシルさんは、大理石のベンチの切れ目から鳥籠ガゼボの外に出た。私はベンチに座りながら、目で追う。
彼は滑るように庭を歩いていくと、果樹園の木から実を一つ、無造作にもいだ。オレンジだと思う。
次に、お屋敷を囲むようにカーブしながら続く花壇から、小さな薄紫の花がたくさんついて房になっているものをひとつ、摘んだ。……ラベンダー、だよね、あの花。
仕事って言ってたけど、単にオシャレに収穫してるようにしか見えない。映画か何かの撮影みたいだ。
「お待たせしました」
摘んだものを片手に戻ってきたヴァシルさんは、ふと胸元に手をやった。
変わった銀色のペンダントをしているなと思ったら、それは手のひらに収まる大きさの卵型の入れ物だった。ヴァシルさんはロケットみたいにパカっと開け、白いチョークに似たものを取り出す。そして屈み込むと、ガゼボの床に円を描き始めた。音からいって、どうやらチョークというよりも蝋石みたいな柔らかさのものらしい。
な、何なんだよぅ、精霊の次は魔法陣とか言い出さないでしょうね!?
ビビっているうちにヴァシルさんは描くのをやめ、円の直径に当たる位置にさっきのオレンジとラベンダーを置いた。体を起こし、円の真ん中に立つ。
そして、誰かに呼びかけるように、声を張った。
「始まりの香りに、甘く涼しげな実りを」
とたん、あずまやの中にもう一体の精霊が現れた。
オレンジ色の髪にオレンジ色の瞳、ビタミンカラーの少女だ。
『甘く涼しげな香りを!』
少女のソプラノがそう言ったとたん、パッとオレンジの香りが弾けた。
わ、いい匂い! 搾りたてのジュースみたい!
ヴァシルさんは歌うように続ける。
「やがて優しくほころべ」
ふっ、と、昼間に見た薄紫の髪の女性が宙から降りてきた。
『優しくほころぶ香りを』
今度はふわりと、ラベンダーの香り。穏やかで、包み込むような……
ヴァシルさんが手のひらを上にして差し出すと、そこに卵大の光が浮かんだ。
二つの、それぞれ主張していた香りが、混じり合っていく。最初はツンと強く感じられたラベンダーの香りや、青臭かったオレンジの香りが少し落ち着いて、濃い甘さも柔らかく爽やかになって……
光が、ぽわん、と弾けたかと思うと、目の前に小さな親指大の妖精が浮かんでいた。
人の姿に羽のある、絵本なんかでよく見るあの妖精は、すーっと私の周りを一周する。
香りが、巡る。
ヴァシルさんが、続けた。
「これが、『香精』です。私の仕事は、この『香精』を生み出すことです」
魔法……!
私は、ようやく、思い知った。
ここは、異世界なんだ。私の住んでた世界ではないんだ。
魔法があって、電話はなくて。きっと地図を見ても、東京どころか日本も載っていない。つながりがないって、ヴァシルさんが言ってたもん。
でも……!
「でも、じゃあどうして私はここに!? つながりがないって、でも来たんだから帰れるはずじゃないの!?」
うろたえて立ち上がり、パニックに陥りかけた私を、不意に明るい声が引き戻した。
『やだ気づかなかった。ヴァシル様、この子だぁれ?』
ぱっ、とさっきの搾りたてオレンジジュースの香りがして、ビタミンカラーの精霊が顔を近づけてきた。ショートボブにしたオレンジ色の髪が、丸顔によく似合っている。
「異世界から来た、ルイという娘さんですよ、シトゥル」
そう言ったヴァシルさんは、私にも彼女を紹介した。
「こちらはシトゥル、【果実】の大精霊です」
「ど……どうも」
私は動揺しつつも会釈した。
「大」精霊? そういえば、薄紫の髪のフロエもそんな風に呼ばれてたっけ……【花】の大精霊、とか。
『異世界!? まあ大変、だから心が乱れているのね。私とフロエから生まれた香精が、役に立つといいんだけど』
シトゥルがくるりと、私の周りを一周した。
「役に立つ……?」
つぶやくと、ヴァシルさんが軽くうなずく。
「一日を始める活力のため、悩み事で沈んだ心を励ますため、仕事に集中するため、眠れない夜のため……人々に必要な様々な香りを、私は香精として生み出します。そのうちあなたにも、その効果がわかるでしょう」
そうか。香水を作る人のことを、『調香師』って言うよね。町長さんが『香精師』がどうとか言ってたけど、こちらでは『香精師』がそういう仕事をしてるんじゃない?
アロマテラピー講習会では、理科の実験みたいに色々と混ぜ合わせてたけど、こちらでは色々な精霊がエッセンシャルオイルの役割を果たしていて、香精師が精霊の香りを魔法で混ぜ合わせる。
エミュレフ公国のこの町アモラでは、香精作りを一大産業としていて、中でも有名な香精師がヴァシルさん。そういうことなんだ。
「さて。生まれたてのこの香精が気に入る瓶があれば良いのですが」
彼は片膝をついてベンチの下をのぞき込むと、下から木箱を引っ張り出して蓋を開けた。中には、小さな瓶がいくつも入っている。
香精は木箱の上をしばらく飛び回っていた。やがて、一つの瓶の中に飛び込む。ヴァシルさんはそれを取り出した。
「これを」
差し出されたのは、美しく装飾されたガラス瓶だった。ネットで見たことのあるエジプト香水瓶に似ていて、上が細く下が太い。細い鎖がついていて、首にかけられるようになっている。
戸惑っているうちに、ヴァシルさんは腕を上げてそれを私の首にかけた。
背の低い私の顔にヴァシルさんの胸元が近づき、どきっとする。私はうつむいて、瓶を見ることに集中した。
瓶の中には、さっきオレンジとラベンダーから生まれた香精がいる。
小さすぎて、顔の造作は目と口があることしかわからないけど、なにやらあくびのような仕草をしたかと思うと瓶の底でころんと転がった。か、可愛い。
瓶には蓋をしていないので、さっきの甘く爽やかな香りが続いている。
ヴァシルさんが言った。
「心を落ち着ける効果のある香りです。今の君に必要でしょうから、そばに置くといい」
……私のため?
クシャミのお詫びに働けと言ったヴァシルさんだけど、異世界に来て動揺する私に、ちゃんと合った香精を作ってくれたんだ。
どうしてだろう、本当に心が落ち着いてきた。香精の発する香りって、すごく効くんだ。
私はお礼を言った。
「ありがとうございます……。あの、ここの人たちはどうして、全員日本語がお上手なんですか?」
「ニホンゴ? ああ、君の世界では、言語に意味が載っていないんですか。不便ですね」
ヴァシルさんはさらりと言った。
「この大陸では、昔から言語そのものに意味が載っています。だから、私たちの言葉が君に伝わるのでしょう。君の話す言葉の意味も、こちらには載って聞こえますね。君の世界独特の単語などは伝わらないかもしれませんが」
え、言葉を聞いただけで意味が分かっちゃうってこと? どういう仕組み? 日本語の意味まで通じちゃうってことは、言語に他の何かが作用しているんだろうけど……
いまいち理解できなかったけれど、仕方ない。
諦めたところで、ふと大精霊のシトゥルが近寄ってきて、香水瓶をのぞき込んだ。
『このオレンジとラベンダーの香精、その瓶だと、しばらくしたら出て行っちゃうかもねー。本当は、ちゃんと香精に合わせた瓶を作った方がいいんだよ』
そうなんだ? と思っているうちに、ふとシトゥルは顔を上げ、クンクンと匂いを嗅いだ。
『あなた、少し変わった香りがするね。……何かの、動物の香りかなぁ』
「動物?」
『何かを誘う香り。そういう香りを持つ動物、あなたの世界ではいなかった?』
あっ。言われてみると麝香とか有名だ。ジャコウジカの分泌物から取れる香り。
そうか、香水の原料にはそういう動物性のものもあるんだよね。
『残り香だけど、甘くて素敵な香りだなと思って。それだけ! じゃあねっ』
シトゥルはふわりと浮かび上がると、消えていった。
甘い、残り香……?
その時、私は思い出した。
足立さんのオリジナル香水!
そうだよ、あれを嗅いだ直後になんだか変なことになったんじゃん! まったくもう、トラブルを呼び込むお母さんのホイホイスキル発動だよ!
私は声を抑えようとつとめながらも、ヴァシルさんに訴える。
「私、変わった香水の匂いを嗅いだ直後に倒れちゃって、気がついたらここにいたんですっ」
「そう」
ヴァシルさんは優雅な動きでガゼボのベンチに腰かけ、背もたれに肘をかけてゆったりと私を見た。
「それなら、香りが何か役目を果たしたのかもしれませんね。ここでは、香りが大きな力を持ちますから」
「えっ、それなら、香りの力で帰ることもできますか!?」
思わず身を乗り出したけど、ヴァシルさんは「さあ」と首を傾げる。
「そういう例は聞いたことがありませんが、あるいは」
可能性がないわけじゃないんだ。
そう……あの足立さんのオリジナル香水、ヴァシルさんなら香精として作れるんじゃない!? 同じ状況を作れば帰れるとか、すごくあり得そうじゃない!?
「あ、あのっ!」
私は勢い込んで、ヴァシルさんに聞いた。
「ヴァシルさんに、こういう香りの香精を作ってほしい、って注文することはできますか!?」
ヴァシルが首から下げていたペンダントは、中世ヨーロッパで使われた『ポマンダー』がモデルです。金や銀製で穴が空いており、中にスパイスや練香を入れ、臭い消しや魔除けとして使われました。
ちなみに、オレンジの実にクローブをびっしりと刺してスパイスをまぶしたものもポマンダーといいますが、これも魔除けです。