4 私の身柄は侯爵様に丸投げ
半地下から狭い階段を上がり、小さな扉を抜けると、美しい絨毯が敷かれ階段が優美なカーブを描く玄関ホールに出た。そこから廊下を行った先、一階の客間みたいな場所に行ってみると、ヴァシルさんとスーツ姿のおじさんが向かい合って座っている。
執事のジニックさんと一緒に部屋に入り、頭を下げると、ヴァシルさんが私を手で示した。
「町長、この子がルイです」
町長? ヴァシルさん、やっぱりすごーく偉い人なんだな。町長さんを自宅に呼びつけるなんて。
正直、日本人が来るんじゃないかと期待していた私は、ヨーロッパ系の顔立ちの町長さんにちょっとがっかりした。でもとにかく、もう一度、頭を下げる。
「ご面倒をおかけして、申し訳ありません。楠木泪と言います」
ヴァシルさんはソファにゆったりともたれたまま、町長さんに言った。
「彼女に、色々と便宜を図ってやって下さい。この町のこの屋敷で、心おきなく暮らせるようにね」
すると、町長さんはちょっと出っ張った下腹に組んだ両手を乗せ、顔をしかめた。
「ヴァシル様、お待ちください。何者かもわからない娘が、侯爵家の庭に入り込んでいたのでしょう? 不審者ではないですか」
侯爵って、貴族かな……と思っていると、
「異国から来たルイ、それで十分ではないですか」
とヴァシルさんは口元だけで微笑んだ。
「クシャミをさせられたくらいですから、彼女が私に危害を加えるつもりなら、今ごろ私は死んでいます。行動が不審なのは、異国の文化に従っているから。それだけです」
「危害は加えなくとも、何か探りに来たのかもしれません。とにかく一度、役所に連れて行って取り調べを受けさせなくては。物事には順序というものがございます、他のことはそれからです」
「わたしの屋敷は人目も多い。大丈夫です」
「そういうわけには」
「町長」
ヴァシルさんが、遮るように言った。
ドキッとしてちらりと見ると、表情は変わっていない。でも、声のトーンが下がったような……
「私の仕事は、理論も大事ですが、直感をとても重視します。ご存じですね」
「は、はい。それはもう。ですが」
「あなたに、あの『香精』を作ったときもそうです」
びくっ、と、町長さんが急に背すじを伸ばした。
ヴァシルさんは続ける。
「あなたからお話を伺っただけですが、直感で作りました。まさか実際に、この目であなたと奥方の様子を見てから作るわけにはいきませんからね。その後、お役に立っていますか?」
何の話かは、わからない。わからないけど、町長さんの目が、明らかに落ち着かない様子で泳いだ。広い額にハンカチを当てながら、答える。
「も、もちろんです。妻ともども、大変……お世話に」
「それは何より。ならばぜひとも、これまで私が築き上げてきた理論の上に生まれる直感を、信用していただきたいものですが」
「ええ……それはもう、ヴァシル様なら間違いないかと……」
「ルイについては、私に一任、と言うことでよろしいか?」
「そう、ですね……ではあの、そういうことに……」
……なんか……私、脅迫の現場を目撃してる気がするんだけど、気のせいかな……
私も汗を拭きたい気分になってきたところで、町長さんは何かを振り切ったように顔を上げ、私を見た。
「では君、ここでお世話になりなさい」
「いやいやいやいや、待って下さい」
私はあわてて、口を挟んだ。
そうじゃない。私が聞きたいのはそういうことじゃない。
「働くのは、あの、お詫びとして当然なんですけど。母が心配していると思うので、家に連絡を」
「家はどこです?」
町長さんに聞かれ、都内の住所を言うと、彼は首を傾げる。
「聞いたことがない地名ですね」
変だ。話がちぐはぐすぎる。どんどん不安になって行きながら、私は言った。
「じゃあ、自分で電話します。いいですか?」
「デンワ? 何ですか、それは」
その時、私はようやくおかしいことに気づいた。
このお屋敷に来てから、会う人会う人、みんな外国人に見える。日本人は私一人。それなのに、どうして言葉がすらすら通じるの? 全員が日本語ネイティブ?
黙り込んだ私をちらりと見てから、ヴァシルさんが言った。
「町長。彼女はどうやら、何か事故があって記憶が混乱しているようなのです」
「それはお気の毒に。ええと、ここがエミュレフ公国の南の町アモラだということは、おわかりですか?」
えみゅれふ? あもら? ……日本じゃ、ない?
もはや何も言えない私に、町長さんはせっせと汗を拭きながら立て板に水でズラズラと言った。
「ああ、そのあたりがおわかりでないなら、そりゃあ不安だったでしょう。アモラは『香精』作りを一大産業としています。こちらのヴァシル様は高名な『香精師』ですから、ここで働かせていただけるなら何の心配もいりません。あなたがヴァシル様の言う通りに行動するのなら、役所としては何も言うことはありません。必要な書類は作っておきます。では、私はこれで」
サッと立ち上がると、町長さんはまるで逃げるように、ヴァシルさんに挨拶をして出て行った。ジニックさんが先導し、二人の足音が廊下を遠ざかる。
部屋には、途方に暮れた私とヴァシルさんだけが残った。
一体、どういうことなのかサッパリわからない。私、お母さんと連絡も取らせてもらえないの?
じわっ、と目頭が熱くなる。
どうしよう、いい大人なのに泣きそう。ええい、負けるもんか。
「どういう、ことでしょう」
顔を上げ、ヴァシルさんをまっすぐ見る。視線がぶつかった。
しばらく黙って私を見つめていたヴァシルさんは、ふいに立ち上がった。そして、部屋の掃き出し窓を大きく開ける。
夜の植物園が、目の前に広がった。あちこちにランプが灯してあり、穏やかな甘さを含んだ花の香りが忍び入ってくる。
その時。
ヴァシルさんの肩越しに、ひょいっと女性が顔をのぞかせた。
薄紫の長い髪に、同じ色の瞳。すごい色、でもよく似合ってる。
ん? 待って。この女性、なんだか……身体が透けて……
「ひあっ!? 幽霊!?」
『あらヴァシル様、この子、私の姿が見えるようですわよ』
ヴァシルさんの肩に手をかけて、女性の幽霊はたおやかに言った。
すると、ヴァシルさんはちらりと私を振り向いた。
「それは良かった。この屋敷で働く娘が、精霊も見えない無能では困りますからね」
ひぃ、口調は柔らかいのに優しく聞こえない。
でもあの、精霊って……?
呆然としているうちに、ヴァシルさんは続けた。
「これは、【花】の大精霊フロエです。ルイは普段、こういった精霊たちと交流はありますか?」
「こ、交流って、そもそもいません! 精霊なんてそんな、ファンタジーみたいな!」
思わず声を大きくしたけれど、ヴァシルさんは軽く「そうですか」と言っただけだった。
ふわり、と、紫の髪の幽霊が、部屋の中に入ってきた。
動けないでいる私の髪を、優しく撫でる。ラベンダーの柔らかな香りがした。
私はカチーンと固まりながら、必死で頭を巡らせる。
もしこれがドッキリの類いだったら、ヴァシルさんのいう事をうのみにして後で恥ずかしい思いをするのは私だ。落ち着け。
精霊がいるという設定なら、普通に考えてここはコンセプトカフェみたいなところなのかもしれない。お金持ちが自宅の一部をそういう風にしてる、みたいな。この精霊、どこかに投影装置が隠してあるのかも。
『警戒しているのね、無理もないわ』
フロエ、と呼ばれた幽霊が、片手を頬にあてる仕草をした。
ヴァシルさんは小さくため息をついてから、
「来なさい」
と言うなり、外に出て行く。
ええい、もうどうにでもなれ!
私はそれに従った。
昼間、私が倒れていたのは、洋館の表側だったらしい。表側は花が美しく咲き乱れていたけれど、裏側にはハーブや果樹がたくさんあって、きちんと区分けされている。見事な植物園だ。
美しい鳥籠のような形をした、洋風のあずまや――ガゼボ、っていうんだっけ? そんな建物があって、ヴァシルさんは私をそこに招き入れた。
中央はつるりとした床で、周りをぐるりと大理石のベンチが取り囲んでいる。
見上げると、いくつかのランプが掛けられてガゼボの中を照らしていた。天井には植物の絵が描かれていて――そのあたりに、あの紫の髪のラベンダーがふわふわと浮いているのが見えた。
精霊だ、っていうの? この幽霊が?
「君は、精霊を知らないようですね」
話しかけられて、ヴァシルさんを見ると、彼はガゼボの真ん中に立って私を見下ろしていた。
「精霊のいる場所同士ならつながりがあるのですが、君の世界に精霊がいないのなら、つながりがありません。完全に、異世界、ということです」
異世界?
少し、怖くなってきた。私は自分を奮い立たせ、強く出る。
「何なんですかそれ。失礼をしたのはわかっていますが、とにかく一度、家に帰らせてもらえませんか!?」
「つながっていない、と言ったのが聞こえませんでしたか? 私は冗談を言っているわけではありません」
ヴァシルさんの表情は変わらない。
「君が自力で帰れるというのなら、今すぐにでも帰るといい」
「……う……」
私はエプロンを握りしめる。
このお屋敷を飛び出してみたら、テレビのセットでした! ……なんて雰囲気じゃなくなってきた。この人が何か話をしようとしているなら、聞くだけは聞いた方がいいのかも。
ヴァシルさんは静かに続ける。
「そこに座って。私の仕事を理解してもらわなくてはなりません。しばらく見ていなさい」