1 神殿と香り
ヴァシル様のお屋敷を、神官ネデイアさんが訪ねてきた翌日──
午前中の仕事を終えた私は、ヴァシル様と一緒に神殿に行くことになった。
またもや馬車に乗る羽目になり、堂々としているヴァシル様の隣で、セレブな雰囲気に慣れない私はひたすら縮こまる、という道中だ。
『よっルイ、貴族のご令嬢っぽいぜ! せっかくヴァシルの弟子なんだし、ルイも遠慮なく美味しい思いすりゃいいんだよ!』
頭の上の大精霊ポップは、のんきにそんなことを言っているけど、根っから庶民の私は緊張するだけだ。
人間には相応不相応ってものがありましてね……!
気を紛らわそうと、私はヴァシル様に話しかける。
「あの……香精展示会のとき、白と赤の変わった服の人がいるなとは思ったんですが、あれが神官さんだったんですね。香精、神殿でも使われるんですか?」
「ルイの故郷では、そういった宗教的な施設で香りは使われませんか?」
逆に不思議そうに質問されて、あ、と私はようやく思い出した。
そうだ、日本にいたときに行ったアロマテラピー講座でやったじゃない。宗教と香りの関係。母の恋人である講師の足立さんを偵察にいっただけのつもりが、結構面白くて、そのときのことを覚えている。
そう、香りは宗教儀式に使われる。お寺に行けばいつもお線香の香りがしていたし、護摩を焚くって言葉もある。
テレビでローマ法王を決める選挙の様子を見たことがあるけど、あのときも確か、鎖にぶら下がったお香入れを振ってたような……振り香炉っていうんだっけ。煙が出てた。
「そっか、宗教に香りはよく使われるんですね」
「邪気を払ったり、清めたりするために使われますね。それに、神や神獣に香りを奉ずるという意味もあります」
「ははぁ……」
それに私が、いったいなんの関係があるんだろう。
ネデイアさんは『エミュレフ公国に関わること』で協力をお願いしたい、と言った。特徴的な香精を作る人に頼んでいるそうで、私以外にも、ルミャーナ師の弟子キリルに声をかけていると。
私だけに責任を負わせるようなことはない……とか言ってたけど、その言い回しだと、私を含めた何人かに何らかの責任がかかってくるってこと?
「あのう、このお話、どうしても引き受けなくちゃいけないんでしょうか」
私は、ちょっと渋るようなことを、ヴァシル様に言ってしまった。
責任がかかってくるのも困るけど、他にも理由がある。
私がなんのために香精師の修行をしているかといったら、日本に帰るためだ。他のことにかかずらっている場合ではない。
すると、それを見透かしたかのように、ヴァシル様は言う。
「ルイにとって、良い経験になることは間違いありません。お客からの注文仕事ではできないことが、神殿ではできますからね。ルイが日本に帰るための香精を作りたいなら、かえってこちらの方が近道かもしれません」
え、本当……?
でも言われてみると、世界を渡るような超常的な、神秘的なことをやろうっていうなら、神殿みたいな場所で使う香りは参考になるかもしれない。
「わ、わかりました。とにかくお話を聞いてみます」
私は言った。
まぁ、ヴァシル様がいらっしゃるんだし、大丈夫だろう。お手伝いならいくらでもするし、私はとにかくキリルと揉めないように気をつけよう。
「神殿には、専属の香精師と香芸師がいます」
ヴァシル様は続ける。
「神殿の裏手に植物園があって、素材はそこから。建物内に硝炉もありますよ。もちろん、主に宗教観に基づいた意匠の瓶を作るためのものですが。……ああ、神殿が見えてきました」
ヴァシル様の声に顔を上げ、進行方向を見る。
午後の柔らかな光の中、馬車はいつの間にか、緑に包まれた大きな庭園の中を走っていた。
中央にいくつもの水盤が点々と続いており、その両脇が広々とした通路になっている。神殿に向かう私たちの馬車、そして水盤の反対側の通路を、どこかの馬車がすれ違うようにして外へと向かって走っている。ちらほらと、歩いている人の姿もあった。
突き当たりに、ヴァシル様のお屋敷あたりから見たドーム状の白い建物がある。神殿だ。
「あそこに、神様が祀られているんですね」
「少し違いますね。神殿は、神を信じる人々が集い、祈りを捧げる場所です」
ヴァシル様が説明してくれる。
「偶像崇拝は禁じられていますから、あそこに神の像があるわけでもない。神獣なら祀られていますが」
「神獣……どんな姿なんだろう。神獣は、像があるんですか?」
「…………」
ヴァシル様は、ふと口をつぐんだ。
「ヴァシル様? あの……」
「まあ、行ってみればわかります」
応えがあった直後、馬車は大階段の前に横付けされた。
神殿の内部は、輝いているかのように美しかった。
ドーム状の天井には不思議な幾何学模様の青いタイルが一面に貼られ、真っ白な柱と床は磨かれて光っている。祭壇には銀の装飾に青い布、その奥にはシャンデリアに似た装飾が天井から吊り下がっていた。
会衆席のようなベンチはなく、広いホールで多くの人々が小さなクッションの上に膝をつき、手を組んでお祈りをしている。
そして、何より特徴的なのは、ホールのぐるりに点々と台が置かれ、そこに花瓶くらい大きな香精瓶があることだ。
一つの香精瓶に、何体もの香精が住んでいるようで、きらっきらっと粒子を光らせながら香りを振りまいている。甘くて陶酔感のある不思議な香りが、広いホールに満ちていた。
「ルイも真似してみなさい」
ヴァシル様に促され、私はヴァシル様と並んで、クッションに膝をついた。手を組み合わせ、目を閉じる。
(この世界の神様、ごあいさつが遅れて申し訳ありません。日本から来ました、楠木泪です)
心の中で、祈った。
(どうか、私が香精師の仕事をちゃんとこなせるよう、そして日本に帰るための香りを見つけられるよう、見守ってください。あっ、あと、もし神様が私の世界とも関係があるなら、母がトラブルに巻き込まれないように見守っていただけると嬉しいです……)
目を開き、ふと下を見ると、私の前でポップが膝をつ……くことは身体の構造上無理だったみたいだけど、とりあえず後ろ足で立って両手を合わせていた。
『魅力的な香精たちと、気持ちイイ仕事ができますように!』
……ふと、思った。
もし私が日本に帰れることになったら、このポップともお別れなんだなぁ。だって、連れて帰れたとしても、日本には他の大精霊がいない。ポップは日本では香精を生み出せないのだから、存在意義がなくなってしまう。
この騒々しいのと会えなくなったら、きっと寂しいだろうな、と思った。
神様へのあいさつを済ませ、ヴァシル様と私はホールの脇の通用口みたいな場所を抜けた。
渡り廊下を歩き、別の建物に入る。そこへちょうど、廊下の向こうからネデイアさんが歩いてきた。
「ご足労、ありがとうございます」
ネデイアさんは、胸に下げていた長いネックレスを両手で握って掲げるようにする。神殿でのあいさつなのかな。ネックレスは、パワーストーンか何かなのか、石がいくつも連なったものだ。
「この奥が神官たちの仕事場になっています、どうぞ」
案内され、もう一つ渡り廊下を渡った先に、小さなドームがあった。中に入ると、私は「わぁ」と声を上げて天井を振り仰いだ。
ドームは二階建てになっていた。二階の床は中央部分が吹き抜けになっていて、手すり越しに硝炉がいくつか円状に並んでいるのが見える。
そして一階が、香精師の仕事場だった。
ガラスの大きな箱のようなものが、一見無造作にあちこち立っていて、それぞれの箱の中に本棚付きの机と椅子があった。香精師らしき人がいる箱もある。どうやらあの箱のひとつひとつが、研究スペース兼調香ブースになっているようだ。床は少しざらついた変わった感触の材質で、調香陣が書きやすそう。
ちょうど中央に、ルミャーナ師とキリルがいた。
ふわふわプラチナブロンドのキリルの頭が、物珍しそうにあちらこちらを向いていたけれど、私たちに気づくとピッと背筋を伸ばし、じろっとにらみつけてくる。
「ルミャーナ師、お待たせしました」
ヴァシル様が近づくと、赤毛おかっぱのルミャーナ師が細い目をさらに細めて微笑んだ。
「ああ、ヴァシル師。いいえ、ちっとも。今、うちの弟子にここを見せておりました」
軽くひっくり返ったような、キンキンした声が特徴的なルミャーナ師は、細いけどなんだかパワーを感じる人だ。
ヴァシル様はうなずく。
「貴重な経験になりそうですね。この子が、私の弟子のルイです」
ご紹介に預かり、私はあわてて頭を下げた。
「初めまして」
「こんにちは。展示会の香精、面白いアプローチで素敵でしたよ。【スパイス】の大精霊ポップも一緒なのね」
『なんと魅力的な方だ、覚えていてくださったとは光栄です』
おお、展示会の時に営業した成果が出てるみたいだね。よかったじゃん、ポップ。
「こっちがキリルです。ルイとは顔見知りなんだそうですね」
ルミャーナ師の紹介に、キリルは「あいさつ程度です」とそっけない。
ネデイアさんが、手で奥を示した。
「まずは今回の件についてご説明しましょう、どうぞ奥へ」
彼女の後を、まずはヴァシル様とルミャーナ師が行き、少し間を空けて私とキリルが続く。
キリルが横目で私をにらみ、私にだけ聞こえるように低く言った。
「どうしてあなたが、ここに呼ばれている? いくらヴァシル師の弟子だからといって、たかだか数ヶ月修行しただけのくせに。図々しい」
やっぱり言われたー。
イラッとはしたものの、喧嘩するわけにもいかない。私はなるべくサラリと聞こえるように答える。
「私もよくわからないけど、特徴的な香精を作るってことで呼ばれたんだとか……。上手い下手じゃなくて、何か変わったことをしたいのかもね」
「変わったこと……?」
いぶかしげに眉根を寄せたキリルは、それ以上何か言うことはなく、黙りこんだ。
もっと色々言われるかなと思ったけど、キリル、案外おとなしい。もしかして、彼女もどうして呼ばれたのかわからない状況なんだろうか。
ドームの奥の扉を抜けると、目の前に裏庭が広がった。土地が傾斜しているらしく、私たちがいる場所から一階分低いところが庭になっている。
ネデイアさんは扉のすぐ脇にある階段を下り、けれど庭には出ず、さらに地下へと続く階段を下りた。
地下といっても、天井が磨り硝子になっていて、陽光が入ってふんわり明るい。
そして、その奥に──
──“神獣”がいた。