5 昼と夜の香り
「じゃすみん!」
リラーナがウンウンとうなずく。
私もうなずいた。
「ジャスミンなら知ってる、白い花ね。私、故郷ではジャスミンの香りのお茶が好きで、よく飲んでたよ。おうちの近くに咲いてるの?」
「うん。おにわに、お母さんが植えたの。ねるとき、いいにおいなの」
説明してくれるリラーナ。
寝るとき? そういえば……
「ジャスミンって、私の国では『夜香木』っていう別名があるって聞いたことがあるんだけど、もしかして夜に関係がある花なの?」
「なんだ、知らないのか」
イリアンが当たり前のように言う。
「夜になると咲いて、香りがいっそう強まる。【花】の大精霊に詳しいことは聞いてみろよ。朝になるとまた閉じて、それを何日か繰り返したら散る花だ」
「へぇー!」
そうだったんだ! 侯爵邸の植物園にあったかなぁ。
でも……
私はふと、重い気分になった。
果物の旬もそうだけど、昼と夜でも香りが違うものがあるなんて。
私、本当に足立さんの香りを作れるのかな。
日本に、帰れるのかな……
もやもやを振り切ろうと、ブンブンッ、と首を振る。リラーナにびっくりされた。
「ルイ、どうしたの?」
「あ、ごめん! ちょっと肩が凝って!」
考えても仕方ないんだから、行動あるのみだ!
新たな旬の果物に気づけ。昨日は咲いていなかった花に気づけ。昼と夜の違いに、気づけ!
「じゃあ、今日のところは帰るね。香精展用の香り、考えておくから、イリアンも何かやってみたいことがあったら教えて」
立ち上がると、イリアンは「わかった」とうなずいた。
「リラーナ、おみおくりする!」
リラーナが手をつないでくれたので、私たちは二人で連れ立ってイリアンの部屋を出ると、ホールの階段を下りた。
私は彼女に聞く。
「ねぇ、ジャスミンってリラーナのおうちのお庭に咲いてるんだよね。お庭の外からも、香り、感じられるかな」
「うん! あのね、うらのみちに、はみだしてる」
「あはは、そう。じゃあ匂い嗅げるね。もしヴァシル様の植物園になかったら、夜にそっちのジャスミンを香りに行ってみようかなー」
話しながらホールを出た瞬間。
「ジャスミンの香りを使うつもり?」
鋭い声が飛んできた。
私は一瞬固まってから、ゆるり、と振り向く。
ふわふわプラチナブロンドの下、眼鏡越しの鋭い目つき。
キリルだ。出くわしてしまった。
「こ、こんにちはキリル」
意識して笑顔を作ったのに、キリルは無表情のまま口を開く。
「こんにちはルイ。香精展に出す香精、私もジャスミンを使うつもりなんだ。……投票をやるって、知ってる? 対決が楽しみだね」
中性的なしゃべり方に、含みを感じる。
目つきも輪をかけて険悪だと思ったら、テーマが被ってると思われてるのか!
これ以上彼女と揉めたくない私は、あわてて否定した。
「ううん、違うの、夜のジャスミンの香りを香ってみたいって話してただけ。私はまだ、どんな香りにするかは決めてないんだ」
「あらそう。まあ、修行を始めたばかりのあなたに、ジャスミンはまだ難しいかもね」
彼女はちらりと、私の隣にいるポップに視線を流す。
「新人なんだし、その大精霊さんと色々冒険してみるといいんじゃない?」
『オレは博愛主義者なんだ。君とも冒険してみてもいいんだぜ。どうだい、オレとめくるめく体験は?』
ニヤリと笑い、挑発的に言うポップ。
ちょっとお!
一瞬ひるんだキリルだったけれど、すぐに立ち直る。
「私には必要ないわ。コショウ、とか言うんですってね。珍しい香りを使って目立たなきゃいけないほど、私、苦労してないの。それじゃあ」
キリルはオリーブ色のローブを翻し、サッと私とすれ違うようにしてホールに入っていった。
あのキリルまで一瞬うろたえさせるポップ、なかなか手強い。
それにしても緊張したー!
ため息をつきながら再び歩き出すと、手をつないだまま黙りこくっていたリラーナがぷるぷるしている。
「いまのおねえさん、こわい」
「だ、大丈夫! リラーナには何も怖いことしないよ!」
嫌われてるのは私だからね!
香精展にジャスミン使うのはやめよう。これ以上、キリルを刺激したくないもん。
ジャスミンは夜の香りが確認できさえすればいいや。
うん、とひとりでうなずいた私は、ギルドの門のところでリラーナと分かれた。
「またね、リラーナ! ……ポップ、よくぶち切れないでくれたわね」
私は歩きながら、ポップに囁きかけた。
彼は私の右肩で、遠ざかるリラーナに手を振っていたけれど、すぐに左肩へピョンと飛び移る。
『あの様子じゃ、キリルはブラックペッパーの香りを全然理解してないな。ただ目立つ香りだと思ってんだ』
「目立つことは目立つじゃない」
『そういう風に使えばな。でも、他の香りを引き立てる風にも使える。言っただろ、オレは精霊を「その気にさせるのがうまい」って』
ばっちーん、とウィンクするポップ。
まったく、こいつは。
キリルとの会話でもやもやした気分も吹っ飛び、私はポップに笑いかけた。
「そうだったね、すっかり忘れてたわ」
『ルイー! 君にだけは本当のオレを知っていてほしいもんだけど!』
「あはは、ごめんごめん」
私たちは掛け合いをしながら、帰途についた。
翌日の修行の時間、私は早速、ヴァシル様に質問した。
「この植物園に、ジャスミンはありますか? 香りを感じてみたいんです」
「香精展用の香りの候補に、ジャスミンを考えているんですか?」
ヴァシル様は、綺麗な長い指を顎にあてた。
私は首を横に振る。
「そうではないんですけど、夜に香りが強くなると聞いたので、面白いなと思って」
「官能的である一方、繊細で心地よい香りです。しかし残念ながら、私の植物園のジャスミンは、今は花をつけていないんです。元々ジャスミンは女性に人気の香りで、今年はもう花を使ってしまった」
ジャスミンの花のシーズンは、初夏から初秋。今は真夏なんだけど、もうなくなっちゃったのか。
「そうですか、見当たらないなと思ったんです。でも、他に咲いている場所を聞いてあって」
「おや、行動が早いですね。感心しました」
やった、褒められた。たまたまリラーナに聞いただけだけどね。
私はニマニマしながら続ける。
「それで、香りを感じに行きたいんです。夜に外出しても構いませんか?」
「ルイは大人の女性です、もちろん構いません。アモラは治安もいい。それで、場所はどこですか?」
「香芸師のイリアンの家の庭……」
「ダメです。行ってはいけません」
いきなり、ヴァシル様は手のひらを返した。
「えええー!?」
そ、そんなぁ。なんで急に!?
ヴァシル様は目を細める。
「夜に男の家に行くなどと、ありえません」
「はい!? に、庭の外ですよ。香りを確かめたら、すぐに帰ってきますから!」
「そこに声をかけられて誘われたらどうします?」
「別に、断ればいいですし、そもそもリラーナも一緒に住んでる家ですよ!?」
「関係ありませんね。とにかくダメです」
ヴァシル様は冷たい。
私は食い下がった。
「お願いします、外出許可をください。季節が終わる前に、まだ花が咲いているうちに、ジャスミンの夜の香りを感じたいんです!」
「ルイ、私はダメだと言いました」
「だって、まだ!」
力を込めて、言う。
「まだ、日本に帰る手がかりを、少しも見つけていないんです、私!」
ヴァシル様は、軽く目を見開いてひるんだ。
私はすかさず続ける。
「今この時期を逃して、もし夜のジャスミンの香りが手がかりだったら、丸一年帰還が延びてしまいます。無駄足になってもいいから、どうしても行きたいんです!」
すると、ヴァシル様は焦ったように片手をビシッと挙げた。
「ま、待ちなさいルイ。ちょっと待ちなさい。考えるから」
ヴァシル様は、ごちゃごちゃした研究室の中を歩き回った。ヴァシル様が近くを通りかかるたび、棚の上やテーブルに置かれたいくつもの香精瓶から、小さな香精が「私の香りに用事かしら?」みたいな感じで、ひょこっと頭を出しているのが可愛らしい。
ようやく立ち止まったヴァシル様は、流し目で私を見る。
「……仕方がない。わかりました」
「行っていいんですか!?」
期待して一歩前に出た私に、ヴァシル様はうなずいた。
「いいでしょう。夜の外出を許可します。ただし、私も行きます」
「へっ」
「私もルイと一緒に、イリアンの家に行きます」