6 課題はジャスミン
「えっ!? ヴァシル様も一緒に!?」
私は仰天した。
侯爵様が、一般の町の人の家に訪ねていくとか、アリなの!?
「その代わり、条件があります。この件、修行のひとつにします。難易度は高いので覚悟しなさい」
ヴァシル様は続ける。
「香精展用の香精として、ジャスミンを使ったものを考えなさい」
私は仰天した。
「ちょ、待ってください! ジャスミンはキリルが……!」
「ほう……? 他の者の香精を気にする余裕があるとは、ずいぶん腕を上げたものですね、ルイ」
冷ややかな視線がざっくり刺さる。
ひいい……!
かちんこちんに固まっている私に、ヴァシル様は容赦なく続けた。
「ジャスミンの精霊を呼び出すには、エクティスの力が必要になります」
「エ、エクティスの……? でも、ジャスミンは花ですよね。【花】のフロエの仲間だと思ってました」
「確かにそうですが、私はジャスミンの香りを使うときはいつも、フロエとともにエクティスの力を借りています。説明が難しいのですが、ジャスミンの香りはエクティスの仲間たちに近いものがあると思うのです」
「つまり、異国を感じさせる、ということですか?」
「そうです。フロエとエクティスが揃う夜、ジャスミンの精霊は最も良い香りを放ちます」
ヴァシル様はうなずく。
「整理しましょう。ルイの課題は、香精展に出せるレベルの、ジャスミンの香りを使った香精を生み出すこと。そのためには、気まぐれなエクティスを呼び出さなくてはなりません。ルイはエクティスが興味を持つような香りを──そして呪文を考えること。思いついたら言いなさい。一度だけ、私は夜にルイと一緒にイリアンの家に行き、その場で調香します。あなたはまだ調香陣を書けないのだから」
「一度きり、ですか!?」
「そう何度も、彼の家になど行くつもりはありません。そもそも、ジャスミンはそろそろ季節が終わります。のんびりしてはいられませんよ」
ヴァシル様は美しく微笑みながら、言い放った。
「この課題ができなければ、あなたの出品はレモンペッパーの香精のみにします。もうひとつの場所は私に返してもらいます」
ごくり、と、私は喉を鳴らした。
そう、私はあくまでも、二つのスペースをヴァシル様にいただいた身。ヴァシル様の弟子として恥ずかしいものしか生み出せないなら、いっそお返しするべきだ。
でも。
やってみせる。腕を磨かなくちゃ、日本に帰る香りだって作れないに違いないんだから。そうだよ、考えようによっては、夜のジャスミンの香りを確かめつつ香精展に出す課題もこなせて、一石二鳥じゃないの!
私は勢いよく頭を下げた。
「わかりました、やります。ありがとうございます!」
調香陣も書けない私は、ヴァシル様が一緒にイリアンの家に行ってくださるだけで、めちゃくちゃ恵まれてる。この機会を逃すもんか!
……でも、自分の家にヴァシル様が来るなんて、イリアンが驚きすぎてブッ飛ぶかも。
「なに――――っ!?」
イリアンは、驚きすぎてブッ飛んだ。
香芸師ギルドの、イリアンの部屋だ。
ヴァシル様が彼の家にご臨場なさる、と知ったイリアンは、立ち上がって絶叫したのちに絶句している。
「おーい、イリアン、大丈夫?」
彼の目の前で手を振ると、はっ、と我に返ったイリアンは頭をブルブル振ってから、ぐわっ、と身を乗り出す。
「俺んちみたいなボロ家に侯爵様を、それも偉大な香精師をお呼びしてどーすんだよ! お前がジャスミンの香りを嗅ぎにくるだけじゃなかったのか!?」
私は小さくホールドアップしながら答える。
「だ、大丈夫、家には上がらないっておっしゃってた。用が済んだらすぐ帰るって」
イリアンは私を睨んだ。
「なんでこんなことになったのか、説明してもらおうか」
はいーっ。
私は小さくなって、ことの次第を説明する。
といっても、私にもよくわからないのだ。夜にジャスミンの香りを感じに行くと言ったらオーケーっぽかったのに、場所を言ったとたんに猛反対。それでも食い下がったら、じゃあ自分も行く……だもんね。
「…………」
イリアンは黙って聞いてたけど、やがてため息をついた。
「ヴァシル師は、とんでもなくルイを大事に思ってるんだな」
「大事に? ……あ、そういえば、香芸師の弟子にはやりません、って言われたことがある。私の弟子だということを忘れないように、って」
「つまり、ルイは自分のものだ、イリアンのところには行かせない、ってことだろ」
「私、レモンペッパー香精瓶のとき、結構ギルドに入り浸っちゃってたからね」
ははは、と笑うと、イリアンは額に片手を当てて大きくため息をついた。
「それだけならいいけどな……」
「何よ、他に何があるって」
言いかけた私の脳裏に、ふと、ある記憶がよみがえった。
足立さんの作った香りで意識を失った、その後のことだ。侯爵邸の庭で目覚めたときだったか、その前の夢の中でだったか、不思議な声を聞いた。
『見つかったんですね、候補者が。試してみようか』
──あの声、ヴァシル様の声に似ていた気がする……
無理矢理、意味を理解しようとすれば、今まで弟子を取ってこなかったヴァシル様が弟子候補の私を見つけた、という意味に取れる。
もし、あの時からヴァシル様が、私を弟子と見定めていてくださったなら、他の人には渡したくないって思うかもしれない。
けど、そんなはずないよね。初対面だったんだから。私が試験に落ちていれば、弟子にはならなかったんだし。
……よくわからなくなってきた。
「あーくそっ、ルイに難しい課題を押しつけたのは照れ隠しか!?」
イリアンが何やらぶつぶつ言っている。
そ、そうだ、課題。
「展示会の香精は、ジャスミンはやめようと思ってたのになぁ。キリルと被るんだもん」
ため息をつくと、イリアンも話を戻した。
「ジャスミンは、人気の香りのひとつだ。キリルの師匠のルミャーナ師が作る香精は、香精を持つ人に対する効果は弱いんだが、周りの人が魅力を感じるような香りを作るのがうまいんだよな。流行もきっちり取り入れて来るし。香精展向けだと思う」
「じゃあきっと、キリルもそういう技を学んでるよね。あー、私の一番、自信ないところだ……」
私は頭を抱える。
「レモンペッパーだって、流行とは全然違うでしょ。変わりすぎというか尖りすぎというか。たまには変わった香精も、みたいな感じで、一度だけでも楽しんでもらえれば、それでいいのかなぁ」
すると――
イリアンがふと、息をもらすように笑った。
思わず、顔を上げて彼の顔を見る。
イリアンが笑うなんて、珍しい。この人、笑うとすっごく悪役顔になるな。何かたくらんでるみたいに見える。
失礼なことを思いながら、私は彼を睨む。
「何よ」
「確かに変わってるけど、尖っちゃいないよ、ルイの香精は」
「……そう?」
驚いて聞き返すと、彼はうなずいた。
「ルイは、いい香りのする食べ物を作るよな」
「え? ああ、うん」
彼はレモンペッパーチーズケーキや、バジルペッパースコーンのことを言っているのだろう。
イリアンは続ける。
「食べ物の香りって、満ち足りた気分にならないか? 安心感があるじゃないか。客をそんな気持ちにさせられる香りが作れるなら、流行の香りじゃなくても、ルイの香精は受け入れられるだろ。俺はそう思う」
「そ、そうかな……?」
照れつつも、私は嬉しくなってきた。
「安心感か……それが感じられるなら、変わった香りを一度だけ楽しむんじゃなくて、ずっとまとっていたいって思うかも。新しい流行を作れるかもしれないよね。ありがとう、イリアン」
お礼を言うと、えっ、というような表情でイリアンは目を見開いた後、そっぽを向いた。
「そのくらいの意気で行ってくれないと、ルイと組んでるこっちも困るんだよ」
「はーい、ごめん。でも、うん、やれそうな気がしてきた。やっぱりイリアンに相談して良かったよ」
「おだてても何も出ないぞ。とにかく、ルイが香りの組み合わせを決め次第、うちの庭にヴァシル様がいらっしゃって一緒に調香する、ってのは了解した」
イリアンは難しい顔になり、顎を撫でる。
「裏通りに立たせっぱなしってわけにはいかないだろ、庭には入っていただいて……とすると椅子は必要だな。あと、あれか、茶くらい用意しないとまずいか? そんないい茶はないぞ?」
うろたえるイリアンを見ていると、ヴァシル様のこの国での地位を改めて感じる。彼、ヴァシル様のところにお使いに来たときも、すごく緊張してたもんね。
「わかった、じゃあ、お湯だけ沸かしてくれる? 私、お屋敷の厨房からお茶の葉を少しもらっていくよ。ヴァシル様お気に入りのカップも持って行こうかな」
提案すると、イリアンは立ったまま腕を組み、呆れ顔になった。
「お前、いつもそんな気楽にヴァシル師に接してんのか?」
「気楽なんかじゃないよっ、うっかりしたことすれば即座に氷の矢のような視線がっ。毎日お会いしてるから怖さに麻痺してきただけだよっ!」
「ふーん。まあいい、とにかく準備はしておく」
湯と椅子、湯と椅子……と、イリアンは呪文のようにつぶやいた。




