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8 最後のピース

 ゆっくりと、落ちていく感覚。

 私はおそるおそる、目を開いた。


 夜明け前の空のような、薄い青の世界だ。雲のような、霧のような、白いヴェールが幾重にも重なった場所を、ゆるゆるとかき分けるようにして落ちていっている。


「こ、ここは」

『ナーグの瓶の中だ』

「ポップ!」 

 はっ、と見回すと、ポップが肩の上に降りてきたところだった。

『大丈夫かな? 母なる美しきルイ』

 ばっちーん、といつもの調子でウィンクするポップに、ちょっと落ち着く。

「う、うん、たぶん。そっか、ポップはナーグと一緒にいたんだもんね。ええと、瓶の中って……」

『まあ、ナーグの世界ってことだな。ルイ、上を見てみろよ』

 ポップの言葉に、私は上を見上げた。


 遥か高い場所では、黒いもやが渦巻いていた。時々、稲妻が走る。


「嵐……」

『スラープが怒り狂ってるんだ。もうすぐお役御免だったところを叩き起こされて』

「あー……怒るよねぇ、そりゃ」

 百年近くに渡って役目を果たしてきたのに、引き継ぐための封印精霊ではない何かが来てひっかき回しちゃったんだもんね。


「キリル……焦ってたのかな。憧れのヴァシル様がしょっちゅう出入りしてたし」

『うん。そこへ加えて、ルイの方がうまくいっているように見えたんだろう』

「私だって、封印精霊を調香できたわけじゃないんだけどね。時間を稼いだだけなのに」

 今は、ヴァシル様の力があるものの、ナーグがメインで神獣を抑えている状態のはずだ。

「ど、どうしたらいいんだろう。上が元の場所? 戻りたいけど、あの様子じゃ」

『とにかく、ナーグに会おう。奥に「本体」がいるはずだ』

 戸惑いながら、再び下を見る。


 と、ヴェールの向こうに何か別の色が見え始めた。

「ここは……」

 何枚かのヴェールを通り抜けると、パアッと広がったのは美しい宮殿を上空から見た景色だった。

 ドーム上の屋根、金の壁に赤い装飾タイル。オリエンタルな雰囲気の宮殿だ。


「これ、もしかしてバナクじゃない? イリアンの家にあった織物やなんかと、デザインが似てる気がする」

『エミュレフとバナクは、昔から強いつながりがあったみたいだからな。封印香精にも関わってるんだろう』

「確か、封印香精は古代からの記憶を受け継ぐって……ってことは、ここはその記憶の中?」


 そのとき、ふっ、と鼻先をかすめた香りがあった。

「あれ? 今、何か香ったよ」

『なんの香り?』

「ええと……他の香りと混じって、知ってる香りがあったのに」

 脳裏に、故郷の我が家が浮かんだ。

『カフェ・グルマン』の座席で、スイーツを楽しみながら談笑するお客さんたち。コーヒーや紅茶の香りに混じって、甘い香り。


「この香り、エミュレフに来てから初めて香ったものだと思う。鍵になる気がする」

『封印香精のか? あっ、なーるほど、エミュレフにない植物だったから今まで見つからなかったのか!』

「きっとそうだよ。仮で作ったそっくりさん香精に足りない部分に、まるでパズルのピースみたいにピッタリはまりそうな気がする。なんの香りだったっけ……」


 そのまま、私とポップはゆっくりと降りていく。

 宮殿の庭には大きな池があり、私たちはちょうどそこに降りた。さらに水面を突き抜け、濡れる感覚も全くないまま降りていく。

 私は息を呑んだ。

「誰かいる」


 池の底に、人影があった。

 十代前半くらいの女の子だ。変わったピンク色の髪に、クリーム色の肌をしていて、背中には透き通った羽。まるで天女のようなひらひらした衣をまとっている。

 そんな可愛らしい外見の女の子は、ものっすごく不機嫌そうに、こちらを見上げていた。


『やあ、ナーグ姫』

 ポップは、ひょい、と私の肩から離れた。女の子のすぐ脇に着地する。

「ちょ、ちょっとポップ」

 少し下がった位置に着地した私は、ポップの後ろから近づいた。

『先ほど私を呼んだ、【スパイス】の大精霊じゃな』

 女の子──封印精霊ナーグの本体は、腕組みをしてポップをにらみつける。この世界では、リラーナと同じくらいの大きさだ。

 ポップは両手を軽く広げた。

『そうさ。オレの刺激、気持ちよかっただろ?』

『……お主が言うと卑猥に聞こえるな』

「そうだ、その通りー」

 後ろから小声で突っ込む。


 ナーグが私をちらりと見た。眉を逆立てている。

『ふん、香精師か。代々、私たちに何百年も神獣のお守りをさせたあげく? 引き継ぎに失敗し? そんな自分たちの失敗をなんとかするために、引退寸前の私たちを叩き起こして頼る? はっ。無能じゃの』

「か、返す言葉もございません」

『ふん、ここで永遠に反省するがよいわ』

「え、永遠に!?」

 そんなご無体な、と言いかけた私の頭に、ポップが飛び乗った。

『うはぁ、ナーグ姫、最高だな』


「へ?」

『は?』

 私は小声で、ナーグ姫ははっきりと馬鹿にするように、ポップの言葉に疑義を表明する。


 ポップはうっとりと、両手を広げた。

『見ろよルイ、この世界を。香りの生まれた場所を全て内包し、その寛容さで神獣を眠らせていた封印香精……しかも香精の可憐さを失わない姿……美しい』

『な、何を言い出すかと思えば当たり前のことを』

 ナーグはちょっと身体を引いて、ふん、と横を向いた。ふくれた頬がつやめいて可愛らしい。

『香精師がそう作ったのであろうが!』

「で、でも、調香したのは香精師でも、何千何万とある香りからあなたという完成された存在が生まれたのは、すごいことだと思う」

 恐る恐る言ってみると、ポップがすぐに付け加えた。

『そうさ、人間だけの力じゃこうはいかない。運命だ。奇跡だ。ナーグ姫は生まれるべくして生まれた美!』

 彼はナーグのまわりを飛び回った。

『あぁ、いい香りだ。ナーグ姫はすごい。オレ、惚れそう』


『そ、そんなに言うなら私の命令を聞くがよい!』

 ナーグはひらりと、まとった衣を翻して片手を前にのばし、何かを指し示すようなポーズを取った。

『私を引き立てて、もっと力を強くするのじゃ!』

『気の強い香精、最高! おおせのままにー!』

 ポップはひれ伏し、ナーグのつま先にキスをした。


 うわぁ……なんなのこの、女王様と下僕みたいなアレは……ポップってマゾだったんだ。

 内心げっそりしたことは、秘密である。


「あの、でもいつまでもナーグ姫にお願いするわけにはいかないよ。スラープを何とかしないと」

 今なら聞けそうな雰囲気だ、と、私はナーグに直接尋ねる。

「実は、封印香精の処方箋が失われてしまったために、引き継ぐ香精を作ることができないでいるの。さっき、その手がかりになりそうな香りがしたんだけど」

『どの香りじゃ。連れて行け』


 いきなり、私たち三人(?)の身体が浮いた。

 もと来た空間をたどり、池から抜け出し、上空へと上っていく。


「あ、今。この香り!」

『宮殿から漂ってくるこの香りか。かつては香精によく使われておった。元になっている植物は、あれじゃな』

 ナーグが指さした先にあったのは、太い木に絡まる蔓のような植物だった。白っぽい筋の入った幅広の葉っぱがついていて、かなり長い。

「これは……?」

『名前は知らんが、(さや)に精霊がおる』

『ルイ。たぶんこれ、オレの仲間だ。【スパイス】だ!』

 ポップが嬉しそうに言った。


 ポップの仲間? 莢をスパイスとして使う……? それならきっと、この細長い莢を乾燥させるんだろう。乾燥したらきっと、黒ずんで……


 カチッ、と、香りと記憶が結びついた。

「わかった! バニラだ!」


 甘くて上品なこの香りは、バニラビーンズの香りだ。

 封印香精に必要だったのは、エミュレフにはなくてバナクには存在する、バニラの香りだったんだ! 


『やれやれ、わかったならさっさと戻って調香し、引き継ぎをせよ。スラープの暴走の混乱で、こんな場所に香精師を引きずり込んでしまったが、不満をぶつけて少しはすっきりしたわ』

 ナーグがシッシッと片手を振る。

「ありがとう、ナーグ姫!」

『そんなぁ、お名残惜しい』

 ポップがくねくねしたけれど、ナーグ姫はクールだった。

『早よ、去ね』


「ほら、行くよポップ!」

 私はポップを急かし、上空を目指した。勢いがついたのか、少しずつスピードが上がっていくのを感じる。

「バニラか、そうかぁ。バナクに取りに行かないとね」

『だな。でも、それまでヴァシルとナーグ姫が保つかな』


 会話しながら空を切り、再び白いヴェールの波間に入ったとたん──


 ──もう一つの香りがした。


「えっ」

 私は、ハッ、と辺りを見回す。勝手に身体にブレーキがかかり、私は宙に浮いた。

『ルイ、何やってんだ』

 ポップがあわてて戻ってくる。

「ま、待ってポップ。今の……」

 私は目を見開きながら、もう一度あちこちに視線をやった。

 するとまた、かすかに、あの香り。

  

 ──何の香りなのか僕も知りたくて、会う人会う人に試してもらってるんですよ──


「世界を越える香りだ!」

 私はその香りに集中した。身体が勝手に、香りに引き寄せられる。

『ルイ!? どこ行くんだ、ひとりじゃ』

「ポップはヴァシル様にバニラのこと知らせて! 後から行くから!」

 叫んだとたん、ざあっ、とまるで波が押し寄せたかのように、ヴェールがたなびいた。ポップの姿が見えなくなる。


「わっ!?」

 横から次々と、白い何かがぶつかってきた。

 ううん、実際にはぶつかっていない、私の身体をすり抜けていくだけなんだけど、とにかく数が多い!

 手で顔をかばうようにしながら、観察する。


 それは、半透明の姿をした動物たちだった。私から見て右から左の方向へ、何種類もの動物たちの姿が群をなして、川のように流れていく。

 彼らは、あふれる光から生まれるようにして、私の方へ流れてきていた。


「あの光は、なんだろう……?」

 つぶやいたとき、私にはすぐにわかった。

「そうか。私の世界だ」


 ヴァシル様が話してくださったことを思い出す。

 私の世界で死んだ命は、こちらに生まれ変わる。こちらの世界で死んだ命は、私の世界で生まれ変わる。二つの世界は、そういった関係にあるのだと。

「私の世界で死んだ命が、こちらの世界へやってきているんだ。生まれ変わるために」

 ただひとり、その奔流の中で立ち止まりながら、私は魂たちを見送る。


 この流れをさかのぼったら、行き先は日本かもしれない。けれど、ここは魂の通り道なのだ。たぶん、本当の意味では帰れない。


「ちゃんと身体も帰らないとね。……ん?」

 何か、大きな物が近づいてくる。

 本当に大きい。私の身体の何倍もあって、魂とはいえ少し怖くなり、私は少し脇に避けた。

 その姿は……

「クジラだ!」


 ゆったりとひれを動かし、半透明のクジラが目の前を通り過ぎていく。

 このクジラも、こちらの世界で生まれ変わるんだろうか? エミュレフに来てから、まだ海さえ見たことがないから、海の生き物がどんな風なのか知らないけれど……


 そして、クジラが私の目の前を過ぎ去る瞬間に、また、あの香りがした。

 足立さんの作った香水に感じた、不思議な香り。


「あっ。そうだ、思い出した!」

 ヴァシル様のお屋敷に出現して、町長さんに会った後、私はヴァシル様に初めて香精を調香するところを見せてもらった。そのとき、【果実】のシトゥルがこう言ったのだ。

『あなた、少し変わった香りがするね。……何かの、動物の香りかなぁ』

『残り香だけど、甘くてすてきな香りだなと思って』


 日本からこちらにやってきたばかりの私に、足立さんの香水の香りが残っていたとしたら。

 それを香ったシトゥルが、動物の香りだって言った!


「そうか。世界を越える香りには、動物の香りも必要だったんだ。それなら、私が探すべき香りは……!」

 ついに、ついに手がかりをつかんだ!


 気が急いた私は、動物の魂の群を抜けてナーグの世界から出ようとした。

 けれど、大きな奔流の中にいるためか、うまく動けない。白いヴェールの向こうが、よく見えなくなってきた。


 あれ……なんだか疲れて……


「ヴァシル、様……」

 ぼうっとなってきた私は、そのまま目を閉じ、ゆらりと空間に浮かんだ。

 

 満ち溢れる光の中に、誰かが立っている。

 神聖な雰囲気のオーラをまとった、おそらく男性だ。外国人というより、どこの国でもない別世界の住人という雰囲気。襟足でカールした白いウェーブヘア、琥珀色の瞳。

 笑いを含んだ声が、聞こえた。

『やれやれ、ひとりで古代精霊の世界を行くなんて、無謀にもほどがある。今、助けますよ、ルイ。あなたは大事な候補者だ』


 ──候補者……そう、世界を渡ったときにもそう言われた……


 あれは、あの人は、ヴァシル様。

『精霊王』だったんだ──

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