7 封印香精の暴走
「それでは、今度こそ私は屋敷に戻ります」
ヴァシル様が言い、我に返った私はキリルのブースから向き直って、頭を下げた。
「今日もありがとうございました!」
「引き続き頑張りなさい。何かあったら遠慮なく連絡をよこすように」
そう言って、ヴァシル様が出口の方へと向かいかけたとき──
ズン、と、低い振動が響いた。
「……今の、何?」
『さあ?』
私とポップがきょとんとしているところへ、ヴァシル様が早足で戻ってきた。
「地下です。神獣のところだ」
「えっ」
思わず息を呑む。
ヴァシル様の背後、ホールの出入り口の所に、イリアンとリラーナが姿を現した。
「ルイ」
「あ、イリアン」
「さっきの香精がどうだったかと思って、帰る前に来てみたんだが……もしかして、何かまずいことになったのか?」
「え、あ、瓶のせいじゃないと思うけど……あの、ちょっと見てくるから、私のブースで待ってて」
すでにヴァシル様は先を行っている。私とポップは後を追った。
地下の通路に降り立ったとたん、私は背筋を悪寒が走るのを感じた。
「何、これ」
うまく説明できないけれど、廊下の先から圧力を感じる。空気が突然重くなったような、そこにおかしな磁場があるかのような。
でも、ヴァシル様はどんどん先を行っている。
「ええい、行くよ、ポップ!」
『うぇぇ』
珍しくうろたえているポップを連れ、廊下を進んだ。
そうして、神獣のいる水槽のある場所まで来たとき、私は立ち止まったまま動けなくなった。
「うそ……!」
割れている。
水槽の両側にあった、巨大な香精瓶──そのうちの右側のひとつ、スラープの瓶が、割れていた。
そして。
私の目の前で、双頭の恐竜の片方が目覚めつつあった。ゆっくりと目を開きながら、頭をもたげている。
「あ……ああ……」
しゃくりあげるような声が聞こえて、そちらを見ると、壁際にキリルが座り込んでいた。
血の気の引いた白い顔に、水槽から発せられる青い光が映って、まるで人形のようだ。
近くに、神殿の香芸師の女性が倒れている。
「キリル! 何があったの!?」
駆け寄ってひざまずくと、キリルはようやく私を見た。
「わ、私はちゃんと、作ったんだ」
「何を!?」
「ナーグや、スラープに代わる、封印香精。ちゃんと、あれで、合ってるはずなのに……」
悲鳴のような音が響いた。
振り向くと、神獣の周りを青白い光が走っている。
「今のが、あなたの作った香精!?」
キリルに聞いたけれど、返事をしたのはヴァシル様だった。
「違う、あれはスラープだ。キリルの作った封印香精と反発し合って暴走しているんです」
「何事です!?」
神官長や香精神官が数人、駆けつけてきた。けれど、皆、呆然とするばかりだ。
ビシッ、と音がして、水槽に亀裂が入った。
まずい!
ヴァシル様が声を張った。
「ポップ!」
『はいよっ』
ポップが宙をスライディングするように、ヴァシル様の前まで突っ込んでいく。
「君に頼みたい。ルイの香精と一緒に、ナーグを支えてやってくれ!」
『了解!』
ポップが光の球となって、左の封印香精、ナーグの瓶のところへと奔った。
弾ける、ブラックペッパーの香り。スパイスが、たったひとりで封印を担うことになってしまったナーグを力づける。
ヴァシル様はローブのポケットから蝋石を取り出し、水槽の前の床にものすごい勢いで調香陣を書き始めた。
こ、細かい! いつもの陣と全然違う。
何が起ころうとしてるの……!?
ヴァシル様は、とんでもなく複雑な調香陣を一気に書き上げると、中央にサッと立った。
「フロエ! シトゥル! ビーカ! エクティス! トレル! ハーシュ!『精霊王』の名において命じる、急ぎ集え! これは世の全ての営みに優先する!」
『御意!』
いくつもの声が、同時に応えて──
──調香陣の上に、何本もの光の柱が立った。
フロエの華やかな紫の髪が、シトゥルのきらめくオレンジの瞳が、ビーカの緑の風のような仕草が、エクティスのえもいわれぬ香りが、トレルのまとう澄んだ空気が、ハーシュの神秘的な威厳が……
そして、ナーグと共にいるポップの閃光のような力が飛び込んでくる。
七つの力が、調香陣の上で一つになる。
「七大精霊の力で、神獣を仮封印します」
低く言うヴァシル様を、私は声もなく見上げた。
淡く光る白銀の髪、琥珀の瞳。
さっき、『精霊王』って……年を取らないという、精霊たちに愛された存在。エミュレフの元首である大公を上回る、王。
まるで、神様、みたい……
「ルイ」
ヴァシル様の鋭い声に、私は我に返った。
「えっ、あっ」
琥珀の瞳が、私を貫くようにとらえる。
「香芸師が必要だ、イリアンを呼びなさい。暴走するスラープを落ち着かせねば。彼に、スラープの瓶を作らせます」
「は、はいっ!」
呆然と座り込むキリルが心配だったけれど、私は転びそうになりながら立ち上がり、廊下を走った。イリアンを呼び戻すために。
礼拝堂のすぐ外でぶらぶらしていたイリアンを呼び止め、私は隠していた事情を手短に話した。
イリアンはさすがに衝撃を受けた様子だった。リラーナが心配そうに、彼を見上げる。
けれど、彼は臆することはなかった。
「ナーグって方の瓶は無事なんだよな? 見せろ」
「うん。あの、リラーナは」
「聞いた話が本当なら、安全な場所なんてどこにもない。連れて行く」
「わかった。こっち!」
私は神獣とナーグの所まで、二人を案内した。
ヴァシル様の作った調香陣は、七体の大精霊たちによって七色に光り、静電気のようにピリピリしたものをまとっていた。
そしてその光は、神獣をも包んでいる。獣は、まるでうなされているようにうごめきながら、それでも水槽の中にとどまっていた。
ヴァシル様は目を閉じ、集中しているようだ。
「……これは」
息を呑むイリアンに、私はささやく。
「ヴァシル様、さっき大精霊たちに『精霊王の名において命じる』って、言ってたの」
「精霊王」
イリアンはつぶやいた。
「母が言ってた。ヴァシル師は三十数年前、アモラ侯爵の位を授爵して、この町にやってきたらしい。母が子どもの頃から、年を取ったように見えないって。この方が……精霊王……」
「そうです」
ヴァシル様が、光を見つめたまま低く言った。
「自分がそうだということは、気づいていました。老いないのだからいずれは周囲にもわかってしまうことですが、政治的に利用されるのを避けるため、ギリギリまで黙っていようと。……とうとう、そのときが来たようですが、今はそれどころではない」
その言葉に、イリアンが我に返ったようにその場を見回した。
「ナーグの香精瓶は、これか」
彼はナーグの瓶を観察し、水槽全体を観察し、そしてかがみ込んで床で割れたスラープの瓶を観察する。
「たぶん、この場所は光の入り方も考えられて作られてる。とすると、瓶の位置がここで、色は」
イリアンはぶつぶつつぶやきながら考え込み、そして顔を上げた。
「硝炉はどこだ」
「上です」
応えたのは、ヴァシル様だった。調香陣のそばに立ったまま、イリアンを見る。
「私はここで、神獣を仮封印するのに集中します。神殿の人々の知識を合わせ、瓶を作ってください。君ならできます」
「はい」
「香芸師ギルドのイリアン、ですね。案内します」
他の神官と何か話をしていたカルダム神官長が、すぐにイリアンを呼んだ。すぐに二人で階段の方へと向かう。
私には今、できることが何もない。どうしたらいいだろう。
「ルイ……わたし、ルイと一緒にいていい?」
兄が大事な仕事を始めるのだと悟り、リラーナは不安そうに私を見上げる。
私はうなずいた。
「もちろん。イリアンの仕事が終わるまで、私と」
言いかけたとき、不意に脳内に声が響いた。
『……に……をさせ……』
女の子の声だ。でも、リラーナではないみたい。
「誰?」
ぐるりとあたりを見回す。
すると、ナーグの方を見た瞬間、まるでそちらにアンテナが向いて電波を受信したかのように、はっきりとした声が飛び込んできた。
『わしに、これ以上何をさせる気じゃ! いい加減にせい!』
そのとたん──
フワッ、と、私の身体がわずかに浮いた。
「え」
「ルイ!」
ヴァシル様が珍しく、焦った表情で顔を上げる。
ぐんっ、と、身体が引っ張られた。
昔、こんな場面を映画で見た……飛行機の窓が割れて、機内の人や物が窓から外へと吸い出されていく場面。
あんな感じに、私の身体はナーグの瓶へ、ズルズルと踵を引きずりながら吸い寄せられていく。
「う、嘘」
ぎょっとなりながらも、私は反射的にリラーナを突き飛ばした。
巻き添えにするわけにはいかない!
直後、まるで身体が液体になったかのように、しゅうんっ、とどこかへ吸い込まれる感覚があって、あたりが薄暗くなった。
「ルイ!」
リラーナの泣きそうな声が、聞こえた気がした。




