7 香精と人間
その日もヴァシル様からペンダントを持たされ、私は香芸師ギルドに向かった。
「こんにちはー……」
ホールに顔を出すと、今日は大勢の人々がガラスの地球儀を掃除していた。そういう日らしい。
「おう」
私に気づいたイリアンが、顎をしゃくる。先に上に行っていろ、ということらしい。
『態度のでかい男だな!』
肩の上でポップが言う。
ブーメラン、超ブーメラン。
階段を上って昨日の部屋に入ると、今日もリラーナがいた。やっぱり、鉱石を納めた台の下にいる。
もしかして、何かの事情でお父さんもいないのかな……それでお兄さんの仕事場にずっといるのかもしれない。
「こんにちは、リラーナ」
「こんにちは……」
リラーナはうずくまったまま、それでもはにかんだ笑顔を見せた。
私は手にした籠の中から、布をかけた皿を取りだした。
「今日は、お土産があるんだ。オレンジピールと紅茶のケーキだよ」
こんがり焼けたパウンドケーキの断面には、艶のあるオレンジ色が見え隠れしている。ふんわりと香ばしい紅茶の香り。料理長の得意デザートだ。
私の分なんだけど、他のサンドイッチやキッシュでお腹いっぱいになってしまったので持ってきた。
リラーナが目をキラキラさせたので、
「どこで食べる? ここの椅子に座る?」
と聞いてみた。でも、彼女はこちらを気にしながらも台の奥に縮こまってしまった。出るのはどうしても嫌らしい。
「待って、今そっちに持ってくから。お兄さんと半分こね」
作業台にお皿を置いて、持ってきたナイフで切り分けようとしながら言うと、小さな声がする。
「……お兄ちゃん、おかし、たべない……」
「あれ、そうなんだ?」
言ったところで、後ろから声がした。
「俺はいらねぇ」
イリアンが部屋に入ってくるところだった。私は聞いてみる。
「甘いもの、苦手なの?」
「ああ。口の中が甘ったるくなると気持ち悪くなる」
「そ。じゃあリラーナに全部あげる」
私はお皿を手に屈み込み、台の奥のリラーナに差し出した。
リラーナは「ありがとう」と嬉しそうに皿を受け取った。フォークで少しずつ、食べ始める。
目が合うと、また少し笑った。美味しそう、よかったな。
「ヴァシル師の服装、調べてきたか」
「うん」
イリアンに聞かれた私は、ヴァシル様が最近着た服の色について説明した。彼はうなずく。
「レモンの色はいけそうだな」
「でも、私の好きにしていいって。私が生んだ大精霊の力で初めて作った香精だから」
「……は? 生んだ?」
眉を変な角度にひん曲げるイリアンに、私はためらいつつも自分の肩のあたりを指さす。
「う、うん。ここに、いるの。一応、七番目の大精霊でね……なんか、動物の姿で……いや、それっぽくないのはわかってるんだけど」
『ちょっとそこ! ルイ! 何で恥ずかしそうかな!? もっと誇って!!』
ポップが怒って、部屋の中をポンポン飛び回っている。
イリアンは気配を感じるのか、私とポップのいるあたりを見比べた。
「へぇ……。あんたが精霊母。初めて見た」
「はは……。まあほら、さっきの話に戻ろうか」
『話を逸らさない! もっと話題にして! 盛り上がって!!』
うるさいなぁ。別の話にしよう。
「そうだイリアン、ヴァシル様といえば、リラーナの持ってる瓶の香精ってヴァシル様が作ったものなの?」
「え? ああ、そうだ」
イリアンはリラーナをちらりと見た。
「母が、自分の死期を悟って……。まだ小さいリラーナを遺していくことを心配して、リラーナの心を落ち着かせるような香精をヴァシル師に依頼したんだ。瓶は、俺が作った。でもまあ……前はよく外で遊ぶ奴だったけど、母が死んでからはずっとあんな感じだ」
「そうだったんだ……」
私は、頬を膨らませてケーキを食べているリラーナの方を見ながら言った。
「香精も、元気がないんだってね」
「いつかは自然に『戻って』しまうもんだ、しょうがない」
イリアンはそう言うけれど、私には試してみたいことがあった。
持ってきた籠の中から、香精瓶とは違う小さな瓶を取り出す。
水の入ったそれには、薄くて柔らかな、でも濃い緑色をした葉が挿してあった。葉の回りがキラキラして、精霊がいるのがわかる。
「リラーナの香精さんにも、お土産があるんだけど。出てこれるかな?」
「?」
リラーナが皿を膝に置き、片方の手で瓶を持ち上げた。するり、と香精が瓶の縁に顔を出す。
私はリラーナの前にしゃがみ、葉を差し出した。
「バジルの葉。この香精さんの香りに合う、元気の出そうな香りを持ってきたんだ」
「は? 香精に元気を出させようって?」
ちょっと呆れた風に言いながらも、イリアンが近寄ってくる。
リラーナは葉を受け取ると、瓶の口のところに差し込んだ。香精はそのすぐ脇に腰掛けると、葉のたわんだくぼみに入り込むようにして寄りかかった。
キラキラ光る粒子が、香精を包んだように見えた。
「うれしいって」
リラーナがささやき、イリアンが驚いたようにつぶやく。
「本当か? 人の役に立つために生まれた香精なのに、人に癒されてどうすんだ」
イリアンには、香精があまりはっきりとは見えないらしい。
香精を見つめながら、私は言った。
「私、初めて香精を見た時、会話してみたいなって思ったんだよね」
「会話?」
いぶかしげなイリアンの声に、うなずく。
「うん。香精って、はっきり見えない人が多いのかもしれないけど、たまたま私には見えたから……。瓶も、人の装飾品っていうより、香精の『住処』だと思ってたの。だから、人の趣味には関係なく、香精が喜ぶものを──香精に一番合うものを作るんだろうって」
大昔から一緒に暮らしてきた、人間と犬や猫のように。人間じゃない存在でも、家族になれるように。
「人間と香精が、癒し、癒される関係になれたら、それはそれで素敵じゃない?」
「…………」
黙り込んで何か考えているイリアンに、私はヴァシル様との会話を話すことにした。
「イリアン、言いにくいんだけど、ヴァシル様がね……この香精が今、元気がなくなってるのは、ずいぶん早いって。瓶が、合っていないのかもしれないって、おっしゃってた」
イリアンは視線を泳がせる。
「俺はただ、樹木系の香りだから緑系統を選んで、後はリラーナに似合う瓶を作っただけだ。リラーナが持つんだからな」
私は少し考えてから、顔を上げてイリアンをまっすぐ見た。
「イリアン、レモンペッパーの香精なんだけど、ヴァシル様の服装は関係なく、私が考えてみようと思う」
「ま、まあいいけどよ……好きにしろって言われたなら。俺は責任取れねぇからな!」
「わかってるよ。それで、リラーナの香精の瓶も、考えてみてもいい? リラーナにはこの香精が必要でしょ? それなら……」
言いかけたところで、イリアンはお手上げといった風に両手を上げた。
「香精第一に考えたいってことだな。わかったわかった、好きにしろ。俺には香精がはっきり見えないんだから、あんたが考えるしかねぇし」
「ほんと!? ありがとう!」
私は早速、石の陳列台を見て考え始めた。その間に、イリアンはテーブルに紙を広げる。
「レモンペッパーの香精はね、私が自分の国から持ってきた香辛料から考えたんだよね」
石をあれこれ選びながら、半分独り言のように言っていると、イリアンの声がした。
「香辛料の香りが、レモンの香りを引き立ててるんだな」
ちらりと見ると、ポップが腰をくいっとツイストし、ポーズを取っている。
『はっはっは、オレは相手を気持ちよくさせてその気にさせるのがうまい男なんだぜ!』
「ポップが言うと、なんかいやらしいよね」
『そんなっルイ!』
「あ? ルイ、大精霊が何か言ったのか?」
「ううん、気にしないで。……ええとね、それで、自分で香精を生み出すことができなかったから、代わりに料理したんだ。レモンとブラックペッパーの入った、チーズケーキ。ペパーミントの葉を飾って……。ヴァシル様が気に入ってくださって、嬉しかった」
そうだ。ケーキだったんだよ、最初は。
美味しくて、可愛くて、元気になるレモンペッパー。香精自身がそんな性格なのだとしたら、住処である香精瓶もそれに合ったものがいいのかもしれない。
私は棚の前に戻り、腕組みをしてしばらく考えた。そしてちらりと、リラーナの周りでぴょんぴょんしているポップを見る。
ああいう奴なんだよね、ブラックペッパーは。
さて、どうしよう。……好きにしていい、って、ヴァシル様はおっしゃったし……
「よし。ケーキポップで行くか!」
「なんだって?」
イリアンが不審そうな顔をしたけど、私はすぐに「次はリラーナの香精ね……」と考え始めた。彼は腰に手を当てる。
「おい。ヴァシル師のご依頼の仕事の方が先だ」
あ、了解です。
私は、クレヨンのような画材を使ってデザイン画を描き始める。
ふと見ると、リラーナは台の下でうずくまったまま眠ってしまっていて、イリアンが上掛けをかけてあげているところだった。