9 告白
はっ、と目を覚ますと、見覚えのある部屋にいた。
初めてカルダム神官長に会った、神殿の一室だ。私はソファに横たわっていた。
「あれ……私」
『目が覚めたかい、眠り姫』
ぬっ、と視界にポップの顔が入ってきて、私は反射的にその黒と白の身体を思い切り押しのけた。
「近い!」
『ひどい!』
よよよ、と床で泣き真似をするポップ。大精霊は触ることができないのに、私が押しのける動きに合わせて床に落ちて泣き真似というあたり、熟練の芸人かと突っ込みたくなる。
私は急いで起き上がった。
「ポップ、封印精霊はどうなったの!?」
『あ、それな』
ポップはぴょんと立ち直った。
『イリアンが瓶を作ることに成功して、仮封印が安定したんだ。ちょっと待ってな』
彼はするりと扉をすり抜け、外へ出て行く。
ほとんど間をおかず、扉が開いてイリアンとリラーナが入ってきた。さらに後ろから、ヴァシル様、カルダム神官長、ネデイアさん。揃い踏みだ。
でも、キリルがいない。
「ルイ、だいじょうぶ!?」
飛びついてくるリラーナを、「大丈夫だよ、ありがとう!」と受け止めながら、私は目の前の人々を見渡した。
「あの、キリルは」
すると、カルダム神官長がうなずく。
「別室で休んでいます。先ほどルミャーナ師も来ましたから、任せておいて大丈夫でしょう。……私は、キリルとあなたを競わせるようなことをしてしまったのですね。二人の間柄を知らなかったとはいえ、申し訳ないことをした」
「自ら招いた荒療治で、立場を自覚したことでしょう」
ヴァシル様はばっさりと、クールな口調で評する。
「ルイ、スラープはひとまず安定しました。イリアンの瓶のおかげでね」
「いえ。ヴァシル師が大精霊たちの力でスラープと神獣を抑えてくださったおかげです。俺は言われるまま、その間に瓶を作っただけで」
立ったままのイリアンは、少し疲れているようだ。
ヴァシル様が全員を促して座らせながら、私を見る。
「後は、あなたとポップが見つけてきた『バニラ』の香りを使って、早急に新しい封印香精を調香するだけです」
「でも、あの香りはバナクに行かないとないんじゃ」
『香りがするものさえ見つかれば、オレがバニラの精霊を呼び寄せてやるよ。香り、あるんじゃないか? たとえば、そう……エミュレフにはバナクの人々の住む集落がある。そこの市場なんかに、な』
ポップがニヤリと笑う。
私は両手を打ち合わせた。
「そうか、スパイスとして市場に入ってきてるかも!」
カルダム神官長が、私を見つめて微笑んだ。
「【スパイス】の大精霊と、その母のおかげです。ルイはやはり、正しき候補者だった。祖父が見つけてくれたのですね」
「……え」
私は戸惑って、ヴァシル様を見た。イリアンも、何の話かわからない様子だ。
ヴァシル様はうなずく。
「今こそ、事情を明かすときですね。……ルイ。カルダム神官長の祖父である香精神官は、年老いて亡くなるとき、私にひとつの約束をしたのです。失われた封印香精の処方箋を完成させるためにさんざん探し回ったけれど、香精を作ることのできる香精師は見つからない。自分はこれから死に、あちらの世界へ行く。こちらでダメなら、あちらの世界にはきっといる。世界を救う人物を、捜し出してみせます、と」
「私の一族は、かすかながら前世の記憶を持ったまま生まれ変わります。ですから、ルイ、あなたの世界のことも知っている」
カルダム神官長が続ける。
「祖父は、二つの世界を渡る香精を研究していました。研究は完成こそしませんでしたが、その記憶を持ったまま、あなたの世界で生まれ変わった。どうやら、はっきりとは覚えていなかったようですが」
「あ、はい。足立さんは、作りたい香りがあるけれど、どうして作りたいと思うのかがわからない、でも使命感みたいなものがあると言っていました」
以前ヴァシル様に説明したことを、もう一度説明する。カルダム神官長は繰り返しうなずいた。
「やはり。それが、世界を渡る香りだ。あなたの世界で祖父は処方箋を完成させ、その香りに反応する人を無意識に探していたんです。偉大な香精師になれる素質のある人をね。そしてとうとう、ルイがその香りに反応した」
「い、偉大な、って」
私はあわててしまった。
弟子として優秀でもなんでもなく、私がやったことといえば【スパイス】に関することだけ。そんな私に、偉大とか言われても困る!
機嫌よく、神官長は続けた。
「祖父の生まれ変わりの男性は、ルイのお母上と一緒にいるそうですね。きっと、お母上を大事にしてくれると思います。孫の私が保証しますよ」
「あ……ありがとうございます」
急に、肩のあたりが軽くなったような感覚があった。
こんな突拍子もない話なのに、私、少し安心してる。
きっと、お母さんは大丈夫だ、って。
そうだ。ひとつ気になることが。
「あの、カルダム神官長のおじいさんが、ヴァシル様にそういう遺言を残したということは……そのころ、ヴァシル様はすでに、あの……」
「ええ。大人の、この姿でしたよ」
ヴァシル様はうなずく。そして、ちらりとイリアンを見た。
低い声で、告げる。
「イリアン、そしてリラーナも、大精霊たちを使役する私の言葉を聞いていたでしょう。私はその頃にはもう、自分が『精霊王』だという自覚がありました。さすがにそろそろ時期を見て公表しなくてはなりませんが、それまでは他言無用ですよ」
イリアンは一度私の顔を見てから、ヴァシル様に視線を戻し、神妙にうなずいた。
カルダム神官長とネデイアさんがにこにこしているところを見ると、どうやらこの二人は元々知っていたようだ。
「さて、私はルイに少し話があります」
不意に、ヴァシル様がいつもの口調に戻った。
カルダム神官長が立ち上がる。
「では、我々は仕事に戻ります。イリアン、バナクの集落に香精神官たちを派遣するので、案内してほしい。バニラを探しましょう」
「はい」
イリアンはうなずき、私に軽く手を挙げると、リラーナと一緒に部屋を出ていった。私も二人に手を振る。
続いてネデイアさんも、こちらに微笑みかけてから、部屋を出ていった。
ヴァシル様と私、二人だけになる。あ、いや、さりげなくポップはいるけれど。
ヴァシル様の、形のいい、薄い唇が開かれた。
「ルイ。私は、あなたに謝らなくてはならないことがあります」
「えっ。な、なんでしょう」
背筋を伸ばして姿勢を正す私に、ヴァシル様は少し眉尻を下げ、申し訳なさそうに微笑んだ。
「今までずっと、曖昧な態度をとってきたことです。二つの世界の関係すら、最近まで教えなかった。元の世界に帰るための修行だといって色々とやらせながら、帰らなくてもいいというようなことも言った」
「あ……」
そう。ヴァシル様が何か隠してると思ったから、私もいちいち戸惑ってしまっていた。
「どうして、なんですか?」
「それは……」
ヴァシル様は困ったように、前髪をかき上げた。
白い頬が、薄紅色に染まっている。
「あなたは、封印香精の問題を解決できる候補者として、この世界に送り込まれました。ですから最初はとにかく、ルイに香精師としての知識をつけさせようとしていました。日本に帰れるかもしれない、という可能性に過ぎないことを、いわばエサにして、役目を果たさせようとしたのです」
「は、はい」
「けれど、ルイがポップを生んで精霊母となったとき、思ったのです。もしかしたら、この子には私と同様、精霊王の素質もあるのかもしれない。精霊王は、ひとりとは限りませんからね。そうしたら……長い時間を、私と共に生きてくれるのかもしれないと」
「え……」
私も、精霊王に?
ヴァシル様と一緒に、長い時を生きる?
「そう思いついてからは、ルイを見るたびに、そうなったらいいと考えるようになってしまった。君のように、明るくて、思いやりのある女性がずっとそばにいてくれたら、どんなにいいか。だから、返したくないという気持ちが、しばしば態度に出てしまいました」
琥珀の瞳が、私を見つめている。
言葉だけをとらえれば、ヴァシル様は仲間が欲しいだけなのかもしれない。けれど、その視線の意味に気づかないほど、私は子どもではなかった。
胸が、高鳴る。
「ルイ。一度、考えてみてほしい」
あのヴァシル様が、頬を染めながら一生懸命、言葉を選んでいる。
「こちらの世界で、私と共に、精霊たちと生きることを。私は、ひとりで生きるより、あなたという女性と共に生きたい。そう、望んでいます」
「あ……」
私の頬も、熱くなった。
どうしたらいいんだろう。日本に帰るための香りの手がかりを、ナーグの中で見つけたばかりだ。
うろたえて、目を伏せる。
「……帰るのが、当然だって……気持ちが、ついていかなくて、あの」
「すぐに返事をしなくてもいい。私には、時間だけはあるのです」
ヴァシル様は微笑んだ。いつもの、余裕のある微笑みに戻っていたので、なんだかホッとする。
「はい。すみません」
ぺこりと頭を下げたところへ、ヴァシル様の声が降ってきた。
「ただし、ルイに近寄ってくる男には渡しません。それだけは覚えておきなさい」
出た。ヴァシル様の必殺技、冷たい温度さえ感じさせる一言。
彼はソファから立ち上がり、部屋から出ていった。
固まっている私の膝に、ポップが飛び乗ってきて、一言。
『こっわ』
「…………ポップうぅ……どうしよう」
今まで生きてきて、ここまで困ったことはあっただろうか。というくらい、私は混乱していた。
涙目になっている私を見て、ポップも同情したのか、私の肩をぽんぽんと叩く。
『ま、まあ、ゆっくり考えればいいんだから、少し落ち着け。うーん、しかし、そっかヴァシルはルイが好きなのか。ルイの方の結論が出ないまま、ヴァシルんとこで修行するのも気まずいよなぁ』
「ほんとだよ……それに、ヴァシル様の気持ちに、こ、応えるならまだしも」
『断るならよけい、ヴァシルんとこにはいられないよなぁ。って、えっ、もう断るつもりなわけ?』
「わかんないよ! 考えたこともなかったもん! ううう」
『だよな、うん、ごめん。とにかく、なんか食うか飲むかしようぜ。ルイは疲れてる』
おとなしくポップの提案に従い、二人で部屋を出たとたん、イリアンに出くわした。
「わあっ!」
「何、驚いてんだよ」
イリアンが眉を片方上げる。
「香精神官たちの準備ができたから、市場に行ってくるってヴァシル師に言いにきたんだ。今、そこで会ったけど。ついでにルイの様子も見ていこうと……」
彼は、じっ、といぶかしげに私の様子を見つめた。
「……もしかして、ヴァシル師になんか言われた?」
「えっ」
ぎょっ、と過剰に反応してしまい、一歩下がる。
「ルイがナーグの瓶から無事に戻ってきた時、ヴァシル師、なんかすごい愛おしげに腕に抱いてたんだぞ。覚えてないだろうけど。それで、やっぱりなって」
「やっぱり!? イリアン、ヴァシル様の気持ち、気づいてたの!?」
「あんだけ牽制されれば気づくって。ヴァシル師、ルイを必死で俺に渡さないようにしてたじゃないか。ルイが気づいてなかった方がおかしい」
イリアンはため息をつき、そっぽを向いた。
「さっき、ルイの世界がどうとか言ってたけど……国に帰るのか」
「……帰りたいと思ってたけど、でも……」
「迷ってるのか。……まあ、俺は、せっかくの気の合う相棒だし、この国にいてほしいけどな」
彼はさらりとそういうと、「じゃ」と片手を挙げて、早足で立ち去っていった。
私はなんだか、足がどこにも着いていない、宙ぶらりんの状態になってしまったような、心許ない気持ちになった。




