9 リラーナの香精瓶
数日が経ち、私は相変わらず午前中は厨房、午後は修行の日々にいそしんでいた。
今日は、厨房の一番忙しい時間の後、料理長にお願いしてオーブンを借りている。料理はレモンペッパーチーズケーキ以来だ。
寝かせてあった生地に、いい香りのする仕上げの材料を混ぜ込む。麺棒で伸ばして、丸い型で抜いていく。
こうして何かを作る時間、そして、できあがるのを待つ時間は、楽しい。弾力のある生地に手で触れて、いい匂いを胸一杯吸い込んで、焼き目を目で楽しんで、味見したら美味しくて。
しかも、食べた人が喜ぶ顔を想像したら、もっと楽しい。
リラーナは、喜ぶ香精を想像しながら、瓶を楽しく考えられただろうか。
午後になり、植物園で今日も葉や花を摘んできた私は、研究室でヴァシル様に質問しまくっていた。
「ちょ、ちょっと待ってください、ユーカリってそんなに種類があるんですか?」
「先日摘んできたユーカリ、わかっていて摘んできたのかと思っていましたが」
「わかってませんでしたごめんなさい! 合っていたなら偶然です!」
「……トレルが他の素材を見て、気を回したのかもしれませんね。ルイは大精霊たちに甘やかされすぎている」
ヴァシル様は、息が白くなりそうなくらい冷ややかに言う。
「代表的なものは三種類です。いくらあなたでも覚えられるでしょう。今すぐこの場で覚えなさい」
イエッサー!
ヒーヒー言いながら口の中でぶつぶつと暗記していると、ノックの音。
「ヴァシル様、香芸師の方がおみえになりました」
従者さんに案内されて入ってきたのは、イリアンだった。
なぜか後ろから、植物園にいたはずのポップがついてきていて、彼のまわりをふわふわ飛んでいた。
私はつい、イリアンをマジマジと観察してしまった。
いつもは頭に布を巻いて後ろで縛り、作業着みたいな格好をしているのに、今日は違う。頭に何もかぶっておらず、癖のある前髪が額に落ちている。前が袷になっている丈の長い上着は、腰の下の方でサッシュベルトのような風に縛ってあり、ブーツを履いていた。
へぇ、かっこいいなー。バナクの服かな?
ジロジロ見ていると、目が合った。
やあ、と目で挨拶すると、彼はなにやら口をへの字にしてヴァシル様に視線を戻す。
「失礼します。ご依頼の瓶を、お届けに上がりました」
イリアンは、木箱を持って部屋の中に入ってきた。
ふふ、歩き方がぎこちない。きっと緊張してるんだ。
そう思いながら、ふと彼の足下を見ると──
服に変なしわが寄っている。あれ、と思ったら、彼の上着の裾を小さな誰かがつかんでいた。ちらり、と紫の瞳がのぞく。
「リラーナ!」
私は思わず声を上げた。
イリアンの後ろに隠れるようにして、リラーナの小さな姿があったのだ。リラーナにしがみつかれてたから、歩き方がおかしかったのか。
ずっと、台の下に引きこもって出てこなかったリラーナ。きっと何か心境の変化があったに違いない。
笑いかけると、リラーナはまたあのはにかんだ笑みを見せ、そしてすぐにイリアンの陰に隠れた。
ポップがうろちょろしているのは、リラーナに付き添っているつもりなのかも。
「……申し訳ありません、妹です。おとなしくしていますので」
イリアンは言いながら、テーブルの上に木箱を置き、布の包みを取り出した。親方に注文してあった香精瓶だろう。
「構いません。前にルイが言っていた子かな」
ヴァシル様が私を見たので、私は「はいっ」と大きくうなずいた。イリアンが軽く頭を下げる。
「前に母が香精を作っていただきまして……。それに、瓶のことでご指摘いただき、ありがとうございました」
「いや、役に立てたならよかった。……ほら、見てみなさい、ルイ」
ヴァシル様に言われ、私はイリアンが布を取り去ったその中から現れたものを見る。
「……わあ」
親方が作った、オレンジとネロリの香精瓶だ。
口には乳白色の美しいひだが入り、本体はカットされた宝石のような形になっていて、淡いオレンジや緑が複雑に入って光っている。
「素敵です……! あっ、香精が出てきて伸びをした。わぁ、すごい、絵になる」
ため息混じりに感想を言うと、ヴァシル様はうなずいた。
「これが、親方の腕前です。私は彼をとても信頼しているんですよ」
すると、イリアンが少し緊張した声で言う。
「うちの親方が、ヴァシル師は最近変わった香精をお作りになることが多いから、今回は久しぶりに昔ながらの香精で嬉しい、と気合いが入っていたようでした」
あ。
そういえば、私がレモンペッパー香精を持って行ったとき、親方はちょっと複雑そうな表情と態度だったなぁ。
ヴァシル様はゆっくりとうなずいた。
「親方は、伝統的な香精が好きですね。そして、それを見事に表現する彼の伝統の技が、私はとても好きです。──しかし、しばらくは色々と試さなくてはいけないことがある」
試さなくてはいけないこと……?
ヴァシル様は続ける。
「それが落ち着いたら、また私と親方とで、傑作と呼ばれる香精と香精瓶を生み出したいですね。神殿に奉納できるくらいのものを。そう、伝えてもらえるでしょうか」
「わかりました。きっと、喜ぶと思います」
イリアンはうなずいた。
すると、ヴァシル様はまた私を見た。
「ルイ、その女の子は、私の作った香精を持ってきているようですね。香りがします」
「あ、はい!」
さすがはヴァシル様、香りに敏感。
私はそっとイリアンの脇から近づき、リラーナをのぞき込んだ。
「リラーナ、瓶、できたの? 見てもいい?」
「ルイに見せたくて、持ってきたんだろ」
イリアンが小声で促し、そして私にも言う。
「自分から、行くって言ったんだ。……こいつ久しぶりにギルドの外に出たよ」
リラーナは、もじもじしている。
どんな瓶になったんだろう?
リラーナの香精は、不安を取り除く香精。心を落ち着かせる香精。
私は静かな森の中、香精と一緒にゆっくりお昼寝しているリラーナをイメージして、瓶をデザインした。香精自身もゆっくり休めるように、下半分を濃いモスグリーンにしたので、流行──淡い色で服にあわせやすいもの──からははずれてしまっていると思うんだけど。
辛抱強く待っていると、リラーナはおずおずと、イリアンの服から顔を離した。胸元の瓶を持って、そっと私に差し出す。
「わぁおぅ」
感嘆のあまり、変な声が出てしまった。
下半分がモスグリーンなのは、私のデザインを使ってくれたらしい。でも、ちょっと面白い形になっている。形は電球に似ていて、上の球の部分に淡い紫の花模様が入っていたのだ。
「……びんのなかで、ねんねするとね……」
リラーナが、とぎれとぎれに説明してくれる。
「おはよう、ってしたときにね……お花がみえるの」
ああ、なるほど!
瓶は香精の住処。確かに、この中で目覚めたら、ドーム状の天井に花がいっぱい見える。香精は嬉しいだろうなぁ!
「リラーナが考えたの!? すごいね! 香りも、前より元気になってる」
私は何度もうなずいた。リラーナは、えへ、と笑う。
「いいにおいの香精さん、ルイにみせたくて、きちゃった」
「うんうん! 瓶を作り直して香精が元気になって、今度は香精がリラーナを落ち着かせてくれたんだね、きっと。大事にしてね」
「うん」
リラーナはうなずいた。