3 香精展示発表会の準備、開始
フロエにお礼を言って別れ、温室から出たところで、私はあわてて木の陰に隠れた。
植物園の中、レンガの道を、侯爵邸に向かってツカツカと歩いていくオリーブ色のローブの細い姿。ふわっふわのプラチナブロンド、そして丸っこい眼鏡。
「キリルだ」
つぶやくと、ポップがシュバッと私の肩に飛び乗ってそちらを見た。
『あいつか! 何しに来やがったっ!』
キリルは、ルミャーナ師という香精師のところで修行中の、香精師見習いの女の子だ。香芸師ギルドで初めて会い、挨拶した。
その後、ルミャーナ師のお使いでヴァシル様に会いに来た彼女にバッタリ再会。ポップもそのとき、キリルに会ったんだよね。
彼女、以前はヴァシル様の弟子になりたくて猛烈アタックしてたらしいのね。で、自分が弟子になれなかったのに私がなっちゃったので、ちょっと、そのう、私に複雑な感情を持っているらしく……
「キリルに会うとめっちゃ睨まれるんだもん、今ヴァシル様のお部屋に戻るのはやめとこう」
私はお屋敷には戻らず、果樹園の方へ足を向けた。ポップがプンプンしながらついてくる。
『自分がヴァシルに選ばれなかったからって、オレのルイを目の敵にしやがって!』
「あんたの私じゃない。……まあ、気持ちはわからなくもないし。私みたいな異世界人が、いきなり弟子になっちゃったんだもん」
私は歩きながら、ポップをなだめる。
「嫉妬って、いい方向に向けば実力を伸ばすっていうよ。キリルが何くそーって頑張ったら、いい香精師になるかも」
『そいつはどうかな』
ポップは鼻で笑う。
『あれから何度か、用事だ用事だっつってヴァシルのところに来てるけど、そのたびに自分の実力アピールをしてるぜ、キリルのやつ。ヴァシルが弟子をとる方針に変わったなら、今度こそ! とか思ってんじゃないか?』
「えー、でもそれはルミャーナ師に失礼なような……まあ、ルミャーナ師がどんな方か知らないけどね」
『そのうち会う機会もあるだろうけど、師匠も師匠だったらどうする? ルイ』
「ちょ、怖いこと言わないでよ」
ビターオレンジの木々のあたりまでやってきた。
【果実】の大精霊シトゥルはいるかな? と見回してみたけど、今日はあの元気な姿が見えない。
「シトゥル、いないね」
『他の香精師のところに行ってるのかもしれないぜ』
ポップに言われ、あっそうか、と思う。
大精霊を呼び出すのは、ヴァシル様だけじゃないんだもんね。他の香精師のところで、香精を生み出してるのかもしれない。
香精師が何人いるのか知らないけど、大精霊って忙しそうだなぁ。
「じゃあ、シトゥルの助けなしで頑張って探さなきゃね。バラと合う香り、まだイランイランしか見つけてないんだから、他にも選ばないと。その間にキリルも帰るでしょ」
私はポップに話しかけ、果樹園を見回した。
「そうだ、厨房メイドさんが言ってたのって、このあたりじゃないかな」
柑橘系以外にも、果たして香精の元になる【果実】の香りはあるのかどうか……
他の木の陰になったところに、私の背より少し低い、緑の葉をつけた茂みがある。
近づいてみると、陰と思ったのは黒い小さな実がたくさん生って暗いように見えているのだった。
私は茂みに手を入れて、実を一粒摘んで目の前に持ってきた。
「なんだか見覚えがあるなぁ。ブルーベリーに似てるけど、もっと黒い……えっと……」
「それはカシスだぞ」
後ろから声がして、振り向いてみると、庭師のおじさんだった。
「よう、爆弾魔ルイ」
「二つ名がグレードアップしてませんか!?」
前は『コショウ爆弾のルイ』で、コショウだけだったのに!
がはは、と笑う屈強な庭師さんは、私の持つカシスを指さし、
「カシスも今が旬だな、料理長に言って使うといい。ジャムにすると美味いぞぉ」
と言いながら鍬を担いで行ってしまった。
その背中に「ありがとうございますー!」と声をかけて、私は改めて摘んだ実を眺める。
そうか、カシスだったのかー。ブラックカラントとも言うんだっけ?
でも、その実の周りにはキラキラは見えなかった。
残念、香精にはできないのね。でも、それじゃあどうして、ヴァシル様は摘んでたんだろう。単に、つまみ食いかな?
仕方なく、私はその実を口に放り込む。
酸味の中に、ほんのりした甘さが広がった。
お屋敷の三階にあるヴァシル様の部屋に入ると、もうキリルの姿はなかった。
ホッ。
「何をホッとしているのですか、ルイ」
テーブルの向こうから、ヴァシル様の琥珀の瞳が私を見ている。
襟足でカールした白い髪、肩を少し外して着たクジャク色のローブ。立っても座っても、そして歩いても絵になるお方だ。
『キリルがいないからホッとしてるんだよっ』
ポップがしゃべっちゃったので、私もしゃべらざるを得ない。
「す、すみません、あの子ちょっと苦手で。何か用事だったんですか?」
「ええ、来月末の『香精展』のことで。ルミャーナ師が幹事なので、その使いで来ていたんです」
ヴァシル様が立ち上がりながら言う。
香精展?
「展示、するんですか? 香精を?」
「展示発表会、というところですね。アモラの中央通りの両側に、等間隔にガラスの台を置くんです。香精師は、そこに自分の自慢の香精の入った瓶を置き、道行く人々に香りを楽しんでもらいます」
中央通りは巨大なガラス張りのアーケードになっている。そこに様々な美しい香精瓶が並ぶわけで、華やかなイベントであることが想像できた。
「見学者は気に入った番号を主催者に伝えることになっているので、商談に繋がることもありますし、実質的な人気投票にもなります。ただ道を歩いていくだけで、次々と様々な香りを感じられて楽しいですよ」
「素敵ですね!」
私はわくわくした。
だって私、まだヴァシル様の作る香精しか知らない。その展示会に行けば、色々な香精師の香精と出会えて、それに色々な香芸師の腕前も見られるってことだよね。
「ヴァシル様、私も見に行っていいですか?」
「何を言ってるんです、ルイ」
ヴァシル様は、本棚から本を取りだし、そして振り返りながら涼やかに言った。
「見に行くどころではない。あなたも展示するんですよ。あなたの香精を」
私は目をぱちくりさせた。
「……えっ!? わ、私、まだ見習いなのに!?」
「私に割り当てられた台は五つ。そのうち二つを、ルイの台とします」
さくさくと説明を続けるヴァシル様は、ポップを振り向いた。
「一つはあの、レモンペッパー香精の瓶を置きなさい。ポップのお披露目です」
『おっ、オレの晴れ舞台だな!』
ポップは嬉しそうに、書き物机の上に置かれていたレモンペッパー香精の瓶の側に降り立った。ケーキポップを形どった瓶から、小さな香精がきらりと飛び出て、爽やかな香りをふりまく。
ヴァシル様は私に向き直り、続けた。
「香精展までにもう一つ、展示する香精を作ること。もちろん、瓶も必要になります」
私は真っ青になった。
香芸師ギルドでさえ、「あのヴァシル師が初めて弟子を取った」と騒がれてしまったのに、町中の香精師たちに、ヴァシル様の弟子として、私の作った香精をお披露目しなくちゃいけない……!?
「えっ、えっ、本当に!? 冗談ではなく!?」
思わず口走ると、ヴァシル様は目を細めた。その視線が一気に冷たくなる。
「私が冗談を言っていると……?」
「わああ、申し訳ありません、でもあの、他の香精師の方々と一緒に並べられるなんてことがあると思わなくて!」
あたふたと尋ねる。
「他の見習いの人たちも出るんですよね? まさか私だけじゃないですよね!?」
「ああ……それはそうです。香精師は何人かの弟子を持っていて、人数に応じて割り当ての台の数も変わります。たいていの香精師は、有望な弟子にいくつか台を譲りますよ」
ヴァシル様はうなずいた。
「ですから、ルイだけではありません。さっきキリルも出すと言っていました」
『ケッ、また自分の実力アピールしていったのかよっ』
ポップは吐き捨てている。
「まあまあ」
ポップをなだめながら、私は正直、少しだけホッとしていた。
だって、たいていの香精師は弟子にも展示させる……ってことは、絶対させるわけじゃないんでしょ。たまたま今年はさせなかったりして、蓋を開けてみたら見習いの展示は「あのヴァシル師の弟子」だけ、なんてことになりでもしたら、いたたまれないもの。
「とにかく一人は、私と同じ見習いの立場の人が出るんだ。キリルだけど」
つぶやくと、横からポップが『いないよりはマシだな』とひどいことを言った。
「今度は何をホッとしているのか知りませんが」
ヴァシル様はやや呆れたように、私を見る。
「あなた自身の香精を、しっかり追究しなさい。調香陣を書くのは、今まで通り私がやります。それと、明日にでも香芸師ギルドに行ってきなさい。展示会があることはギルドも知っているので、毎年予定を空けてくれていますが、誰が担当になるかはわからないし、決まったらその担当者と打ち合わせをする必要がある」
「は、はいっ」
不安この上ないけど、やるしかない。
「私、イリアンとしか仕事したことがないし、彼が引き受けてくれたらいいんですけど」
「またイリアンですか……。まあ、展示会でいきなり初めての香芸師と組むよりはいい。親方に言ってみてもいいでしょう」
なぜかしぶしぶといった様子で、ヴァシル様はうなずく。
「さあ、この話は終わりです。ルイが選んだ、バラに合う香りを試してみましょう」




