3 二つの世界の関係
気がついたら、私はヴァシル様と一緒に、神殿の正面まで出てきていた。夕焼けが、西の空を染めている。
階段の下に馬車が止まっているけれど、アモラ侯爵邸の馬車ではないみたい。ルミャーナ師とキリルが「お先に失礼しますね」と言って、その馬車に乗り込んで去っていく。
「私たちの馬車も、もう少しすれば来るでしょう。陽が沈む頃に迎えにくるよう言っておいたので」
ヴァシル様が庭園を眺めながら言う。
ポップが私の前にふわりと浮かんだ。
『大丈夫かよ、ルイ? さっきからヘンだぞ、ボーッとして』
「…………ねぇ」
私はポップを見つめ返す。
「ナーグとスラープを調香する話、キリルは引き受けたの?」
『え? 聞いてなかったのか? そ、そりゃまあ、な。あいつが引き受けないようなタマだと思うか?』
ポップは言い、そしてキリルの口真似をした。
『「やれるだけのことはやらせていただきます!」だってよ』
「そう」
私はヴァシル様の横顔を見上げた。ヴァシル様は庭園の方を向いたまま、言う。
「ルイは体調が悪かったのでしょう。屋敷に戻ったら早く寝みなさ」
「あの」
私は思いきって、言った。
「このお話、お断りすることもできるんですよね?」
「…………」
ヴァシル様は、私を見ないまま黙っている。
私も、ヴァシル様から視線をはずしてうつむいた。
断ったら、怒られるかもしれない。弟子をクビになるかも。それは困るけど、引き受けるのも無理だ。
考えがまとまらないまま、言葉がこぼれ出す。
「わ、私は、早く元の世界に戻りたくて、ヴァシル様の弟子にしていただきました。……母が今どうしているのか、気になって」
目元が熱くなり、涙がにじんでくる。声が震える。
「私、カルダム神官長そっくりの人と、日本で会ったんです。どうして? 世界が違うのに、こんなの変です。母のそばにいる足立さんは誰? 母が無事なのか確かめたい。ただでさえトラブル引き寄せ体質なのに、もしもあの人までが、お母さんに何か」
「ルイ」
その、私を呼ぶ声がいつもと違って、私は顔を上げた。
いつもクールなヴァシル様が、困り果てたような、どうしていいかわからないような表情をしていた。私にこんな顔を見せるのは初めてだ。
「泣かないでください。とにかく、屋敷に戻りましょう」
「でも、封印のなんとかって、できません私……!」
「封印香精の話は、ひとまず置いておきましょう」
ヴァシル様は手を泳がせ、何かを抑えるような仕草をする。
「屋敷に戻って、その、ルイがあなたの世界で会ったという人の話をしましょう」
「え……」
まばたきすると、涙がこぼれる。
頬を伝うその感触で、急に羞恥心がよみがえってきて、私はあわてて袖口で頬を抑えた。
「も、申し訳ありません、取り乱して」
「いや、ほら、馬車が来ました」
ヴァシル様が指さす方から、見慣れた馬車がこちらに向かってくるのが見えた。
馬車に乗っての道中は、私もヴァシル様も黙りこくっていた。ポップまで、空気を読んだのか静かにしている。
お屋敷に到着すると、いつものように執事のジニックさんが出迎えてくれた。
「お帰りなさいま──」
言いかけて、目を赤くしている私と、そんな私にどこか気を使っている様子のヴァシル様を交互に見る。
「な、何か、ございましたかっ!?」
「いや、これはですね……ルイが少々、故郷のことで色々と……」
尻つぼみになったヴァシル様は、一度咳払いをした。
「すみませんが、今日の夕食は少し遅らせてください。ルイと話をします」
「かしこまりました」
ジニックさんは答えたものの、私を心配そうに見る。
私はイマイチうまく笑えなかったけれど、大丈夫、という風にうなずいてみせた。
ジニックさんは小さくうなずき返し、使用人区域へと戻っていった。
ヴァシル様は、私をいつもの研究室に招き入れた。すぐに従僕さんがお茶を持ってきてくれる。
彼が出て行くとすぐ、私は勧められた椅子に腰かけたまま身を乗り出した。
「ヴァシル様、私が日本で会った人についてのお話って? 何か、ご存じなんですか?」
「知っているというか……日本に神官長に似た人物がいるのはなぜなのか、ということに、心当たりがあります」
ヴァシル様は机の向こうで、窓の前に立った。窓からは、植物園を見下ろせる。
「ルイ。この植物園には、あなたの知っている植物がたくさんあったでしょう。……不思議に思いませんでしたか? 二つの異なる世界で、植生が同じだということを」
「……? ええ、少し」
異世界だなんていうから、とんでもない色や形の植物があるのかと思ったら、見たことのある植物だらけで意外だった。
「ヴァシル様は、二つの世界につながりはないとおっしゃっていましたよね。でも、植物だけではなくて、人間も動物も同じような姿だったから、実はつながりがあるんじゃないの? って、チラッと思ってました」
「行き来をしたり、声を届けたりといった、物理的なつながりは、本当にないのです。ルイが帰れる可能性はゼロではありませんが、相当難しい。……ただ、二つの世界の関係はかなり深いといっていいかもしれません。あなたが期待するといけないと思って言いませんでしたが」
「関係が深い? どんなふうにですか?」
つい先を急かしてしまう。
ヴァシル様は机の向こうで、自分の椅子に腰かけると、私を見つめた。
「あなたの世界で死んだ命は、こちらに生まれ変わる。こちらの世界で死んだ命は、あなたの世界で生まれ変わる。二つの世界は、そういった関係にあります。……二つの世界の間には、『死』が存在するのです」
私は、息を呑んだ。
「……じ、じゃあ、私は、死なないと帰れない……? ううん、もしかして日本で死んだからこちらに」
「いいえ。こちらに来たとき、あなたは日本で生きていたときの姿そのままだったでしょう? 大人の姿だ」
「あ、そ、そうか……」
死んで生まれ変わるなら、また赤ちゃんからスタートだ。でも、私はそうではなかった。私は大人の私のままで、世界を移動したんだ。
どうして?
ヴァシル様はカップのお茶を一口、飲んだ。
「いったん、カルダム神官長の話に戻りましょう。ルイが日本で神官長そっくりの人物に会ったと聞いて、私は思いました。それは、神官長の親族の誰かが、あなたの世界で生まれ変わった姿ではないかと」
え……?
「う、生まれ変わった後も、顔が似るんですか? 全然別の姿に生まれ変わるのではなく?」
「神官長の家系には、前世の記憶を持って生まれる者がちらほらいるのです」
ヴァシル様は微笑む。
「まあ、だからこそ、こちらとは別の世界があることや、そことどんな関係にあるかを知ることができたわけですが。……そういった者たちはもしかしたら、記憶だけでなく姿も、次の世に持って行っているのかもしれませんね」
「前世の記憶……あっ」
足立さんとの会話を思い出し、私は勢い込んで話した。
「そうだ、香りの話をしていました。作りたい香りがあるって。こういう香りを作らなきゃ、という使命感みたいな気持ちがあるのに、何の香りかは覚えていないとかなんとか。で、ついに再現したその香りを嗅いだら、私、こっちに来ちゃったんです!」
次々と、足立さんと会ったときの会話が脳裏によみがえってくる。子どもの頃から、色々な匂いを嗅ぐのが好きだった、と話していたっけ。
「足立さんはもしかして、前世、こちらの世界で香精師だった……? そのことを、うっすら覚えているんでしょうか?」
「カルダム神官長の、亡くなった祖父が、香精神官でした。そして、孫の神官長は祖父にそっくりだそうですよ。もしかしたらルイが会ったのは、その祖父が生まれ変わった姿だったのかもしれません。時期も合う」
なんだか、納得してしまった。
ああ、そういうことだったのか、って。
「でも、足立さんの言う『使命感』って、なんなんでしょうか。人を異世界へ飛ばしちゃうような香りを作らなきゃ! っていう使命感なんて。……あ! その香りを記憶していたということは、前世にその香りがあった、ってことになりませんか? 世界を渡る香りがあったのかも!」
興奮して、私は声を弾ませる。
「もしかして、こっちにその香精の処方箋が残っていたりとか!」
「可能性はありますね。でも、ルイ」
ヴァシル様は肘掛けで頬杖をついて、私を流し目で見る。
「まさか、神殿の頼みを引き受けずに、処方箋だけ見せろ……なんて、言いませんよね?」
「うっ」
た、確かに。それは虫が良すぎるというものだろう。
「わ、わかりました。引き受けます」
「よろしい。……それと、ルイ、あまり期待しすぎないように一応確認しておきます。日本でその男性が作った香りを嗅いだのは、あなただけですか?」
「えっ? あ、いいえ。他の人にも試してもらったって言ってました。何の香りか知りたくて、会う人会う人に……あ」
私は一瞬、口をぽかんと開ける。
「そうか。あれが人を異世界に飛ばす香りだとしたら、私以外の人もこっちに来てないとおかしいんだ。母だって嗅いだと言ってたし……」
すると、ヴァシル様は微笑んだ。
「あなただから……なのだと思います」
「え? それは、どういう意味ですか?」
聞き返したけれど、ヴァシル様はただこうおっしゃっただけだった。
「『その香り』を『あなた』が嗅いだ。運命的な出会いだったのでしょう」