10 バジルとブラックペッパー
リラーナと話していたところへ、後ろからヴァシル様の声がかかった。
「レモンペッパーの香精瓶も、なかなか面白かったですよ。見ていると、あのケーキを食べたくなります。ルイ、また作ってください」
あらー? さっきまで不機嫌だったのに、イリアンが来たとたん、妙に何度もヴァシル様に話しかけられるなぁ。
とにかく、私は立ち上がる。
「はいっ。あ、実は今日、イリアンとリラーナにお礼をと思って別のものを作ってあって」
私は研究室の隅から自分のカバンを持ってきた。布包みを出すと、リラーナに差し出す。
「これ、お土産。お兄ちゃんと一緒に、朝ご飯にでも食べてね」
リラーナは、くん、と小さな鼻をうごめかす。
「……バジルのにおい。あと、ポップのにおい」
ズビシ、とポップが空中でポーズを決める。自分の話題には敏感な奴なのである。
私はうなずいた。
「そう。元気に、自由な気持ちで過ごせるように、って」
「ありがとう」
リラーナは包みを受け取り、にこ、と笑った。
私は立ち上がり、イリアンに挨拶する。
「また一緒に仕事させてね!」
イリアンはまた口をへの字にしたけれど、渋々っぽくうなずいた。
「……ああ。……それでは、失礼します」
彼はヴァシル様に挨拶し、リラーナを促して部屋を出て行った。
あ、ちなみに、お会計は定期的に締め日があるようです。
いやー、よかったなー。きっと天国のお母さんもほっとしてるんじゃないかな。こちらに天国があるのかどうかはわからないけど。
そんな風に思いながら扉が閉まるのを見守り、そして振り向くと──
ヴァシル様が眉間に皺を寄せ、椅子の肘掛けで頬杖をついて、私を睨んでいた。
え、な、何っ!? 不機嫌に戻った!?
低い声が、私に尋ねる。
「──ルイ。さっき渡していたのはなんですか」
「ス、スコーンですっ。バジルと、ブラックペッパーの、スコーンですっ」
どもりどもり説明する。
イリアンが甘いものが嫌いだというので、甘くないもので何か……と思ったんだよね。で、今回役に立ってくれたバジルを使ったんだけど、な、何か!?
ヴァシル様の眉間はそのままだ。
「私は、それを、食べていませんが」
「ふあっ!? あ、ありますあります、たくさん作ったので!」
私は急いで、カバンからもう一つの包みを取り出した。
いや、だって、人にあげるために作った余り物を、侯爵のヴァシル様に……だなんて、失礼かなとか思うじゃん!? これも自分用だから、お皿さえないんだけど……
「どうぞ」
おずおずとヴァシル様の前に包みを置き、開いてみせる。
ふわり、とバジルの香りが立った。刻んだバジルとブラックペッパーを混ぜ込んだスコーンは、淡いきつね色。表面が割れて、中のほっくりした面が見えているのがまた美味しそうだ。
ヴァシル様は、軽く顔を近づけた。
「ふん。いい香りですね、バジルとブラックペッパーか。……君、作ってみますか、ルイ」
「え、何をですか?」
聞き返すと、ヴァシル様はさらりと言う。
「香精です」
「えっ!?」
私が、香精を作る!?
あたふたしているうちに、ヴァシル様は床に屈み込んだ。
「調香陣は私が処方しましょう。少し、レモンも入れますか。あなたは呪文を考えなさい」
あわわわ!
ええと、ええと、バジルは元気になる香りで……ブラックペッパーは、香辛料そのものよりポップは穏やかな香りをしていて、でも温かくなるような感じで。ほのかにレモンが香って……
そうこうしている間に、ヴァシル様はさっさと調香陣を書き上げ、中央にどこから持ってきたのかお皿を置いてスコーンを載せた。
「どうぞ」
早いわ!
ええい、もう思い切っていこう。ずっと閉じこもっていたリラーナが外に出てきた、そのことをイメージして!
「さささ爽やかな風に呼ばれて! レモン!」
思いっきりどもったけれど、私は声を張った。
ふわっ、と宙に【果実】の大精霊シトゥルが現れる。
『わあ、ルイ頑張って! 爽やかな風よ吹け!』
レモンのフレッシュな香りが広がった。
「解き放たれよ! バジル!」
次に、ぽん、と【ハーブ】の大精霊ビーカ少年が。
『あっ、ルイだ! 自由に解き放たれる香りを!』
彼の元気な声とともに、解放されるようなすっきりした香りが加わる。
「そして温もりで包め! ブラックペッパー!」
『待ーってましたーっ! 温もりとともに!』
【スパイス】の大精霊ポップが、ぴゅーんと飛び回る。
調香陣の上に、きらっ、ぱっ、と光の球が弾けた。
緑からレモン色へ、その姿はグラデーションがかっている。小さな香精が、生まれた。
『バジルペッパーの香精、誕生だー!』
ポップがビーカやシトゥルとハイタッチしている。
き、気が合うのかな。でもよかった、無事に生み出せた!
レモンにバジルにブラックペッパーなんて、食べ物系ばっかりのような気がするけど、すごく心が解放されるような気分になる香りだ。
生まれたての香精は、私の回りをくるくると飛び回っている。まずは仮の瓶を決めないと。
「ええっと、仮の瓶、仮の瓶……ヴァシル様、この子の瓶も、イリアンのところに作りに行っても?」
振り向いてみると、ヴァシル様はスコーンのお皿を手にいそいそと机を回り込み、自分の椅子に座っていた。私の視線に気づき、眉をきりりと逆立てる。
「ルイ、君は私の弟子だということを忘れないように。香芸師の弟子にはやりませんからね。ではいただきます」
えええ、そんなこと心配してたんだ!? 私が香芸師の方に興味を持っちゃうんじゃないかって?
『イリアンの前で「ルイ」「ルイ」言ってたの、たぶん牽制だぜ』
ポップが歯をむき出して、ニシシシと笑っている。
はぁー?
ヴァシル様は澄ました顔で、指先でスコーンをつまみ口に運んでいる。
つい、ぼそっとつぶやいてしまった。
「私、日本に帰る香りを探してるんですけど……」
「ほれれも」
ヴァシル様はうっかりスコーンを食べながら何か言い、一度飲み込んで、改めて言った。
「それでも、ルイ。君はこの世界に、新しい香りをもたらしました。元の世界に帰るのだとしても、もっとたくさんの発見をしていってください」
「……! はい!」
帰れない、とは、言わなかった! そして、いつか帰る私でも、きっと何か役に立てるんだ!
「うん。美味しいですね。外はカリッとして、でも中はふわりと。バジルの香りとペッパーの刺激に、飽きない」
スコーンを美味しそうに食べるヴァシル様に、はしゃぎ回る大精霊たち。
「あっ、お茶、頼んできましょうか」
私も嬉しくなって、扉の方へ向かいかけたところで──
トントン、とノックの音。
「失礼します、お客様です」
従者さんに案内されてきたのは、ひょろっと細い女の子。くりくりのプラチナブロンドに眼鏡、若草色のローブ。
「ヴァシル師、キリルです。ルミャーナ師の使いで……」
言いかけた彼女は私を見るなり、髪の毛を爆発させそうな勢いで声を上げた。
「ちょ、ルイ!? あなた、なんでここにいるんだっ」
「え? なんでって、だから弟子だって……」
「嘘だっ、私だって何度も弟子にしてほしいってお願いしたのに、なんであなただけ!? ヴァシル師!」
「もぐもぐ。静かにしてください、美味しいものを味わっているんですから。もぐもぐ」
「ヴァシル師! 納得行きません!!」
……なんか……これから色々と困ったことになりそうな予感……
私はこっそり、お茶を頼みにヴァシル様の研究室を抜け出したのだった。
あ、たくさん作ったバジルペッパースコーンの残りは、厨房スタッフの皆で美味しくいただきました。
【第2章 解放のバジル 完】