6 エミュレフの精霊王
「ああ、神殿な。そういえば、一時はよく行かれていたな、ヴァシル様」
料理長がパン生地をこねながら言う。
「ルイが来た頃から行ってないけどな。ルイに教えるのに忙しいんだろう、ちゃんと教えてくださってる証拠じゃないか」
「そうね、ルイにとても力を注いでらっしゃるように見えるわ」
通りかかった家政婦長のアネリアさんにも言われた。
私は口ごもる。
「でも、不思議ですよね。この国の人間じゃない私は、文化も何も全然違って、精霊のことさえ知らなかったのに、どうして教えてくださる気になったのか……」
「あら。もしかして、誰かに何か言われた?」
「いえいえ。ただ、香精師の仕事はエミュレフと深く結びついてる、と聞いたので、違う国から来た私でも香精師になれるのかなって、ちょっと思っただけです」
えへへ、とごまかす。
キリルには、『香精師になれるとは思えない』って言われましたけどね! 後から思い返すと、いきなりのあの言いよう、ちょっとムカつく。
アネリアさんは少し考えて、芋の皮むき作業中の私の横に椅子を持ってきて腰かけた。
「ルイは、エミュレフがどうして『公国』なのか知ってる?」
「え? いいえ……」
そういえば、公国だから一番偉いのが大公様なんだよね。王様とか大統領じゃないんだ。
アネリアさんは解説してくれた。
「香精師の中でも、特に精霊の特別な加護を受ける人が時々現れるの。精霊たちに愛されると寿命も延びるし、作った香精は大きな力を持つんですって。そういう人は『精霊王』と呼ばれて、国に富をもたらす存在として崇められる」
「王、ですか」
「そう。だから、またいつか精霊王が現れることを願って、王の座は空けておいて、大公が国を治めているのよ」
へええ、それで公国なんだ!
「でもそれなら、精霊たちに選ばれた人が王になれるってことですか?」
「そういうことになるわね。まあ、この場合の王は政治をするわけじゃなくて、もっと形式的なものだけど。……だから、血筋とか、どこの生まれとか、関係ないの。ルイにだって、女王様になる可能性はあるわけよ」
「えええー!?」
思わず笑ってしまった。でも、アネリアさんは意外そうな顔で言う。
「あら、信じないの? 私たちから見れば、大精霊と話のできるルイは十分、その可能性があるなって思うけど」
「そ、そんなこと」
「まあそんなわけで、確かに香精師の仕事はエミュレフと深く結びついているけど、異国出身だからって気にする必要ないってこと」
アネリアさんはにっこり笑って立ち上がり、
「いけない、話し込んじゃったわね。じゃ!」
と立ち去っていった。
……もしかして、私がちょっと落ち込んでたの、見抜かれたかな。励ましてもらったんだと思う。
アネリアさんのおかげで、気分が軽くなった。いや、私が精霊王になることはさすがにないとして、ね。
ただ、まだ気になる点は残っていた。
ヴァシル様は、私が日本に帰りたがってることをご存知だ。せっかく弟子として色々教えても、いずれ私が日本に帰ってしまえば、エミュレフの役に立つことはない。
ヴァシル様にしてみれば、それって無駄なことなんじゃ……?
いくら私が頼み込んだからって、ヴァシル様がそんな私を弟子にして下さったのは、どうしてだろう。
──もしかして、私は帰れないんだろうか? ヴァシル様はそれを知っていて、だから私に教える気になった……?
考えているうちにも、時間はどんどん過ぎた。午後になり、ヴァシル様の部屋に行く。
「失礼します」
「ルイ。今日はこれの収穫を頼みます」
ヴァシル様がテーブルの向こうで、収穫物のリストを軽く持ち上げた。近寄って受け取ると、師匠は私の顔をじっと見つめ、軽く首を傾げた。髪がさらりと肩に流れる。
「何か、ありましたか?」
「あ、いえ!」
私はやっぱり、帰れないんですか?
……なんて、聞く気にはなれなかった。さすがに怖い。
「あの、収穫が終わったらまた、ギルドに行ってこようと思うんですが。昨日はどんな瓶にするかが決まらなくて」
「そう。君が生み出した大精霊の力を借りて作った、初めての香精です。君の好きなように決めなさい」
「あ、はい」
それでいいんだ? もう、昨日言ってよー。そしたら昨日のうちに作業できたのにね。
ヴァシル様は涼やかな流し目を私に送る。
「誰が担当になったんですか?」
「イリアンという人です。親方のお弟子さんで」
「ああ……バナクの血を引いている彼かな」
「バナクというのは、国の名前ですか?」
聞いてみると、ヴァシル様は淡々と教えてくれた。
「そう。もう百年以上前ですが、エミュレフと戦争になってね。一時、このアモラを占拠していたこともある。それで、あちらの血を引いた者が多いんです。……そういえば最近、バナクの女性の注文で香精を作ったことがあったな」
もしかして、それが今、リラーナが持っている香精かも。お母さんが亡くなる前に注文したって言ってたし。
「その注文って、スラタスという花の咲いていた頃ですか?」
「ああ、確かにそうです。ルイはなぜ知っているのかな?」
「その女性の娘さんに会ったんです。あの香精、お母さんの形見だったんだなぁ……。元気がなくなってきちゃった、って、寂しそうにしてました」
話してみると、ヴァシル様は軽く顎を撫でた。
「ふうん。……作ったのはついこの間のことなのに、ずいぶん早いな。香精瓶、変えた方がいいかもしれませんね」
植物園に出た私は、さっきヴァシル様に言われたことを考えながら材料を探していた。
リラーナの瓶、綺麗だったけど、あの香精さんには合っていない? せっかくリラーナの心の支えになってくれている香精さんが、すぐに消えてしまったら……
『ずいぶん、憂鬱な表情だね』
不意に、声がした。
はっ、とあたりを見回すと、一本の木に寄りかかるようにして、若い男性の姿の大精霊が立っている。すらりと細く、ミディアムな長さの緑の髪をオールバックにしていた。
「あっ、あなたはもしかして……【樹木】の大精霊?」
『そうだよ、初めまして。トレルだ』
トレルは微笑む。
『君はルイだね、知ってる。何か探してるの?』
「ええ、あの、ユーカリを」
『ははっ。それなら僕だ、どうぞ』
トレルは笑って、自分の寄りかかっていた木を示した。
ユーカリと言えば、コアラが食べるんでお馴染みだよね。言われてみれば、トレルの示した木は、葉が白っぽい緑でそれっぽい。
葉を摘ませてもらうと、あっリラーナの香精もこの香りを持ってた! と気づく。最初に感じるトップノートが、スーッとするこの香りだった。
「いい香り。落ち着くな。……ねぇトレル、あなたたちも憂鬱になることはあるの?」
『なくはないけど、ここは植物園だからね。大勢の仲間たちが、お互いに楽しくやっていこう、って暮らしているから』
彼はゆったりと屈み込むと、足下に生えていた葉をすくうような仕草をした。
『こうやって、元気をもらうこともあるよ』
「それ、バジル……」
私は少し考えると、トレルに言った。
「私もバジル、もらおうかな」
『君も、バジルから元気がほしいの?』
「ううん、私じゃなくて」
私はエヘヘと笑う。
「元気をあげたいなぁー、なんて」