2 コショウ爆弾で命の危機
満ち溢れる光の中に、誰かが立っている。
神聖な雰囲気のオーラをまとった、おそらく男性だ。外国人というより、どこの国でもない別世界の住人という雰囲気。襟足でカールした白いウェーブヘア、琥珀色の瞳。
この人だけじゃない、他にもいくつもの気配がした。姿が見えるのは男性だけなんだけれど、周りでさざめくように何か会話しているのがわかる。
男性は、まっすぐに私を見て、厳かに言った。
『見つかったんですね、候補者が』
誰のことだろう……私? 何の候補者?
『試してみようか。さあ、こちらへ来なさい』
彼は身を翻した。彼の身につけているローブが、まるで翼のようにたなびく。
まぶしすぎて真っ白な空間に置いて行かれるのが嫌で、私はあわてて後を追った。
「待って……」
光がひときわ、明るくなった。
目を開けると、青空が見えた。
ぼうっとして、しばらく空を見つめる。視界の隅には緑の木々、そしてそこから小鳥が飛びだして空を横切っていく。
……何で、私、外に?
急いで起き上がると、私が座り込んでいるのは草の生えた地面の上だった。
すぐ左を煉瓦を埋め込んだ歩道が通り、歩道沿いに美しい花々が咲き乱れている。緑の木々に囲まれた温室も見える。
視線で歩道をずーっとたどって行くと、その先に大きな洋館があった。赤茶色の壁に焦げ茶の格子窓、それぞれの窓に装飾的な白い屋根がついていて可愛らしい。
のどかな風景に戸惑っていた、その時。
「これは、何の匂いかな」
真後ろで、男性の声がした。
ぱっ、と振り向くと――
真っ白な髪がさらりと流れ、切れ長の瞳は琥珀色にきらめいて。淡い珊瑚色の薄い唇が、ゆっくりと閉じられるところだった。なめらかな肌が、しっとりした輝きを放っている。
ぽーっとなりかけた私は、直後、その顔が自分の顔から十センチくらいしか離れていないことに気づいた。
想像してほしい。美術館に展示されている至高の芸術品に、立ち入り禁止の線を越えて顔を近づけてしまっている不届き者を。
息がかかっちゃう!
「ひゃあ!」
反射的に、左手を地面についてぐわっとのけぞった。ついでに芸術品と自分の間を遮断すべく、右手をパッと上げる。
「うっ!?」
そのとたん、目の前の芸術品が、あろうことか美しい顔をゆがめた。
「ぶっ、ぶえっくしょん!」
芸術品は顔を背け、盛大にくしゃみを始めた。
「な、なんだこれは、ぶほっ、っくしゅっ!」
「……………………あれ?」
私は恐る恐る、自分の右手が握っているものを見た。
プラスチックの、ペッパーミルだ。中に、ブラックペッパーの粒がぎっしり入っている。
ミルの部分に……挽かれたブラックペッパーが……の、残ってた? それで今、私、この人に……ぶっかけちゃった?
男性は片膝をついた姿勢で私の後ろにいたらしいんだけど、まだ顔を覆ってクシャミをしている。
だ、だってあんなに顔が近いから! 何なの? 私の匂いを嗅いでた?
「ヴァシル様!?」
「どうなさいました!」
数人の男女が駆けつけてくる気配がする。振り向いた私はギョッとした。
汚れたエプロンに帽子を被った、いかにも庭仕事中のガーデナーといった格好のおじさんやおばさんたちだ。しかし皆、肩のあたりがガッチリしていたり、胸板が厚かったり……ムキムキ屈強! 手には鍬や熊手や剪定バサミ!
その屈強集団が、ザザッと私を取り囲んだ。
ひいっ!
美術館で芸術品をぶっ壊し、警報が鳴り、警備員に取り囲まれる自分を、瞬間的に脳内で想像する。
彼らは私を見下ろし、キッと睨みつけて一斉に言う。
「あんた、ヴァシル様に何をした!?」
「す、すみません、とっさに! あの、これです、これ!」
ペッパーミルを差し出したのに、おじさんおばさんたちの目つきは険しさマックスのままだ。おじさんの一人が、ドスのきいた声で言う。
「おかしなものをヴァシル様に! 覚悟はできているんだろうな?」
うええっ!?
どうしよう、すごいお屋敷のすごい庭にいたこの男の人、きっとすごい偉い人なんだ。外国から来た要人かも。
私、そういう人にとんでもない無礼を!? 手打ちにされて人生終わりそうな勢いなんですけど、どうしよう!
しかし、おじさんはこう続けた。
「それは何だ!? 毒か!?」
……ん?
「さっさと白状しろ。それは何だ!」
……は? だから、見せてるじゃん。見ればわかるじゃん。
コショウです、なんてまともに答えたら、逆にふざけてると思われそう。ためらっていると、
「言えないようなものか!?」
と殺気立った言葉が飛んでくるので、私は仕方なく言った。
「コショウ……です」
絶対「そんなことはわかっている!」って言われるだろうなと思ったのに。
ガーデナーのおじさんは言った。
「コショウとは何だ!」
……いや、何って……
「コショウはコショウです。ブラックペッパー……」
言いかけて、我に返る。こんな言い争いをしている場合じゃない、私が偉い人にコショウぶっかけてクシャミさせたのは間違いないんだから。
私は、ぴょん、と正座すると、ようやくクシャミが収まった様子の男性に頭を下げた。
「ごめんなさいっ、目が覚めたら知らない人がいたので、びっくりしただけでっ」
うつむいていた男性は、片手を上げてガーデナーさんたちを制した。そして顔をゆっくりと上げ、私を見る。
あっ、ちょっと涙目。ほんとごめんなさい。
そんなことを思いながらも、つい無遠慮に見つめてしまう。
だって、あまりに綺麗なんだもの。白いウェーブヘアは襟足でカールしていて、金の額飾りに孔雀色のローブを身につけたその姿は、まるで映画に出てくるエルフみたい。ローブをちょっと肩をずらした風に着崩していて……でも、それがだらしなく見えない。この人はこれでいいんだ、という謎の説得力がある。
何だか、私の周りとこの人の周りでは、空気さえ違うんじゃないかという気がした。
男性が、薄い唇を開いた。
「君は?」
その声までが神秘的で、深く響いて、私はボーッとなりながら答えた。
「あ……楠木泪と言います」
「クスノ・キルイ」
えっと……あ、そうか、日本の人じゃないんだ。
「泪で結構です」
そう言うと、男性は鷹揚にうなずいた。
「ルイですね。私はヴァシル」
そう、さっきガーデナーさんたちが言ってた。ヴァシルさんか。
丁寧な言葉遣いに安心した私は、もう一度頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。コショウなんて、持ち歩くものじゃないのに」
本当だよ、どうして店から持ち出しちゃったんだろう?
すると、彼は目を細めて、口を開いた。
「そう……コショウ。それは、凶器ですね」
「き、凶器……あはは、場合によってはそうかも……? コショウ爆弾、なんて言いますしね」
つい笑うと、美しいヴァシルさんも美しく微笑んだ。
「それでは、私の館で凶器を振り回した者は、罰しなくてはなりませんね」
……あ……れ……?
ヴァシルさんは、すっ、と立ち上がった。
ゆったりしたローブを着ていてもわかる、すらりとした身体つき。背が高い、頭、小さい。まさに完璧な芸術品。
そんな美しい人が、こう言った。
「ルイ。私の屋敷で働きなさい」
……はい?
「あの……それはどういう」
ポカンとして聞き返す私に、ヴァシルさんは微笑みを崩さないまま、声だけを少し低くして言った。
「私にクシャミをさせた分、ここで働きなさい、と言っています」
えええええ!?
顔からザーッと血の気が引くのがわかった。
お、怒ってる、顔は笑ってるけどこの人怒ってる。要人を怒らせたらただでは帰してもらえないんだ!?
日本の常識は通用しないのかもしれない。これは言うことを聞いた方がいい。きっと皿洗いとかそういうアレだろうし、やっといた方がいい!
私は正座したまま、しゃきん、と背筋を伸ばした。
「わ、わかりましたっ! 働かせていただきます!」
「ヴァシル様、お身体は!?」
さっきの屈強ガーデナーさんの一人が心配そうに言ったけれど、ヴァシルさんはもはやクシャミ事件などなかったかのように、館の方を振り向きながら言った。
「もう大丈夫です。あれは、どうやら食べられる植物のようだ」
私は急いで言う。
「あのっ、家に連絡だけしてもいいですか!?」
何がどうして自分がここにいるのかわからないけど、夜が明けちゃってる。お店、今日はお母さん一人で何とかしてもらわないと。あ、足立さんはどうしたかな。
するとヴァシルさんは、私をちらりと見下ろした。
「立ちなさい。後で役所の人間に会わせます」
役所。
やっぱりあれか、偉い外国人のお屋敷から外に連絡するには、手続きみたいなものが必要なの?
「わ、わかりました」
立ち上がりながら返事をすると、ヴァシルさんが煉瓦敷きの歩道を歩き出した。
小柄な私は、必死で後をついていく。道は、館の正面玄関に続いている。
すると、彼はいったん足を止め、肩越しに私を見た。
「あなたはあちらです」
長くて白い指が差したのは、館の脇、裏手に回る小道の方。
「おら、仕事だ仕事!」
ガーデナーさんたちがまた私を取り囲むように壁を作り、私はあわてて進路を変えた。
そ、そうだった、お詫びに仕事だった! その間に役所に連絡を取ってくれるのかな。
なんだかよくわからないけど、働かなきゃ!