5 自分にできること
そして――
いよいよ、神殿での仕事が始まった。
ヴァシル様のお屋敷にいたころは、午前中は厨房の仕事だったけれど、ここではフルタイムで香精の研究をすることになる。
とにかくまずは香り探しだ、と、神殿が所有している植物園を歩きまくった。ヴァシル様のお屋敷よりは小規模なんだけど、逆にコンパクトで回りやすいともいえる。
数日かけて、どこに何が生えているのか、私はどんどん覚えていった。
「あああ、キリルがうらやましいよおお」
休憩時間、私は植物園のベンチで足をじたばたさせる。ポップがベンチの背で逆立ちしながら聞いてきた。
『おっ、珍しいなルイ、キーキーしてるなんて』
「だってポップ、私、文字がほとんど読めないじゃない。神殿に所蔵されてる記録や研究書が、全然読めないんだもん!」
そう。特に研究書が読めないのだ。
香精神官が過去に試した組み合わせなんかは、材料名が読めればどうにかわかるので、二度手間は省ける。でも、ちょっと細かい内容になってくるともうお手上げ。その、ちょっと細かい内容に、重要な情報が入っているかもしれないのに。
キリルは毎日、時間を決めて、片っ端から文献を読み込んでいっているようだ。
『ないものねだりしたって仕方ないぜー。ルイはルイで、キリルができないようなことをやりゃあいいじゃないか』
「簡単に言うなぁ。そりゃ、私とキリルが別のことをやった方が、ナーグとスラープを作れる可能性は広がるんだろうけどさ」
でも、私はついでに、日本に帰る方法も探したいのだ。キリルが読んでいる文献の中にそんな情報があったらと思うと、つい焦ってしまう。
「かといってキリルに、これこれこういう情報があったら教えて! なんて言っても教えてくれないだろうしね」
『そういや、キリル、こないだ植物園を歩きながらつぶやいてたぜ。「ルイには絶対に負けられない」とかなんとか』
「やっぱりかー。だよねぇー」
展示会の時は、大勢の香精師の中に私とキリルがいる感じだったけど、今の状況だとなんだか一対一みたいになっちゃってるもんね。キリルにしたら、負けられないんだろうな。
私は別に、自分以外がナーグとスラープを作ってくれるならそれでいいんだけど。むしろウェルカムなんだけど。安心して、帰還方法探しに没頭できるもん。
「あーあ、誰か私に文献を翻訳してくれないかな」
言っても詮無いことをぶつくさつぶやいてみたけれど、言うだけ言ったらちょっとスッキリした。
「仕方ない、私にできることをやるか。ちゃんと仕事を頑張って、その後なら、カルダム神官長のおじいさんの記録を見せてもらってもいいよね。それくらいは許されるよね」
『ご褒美がぶら下がってると思えば、やる気になるよな! で、次は何に手を着ける?』
「そりゃあ」
私は、ぴっ、とポップを指さす。
「あなたの出番でしょ」
『おっ。待ってました!』
ポップは、ぽん、と宙返りをした。
今まで多くの香精師たちができなかったことを、私に期待するなら、やはり七番目の精霊母として【スパイス】の大精霊を駆使してみなくてはならない。
私はブラックペッパーの香りを知ってもらおうと、香精神官たちにポップを紹介した。
「精神的に元気を与えてくれる香りか。しかしルイ、これはプルフィエートを鎮めるのには使えないな」
「はい。ただ、今のナーグやスラープを助けるかもしれません」
「助ける? 香精を、香精で?」
「香精だって、生きています。彼らを元気にすることができれば、力の持続が期待できるかもしれません」
「なるほど。時間稼ぎになるな」
「【草】や【柑橘】と相性がよさそうだ。これはこれで、用意しておくといいかもしれない」
最初は、近くにいた香精神官に話しかけて説明したんだけど、いつの間にか何人もの神官が集まってきていた。
ナーグやスラープを元気にするという発想は新しかったらしく、封印香精になじむ香りとブラックペッパーを合わせるならどんなものがいいのかとか、神殿で使われる珍しい香りを教えてもらったりとか、私は色々なアドバイスをもらうことができた。
「ルイ」
「あっ、ヴァシル様!」
自分のブース前に戻ってくると、ヴァシル様が面白そうな微笑みを浮かべて私を待っていた。
「数日経ったので様子を見に来たんですが、順調のようですね」
「ありがとうございます、まだ何か作れたというわけではないんですけどね。できることからやろうと思って」
「いい心がけです」
「それにしても、いいところに来てくださいましたっ、これ読んでください!」
読めなくて困っていた資料を、師匠に読ませる弟子。図々しいとは自分でも思うけど、仕方ない。
「これ全部ですか」
「いえいえ、ええと、この項の内容だけで! ひとまずは!」
「ひとまずは、ね。仕方ないですね」
軽く肩をすくめたものの、ヴァシル様は私から本を受け取り、「中で読みましょう」と先にブースに入っていく。
後に続こうとして、私はふと、視線を感じた。振り向いてみる。
キリルがこちらを見ていた。彼女はサッと視線を断ち切ると、自分のブースに入っていった。
† † †
あっという間に、十日が経った。
私は自分のブースの机で、ひじをついてボーッとしていた。机の左右には書類や本が積みあがり、真ん中だけが開いている。そこに、青い香精瓶がひとつ。
瓶に住む香精が、ほのかに紫色の光をまとって瓶の周りを飛んでいる。私の鼻に届くのは、すっきりする香りから、干した果物のような濃い甘い香り、そしてワインみたいな香りへの変化だ。ブラックペッパーも加わっているせいか、温かみも感じる。
『行き詰まってんなぁ、ルイ』
ポップがちょっと心配そうに、私の頭の上から言った。
「うーん。なんだろう、どこかズレてる感じがして」
身体を起こし、私は椅子の背にもたれて腕を組んだ。
今まで何人もの香精師たちによって、ナーグとスラープを作ろうという努力がされてきたわけだけど、その中で最も「それっぽい」とされている香精の処方箋がある。仮に、『そっくりさん香精』と呼ぼう。
ヴァシル様がその処方箋でそっくりさん香精を調香してくださり、私もキリルも香らせてもらった。本物と比較して、足りない物やよけいな物を判断するためだ。
一方、私の方は、ナーグとスラープを元気づける香精を先に考えていた。本物の香りを邪魔せず、なおかつ香精自身を元気づけられる香りを作りたい。そして、それくらいだったら私みたいなぺーぺーでもできる気がしたのだ。
以前、リラーナの香精を元気づけた時は、バジルの葉を添えるだけだった。でも今度の封印香精は、二十種類近い素材から成っているそうで複雑だ。私は、そっくりさん香精の処方箋を参考に、ひとつの香精を作った。
「でもなぁ。元気になるような素材を、ちゃんと組み合わせも馴染むように、神殿にも合うように考えて調香したのに、どうにも場違いなんだよねぇ」
神獣のいる地下の、ナーグとスラープのいる場所に連れて行くと、小さな瓶は存在感を失ってしまった。香精までもが、瓶の中で縮こまってしまうのだ。
「なんでだろうなー? 瓶もちゃんと、香精にも合うし宗教的なデザインも取り入れて作ってもらったのに。……あ、君のせいじゃないよ、とってもいい香り!」
私は、香精瓶のふちに腰掛けた香精に笑いかけた。そして、一度立ち上がる。
「うーっ、肩こってきた」
『たまには身体を動かさないと。オレみたいによ』
ポップが机の上でバク転を決めた。
「そんな、ガチで運動できる雰囲気でもないし場所でもないじゃん、神殿は」
私は苦笑し、そしてため息をつく。
「……はー、やっぱりナーグとスラープそのものを作る方向に頑張らないとダメか。散歩がてら、植物園に行ってくる。何かいい組み合わせを思いつくかもしれないし」
私は、その香精瓶と自分のノート、それに採集用の籠を手に、トボトボとブースを出た。
ちらりと見ると、キリルもブースに籠もっている。彼女も、ここと書庫と植物園、それに香芸師さんの所をぐるぐるしながら、色々と試しているようだ。
「お疲れ」
聞こえないのはわかっているけど、私はちょっとつぶやいてから、植物園へと続く廊下に足を向けた。
『…………ん?』
頭の上でしばらく黙っていたポップが、ふとあたりを見回す。
『ルイ、オレちょっと行ってくる!』
「お、他の香精師のお仕事に呼ばれた? 忙しいね」
『いーや、プライベートさっ。気になる? 気になる?』
「ばぁか、さっさと行きなさいって」
植物園に出ると、私はまず温室に行った。ここでは、たくさんのフランキンセンス──乳香の木と、そしてミルラ──没薬の木が栽培されている。どちらも【樹脂】が香りとして利用される。
没薬、っていうのは、エジプトでミイラを作るのに使われていた薬の一つだ。足立さんの講座で知った。『ミルラ』がなまって『ミイラ』になった、なんて説もあるくらいだから、ミイラづくりのマストアイテムだったんだろう。
あと、イエス・キリストが誕生したときに三賢者がそれぞれ贈り物をしたという話があるけれど、その贈り物のうち二つが『乳香』と『没薬』だと本で読んだことがある。ちなみに、最後の一つは『黄金』ね。それくらい、価値があるってことだと思う。
神殿で作られる香精は、この二つのどちらか、あるいは両方を素材にすることが多い。神様がお好きなのかな。
温室で作業していた庭師さんに、少しだけフランキンセンスとミルラを分けてもらうと、私はそれを手にまた植物園に出た。
「この樹脂の木も、ここに生える前は私の世界で生えてたのかもなー。……ええと、基本から見直そう。樹脂の香りと相性がいいのは、樹木系とハーブ系……」
ぶつぶついいながら植物園を歩いていると──
「ルイ」
小さな声がした。
女の子の声。
ぱっ、と振り向く。茂みの陰からのぞいていたのは、浅黒いなめらかな肌に紫の瞳。
「り、リラーナ!?」
びっくりして一歩踏み出しながら、私はあわてて自分の口を塞ぎ、サッとあたりを見回した。
一応、この植物園、関係者以外立ち入り禁止なんだけど?
リラーナのそばにしゃがみ込んでささやく。
「ど、どうしてここに?」
聞いたとたん、ふっ、と空がかげった。
「俺もいるぞ」
「えっ」
しゃがんだまま見上げると、背の高い、見慣れたむっつり顔。
イリアン!




