2 封印香精の処方箋
思わず、息を呑んだ。キリルが小さく「あっ……」と言うのが聞こえる。
そこは、巨大な水槽のように見えた。水槽にも上から淡く陽光が入り、水泡や底の小石をきらめかせている。
ゆったりと身体を横たえているそれは、巨大な爬虫類──ううん、率直に言って、私には恐竜に見えた。双頭の白いティラノサウルス。
身体を丸め、二つの頭は二つとも眠っているようだけれど、時々、その太い尾がユラリと動いた。
水槽の両脇に、私の背丈ほどもある大きな香精瓶が置かれていた。それぞれ、香精が一体ずつ入っているのが見える。瓶の中を、まるでイルカのようにゆったりと回っていた。
「お、大きい」
キリルがつぶやく。
そう、瓶の中の香精は、大きかった。今まで見た香精たちは指先ほどの大きさしかなかったのに、ここの二体の香精は手のひらほどの大きさがある。
「近づいてごらんなさい」
ネデイアさんにうながされ、私たちはおそるおそる、瓶に近づいた。
ふうっ、と、陶酔感のある香りが漂う。オシャレで身につける香精と違って、なんだか鼻から通って脳までダイレクトに染み通ってくるような、強い香りだ。
(ん? 今、何かなじみのある香りがしたような)
私は改めて鼻をうごめかせたけれど、その拍子に少しクラッとくる。香りが強いので、あまり吸い込むと良くないかもしれない。気をつけよう。
瓶の中の香精は、顔かたちも羽の複雑な模様も、はっきり見えるほど大きかった。片方はピンク色、もう片方は水色の身体をしている。
けれど、目はまどろんでいるかのように半ば閉じられている。その動きは普通の香精と比べて、あまり精気がない。まるで夢遊病か何かみたい。
ネデイアさんが説明する。
「神獣を守っている、古代の香精です」
「古代」
「はい。この二体は、百年近い時を生きています」
キリルがギョッとしたようにネデイアさんを見る。
「百年!? 私、長くて二年の香精しか知らない……」
私はちらりと、ヴァシル様とルミャーナ師を見た。お二人とも、落ち着いている様子だ。
このお二人、私とキリルがどうしてここに呼ばれたか、知っている?
ネデイアさんは、私たちに向き直った。
「キリル、ルイ。これから話すことは、他言無用です。……あなた方には、この二体に代わる『封印香精』を作ることをお願いしたいのです」
私はキリルと、顔を見合わせた。
どういうこと……?
応接室のような場所に通された。向かい合わせのソファに、師弟が一組ずつ座り、ネデイアさんは立ったまま話し始めた。
「ルイは異国からエミュレフにやってきたということなので、一応、基本的なことから説明させていただきますね。先ほどの、甲羅のある白い姿が、神獣プルフィエート。かつて世界に災厄をもたらし、破壊しつくした獣です。神がプルフィエートを鎮め、破壊の跡に新しい世界を築きました」
し、神話だ。神話の世界の生き物が、今も生きてるんだ……!
ネデイアさんは、詳しいことは省いている様子ながらも説明してくれた。
神獣プルフィエートは、不完全な世界には決して満足しない生き物なのだそうだ。今までにも、繰り返し世界を破壊してきた。もしまた目覚めることがあれば、神様が新しく作った今のこの世界も、破壊してしまうだろうと言われている。
そうなることのないよう、神様は『完全な世界』を目指して人々を導いているのだそうだ。
プルフィエートが満足するような完全さって、どんな感じなんだろう。ちょっと想像がつかない。
でももしかしたら、そうやって「何が自分にとって『完全』なんだろう?」と問い続けることが大事なのかもしれない。
「そして、その両脇にいた香精は、ナーグとスラープ。プルフィエートを鎮め、眠らせている、封印香精です」
ネデイアさんはいよいよ、香精の説明に入った。
「ナーグとスラープは、古代からの記憶を持ったまま、およそ百年ごとに代替わりをします。神殿の香精師たち──香精神官と呼びますが、彼らが新しい封印香精を生み出して記憶を受け継がせるのです」
「神官さんは、そんな香精を作ることができるんですか。すごい……」
思わず感嘆のため息をもらしてしまった。
ああ、でも、日本でも式年遷宮ってあったよね。新しい宮を建てて、神様に住まいを移ってもらう。宮大工さんたちは、そういう技術を連綿と受け継いできているんだ。
この国の神官さんたちも、特別な調香の技術を受け継いで来ているんだろう。
「今のナーグとスラープは、九十六歳。もういつ代替わりをしてもいい時期です」
そう言ったネデイアさんが、不意に話を変えた。
「ルイは、かつてエミュレフがバナクと戦争をしていたことは知っている?」
「あ、はい。聞きました。隣の国ですよね、バナク」
イリアンとリラーナの、お母さんの故郷だ。
ネデイアさんは続ける。
「戦争があったのは、六十年ほど前のことです。この、神殿の町アモラにもバナク軍が侵入し、神殿は占拠されました。プルフィエートのいる神殿を掌握すれば、エミュレフはバナクの手に落ちたも同じ。そこで神官長は、ナーグとスラープを調香する処方箋が書かれた秘伝書を持って神殿を脱出しました。処方箋がないと、いずれプルフィエートを封じておくことはできなくなりますから、バナクとの交渉に使おうとしたのです。ところが……」
ネデイアさんは目を伏せる。
「そうとは知らないバナク兵が、脱出してきた神官長を発見し、殺してしまったの。アモラの町にかけられた火の中で」
「えっ」
私は目を見開いた。
「じゃあ、処方箋もそのとき、燃えちゃったんですか!?」
「その通りです」
ネデイアさんはうなずく。
「それからしばらくの間、エミュレフはバナク軍に支配されていましたが、政治的な取引の末、エミュレフは独立を回復しました。処方箋は失いましたが、神殿の神官たちはそのときはまだ、そこまで深刻には考えていなかったの。だって、今代のナーグとスラープが無事なのだから、同じものを作ればいいのですもの。香精神官たちは、代替わりの時に焦ることのないよう、封印香精を調香する素材を今のうちに確認し、新しい処方箋を作っておこうと考えました。ところが……」
言葉を切ったネデイアさんに、キリルが身を乗り出して尋ねる。
「できていないんですか」
「ええ」
ネデイアさんはうなずいた。
「どうしても、あの香りにならないの。いったい、何が足りないのか」
じゃあ、今のナーグとスラープが力尽きてしまったら、プルフィエートが目覚めてしまうってこと?
ま、まさかね。神話の話でしょ? 本当にプルフィエートが世界を滅ぼしてしまう、なんてことは……
私は思わず、ヴァシル様の顔を見た。ヴァシル様はクールな表情で、ただ黙ってネデイアさんに視線を向けている。
そういえば、ヴァシル様の従者さんが言ってた。
私がこちらの世界に来る前、ヴァシル様がしょっちゅう神殿に行ってたって。それに、香芸師の親方の伝統的な技について話していたときに、「しばらくは色々と試さなくてはいけないことがある」とも言ってた。
あれは、封印香精を作ろうとして試行錯誤しているという意味だったんだ。
キリルが続けて、ネデイアさんに質問した。
「亡くなった神官長以外に、処方箋の内容を知っている人はいなかったんですか?」
「戦争の際には、多くの神官が亡くなりましたから……」
現代日本に生きていた私から見ると、バックアップは必須だろう! と思うけど、今さら言っても仕方ない。ナーグとスラープを調香する処方箋は、失われてしまった。
なんだか、胸に何かが詰まったような感じがして、重苦しい気分だ。
「もちろん、あれこれ調査をして少しはわかっていることもありますので、現在の神官長から後ほど説明を」
ネデイアさんが言いかけたとき、コンコン、とノックの音がした。
「ああ、いらしたわ」
彼女は扉に近づいて開ける。
神官服姿の、壮年の男性が入ってきた。
こちらの人にしては彫りの深すぎない、親しみやすい顔立ちの男性は、胸にかけたネックレスを両手で掲げるあいさつをする。
「皆さん、おいでくださってありがとうございます」
あれっ、と思った。
私、この人と、どこかで会ったことがある。顔も見たことがあるし、誠実そうな話し方も知っている。
一体、どこで……ギルドか、それとも展示会……?
ふと、初夏の庭のような、柑橘のような香りが鼻の奥によみがえった。
香りは、記憶に残る。
そんな話をしたのは、誰とだっけ?
数秒考えた私は、思い出したその瞬間、中腰で立ち上がった。
男性が「おや?」という感じで私を見る。
まさかという思いが、大きな声をあげることをためらわせた。ささやき声が漏れる。
「……足立さん……?」
その顔は、母の恋人、アロマテラピー講師の足立さんだった。不思議そうに私を見ている。
ううん、待って、そんなはずない! だって、足立さんは日本にいる。うちのお店で会って話したんだから。
そう、この人は信用できそうだと……この人が日本で母のそばにいてくれるなら、私がいない間もきっと大丈夫だと、そう思っていたのに!
「ど、どうして」
エミュレフにいるんですか、と問い詰めかけて、私はようやく気がついた。
瞳の色が違う。足立さんはハーフっぽい見た目をしていて、日本人にしては色素の薄い茶色の瞳だったけど、この神官長さんは深緑色の瞳をしていた。
よく似ているけれど、別人……?
『ルイ、どうしたんだよ!?』
耳元で声がして、我に返った。ポップが私の肩でささやいている。
『気分でも悪いのか!?』
「違……」
ハッと隣を見下ろすと、ヴァシル様がまっすぐに私を見つめている。
「ルイ、座りなさい」
「あ……」
気がつくと、その場の全員が私を見ていた。あわてて腰を下ろす。
「ご、ごめんなさい。知っている人に、ええと、似ていて」
「大丈夫ですか? ご気分が優れないようでしたら、おっしゃってくださいね」
足立さんそっくりの神官長さんは、気遣わしげにそう言っただけだ。私を知っているようなそぶりはない。
「大丈夫、です、すみません」
かろうじてそうは言ったものの、動揺が収まらない。
似てる、本当に似てる。これは偶然なの? 偶然じゃないとしたら何? まさか、日本の足立さんと、エミュレフの神殿の神官長との間に、何か関係があるなんてことは……
「神官長の職を務めさせていただいております、カルダムと申します」
偉い人なのにとても丁寧な口調のカルダム神官長は、ネデイアさんに勧められて一人掛けのソファに座り、話し始めた。
「だいたいのところは、ネデイアから説明があったと思いますが──」
そこから先のカルダム神官長の話は、ちっとも耳に入ってこなかった。




