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1 茶色の小瓶は秘密の香り

 カフェの中には、お客さんたちが楽しく美味しく過ごした時間が、香りとなってたゆたっている。

 ワインのような豊かさ、ナッツのような芳ばしさは、コーヒーの香り。

 爽やかな青葉や、ひかえめに咲く花の香りは、ハーブティ。

 そして、そこにスコーンやキッシュ、タルトなどをこんがり焼いた匂いが加わって、今日も誰かのお腹と心を幸せにできたのだと教えてくれる。


「素敵なお店ですね。まるでヨーロッパの田舎の方に来たみたいで、落ち着くな」

 その壮年の男性は、店の中を見回した。


 時刻は、夜の九時を少し回ったところだ。ペンダントライトに照らされた店内の様子が、暗い窓ガラスに映っている。閉店後なので、私と母とその男性以外にお客はいない。

 ここは、私の母の経営する喫茶店……いや、カフェだ。元々は昭和の匂いのする『喫茶店』だったけど、今時っぽく改装したんだから、『カフェ』といったら『カフェ』なのだ。

 改装といってもお金がないので、私と母とで日曜大工を頑張った。薄汚れたクリーム色だった壁はブルーグレイに、茶色の窓枠は白に塗り直し、ソファには素朴な柄のファブリック。木箱に入れた植物を店内のあちこちに置き、天井には適当に木の板を渡して、束にしたドライフラワーや唐辛子なんかを吊してある。

 もちろん、お店の顔である看板も綺麗に作り直した。『カフェ・グルマン』……フランス語で食いしん坊という意味のその名も、かっこよく書かれている、と思う。


(ルイ)が、インテリアを色々と考えてくれたの」

 母が機嫌よく、テーブルに紅茶のカップを置いた。男性はうなずき、私に視線を戻す。

「お店の雰囲気にぴったりの娘さんだと思ったら、やっぱり」

 私はとりあえず営業スマイルを作りつつ、落ち着かない気分で自分のエプロンのしわを伸ばした。黒のロングワンピースにフリルのついた白エプロン、付け加えるなら白フリルのヘッドドレス――そう、メイドの格好だ。


 そりゃあ、店のために店に合わせた格好してるんだから、雰囲気ぴったりでしょうよ! ああもう、母の彼氏が来ると知ってたら着替えたのにっ! ていうか私も彼氏ほしい!


 そんな内心の絶叫はおくびにも出さず、私は笑顔のままで母を手招きする。

「ほら、お母さんも座りなよー」

「あ、そうねっ」

 母はトレイをカウンターの上に置くと、私の隣――ではなく男性の隣に座ってしまった。

 おーい。

 母子家庭の娘としては複雑な気分だけど、母は私の機嫌を伺うかのように、肩を縮めて上目遣いになっている。なにせ、母が何度もおかしな男に引っかかってきたせいで、娘の私は苦労の連続だったのだ。今度失敗したら親子の縁を切ると言い渡してあるので、ビクビクしながら『判定』を待っているのだろう。


 私は咳払いをして、言った。

「それで、あの、自然食品を扱う会社にお勤めだと……母から聞きました」

「はい。そこで、主に精油の販売に携わっています」

 男性は、ジャケットの内ポケットから名刺入れを出して、私に名刺を一枚くれた。二十二歳の私をちゃんと大人扱いしてくれて、なかなか感じがいい。日本人にしてはちょっと彫りの深い顔立ちが濃ゆいけど。

 私は、名刺に記された名前を口の中で「足立さん」と確認するように唱えてから、顔を上げた。

「アロマテラピーのアドバイザーもされてるんですね。いい香りがすると思いました」

 足立さんというその男性は、袖をまくった薄手のジャケットに白い清潔なシャツという、爽やかな格好をしている。ほんのりと、まるで初夏の庭にいるかのような香りがした。若々しい緑の木々に、まぶしい黄色の果実……

「いや、やはり今日は第一印象を良くしなくてはと思って」

 足立さんはちょっと照れ笑いをして母を見ると、私に視線を戻して姿勢を正した。

「突然、お母さんとお付き合いさせて頂きたいと言っても、知らない男なのに泪さんも困るでしょうから……良かったら今度、僕のアロマテラピーの講習会に来てみて下さい」

 うむ。今のところ、とてもいい感じの人だ。変に私に媚びることもないし、自分を知ってもらおうという誠実な強さを感じる。

 私はうなずいた。

「はい。ぜひ」

 母が安心したように、胸に手をやった。


 ……実は、もう行ったんだけどね、講習会。様子を見に。

 ちょっと後ろめたく思いながら、私は名刺をテーブルに置いた。


 母は純真でお人好しな上に、トラブルを引き寄せやすい。そもそもうちの店が貧乏なのも、母の前の彼氏が売り上げを持ち逃げしたからで……あー、思い出しただけで腹が立つ! 店が潰れないよう、改装してメイドの格好して、軌道に乗るまでこっちは必死だったんだから!

 まあそんなわけで数週間前、母に新しい恋人ができたと知った私は、母が深みにはまる前に相手を値踏みしようと思いたった。そして、足立さんが勤めている会社が主催するアロマテラピー講習会に、メガネと濃いめの化粧で変装してもぐりこんだのだ。


 足立さんの講習会は、とても面白かった。

 匂い、というものは五感の中で最も鮮明に記憶を呼び覚ますものだという話から始まって、簡単な香水の歴史や現在における使われ方、そして自分で好きな香りの入浴剤を作る体験まで。説明もわかりやすいし親しみやすくて、講習会の後もたくさんの人が質問してたっけ。

 市販の入浴剤やハーブティにも、今は色々な香りがある。自分に必要な香りが一番、心地いいと感じるように身体がなっているそうなので、講習会以来ちょっと気にして選ぶようになったものだ。


 ――今度こそ、母がいい人を見つけて幸せになるなら、娘としても嬉しい。もちろん仕事とプライベートは別だから、プライベートの足立さんはどんな人なのか確かめなくちゃいけないけど。


「泪、足立さん夕食まだなんだけど、お出ししていい?」

 母に聞かれて「もちろん」と答えると、母はいそいそと立ち上がってカウンターの内側に入って行った。お店のキッシュとスープが残ってるはずだから、温めにいったんだろう。

「お店の中、いい匂いですね。……グルマンノート、ってご存知ですか?」

 不意に店の名前が出て、私はびっくりして首を振った。

「いいえ」

「香水の世界で、お菓子みたいな甘い香りのことを言うんです。チョコレートとか、バニラとか」

 足立さんは楽しそうに説明してくれる。本当に、お仕事が大好き、といった感じだ。

「今日はこんな時間まで、お仕事だったんですか?」

 話を振ると、足立さんは「そうなんです」とうなずいてから、ふと足元の荷物入れ用の籠から鞄を持ち上げた。

「泪さんはどんな香りが好きですか? 参考までにお聞きしてみたいな」

 講習会で使っていた、小さな青いボトルが、いくつかテーブルに並べられる。手の中に納まるくらいの、小さなボトルだ。

 エッセンシャルオイル――精油。植物に含まれている、香りの元になる物質を取り出したものだ。光に弱いから、こういう色付きの瓶で保管するんだよね。

 足立さんは、ごく細い紙の短冊のようなものも出した。

「これにオイルを垂らして、試してみて下さい。ムエットという試験紙です」

 ええはい、講習会でやったから知っております。

 そうは言えず、私は話を合わせて言われた通りにした。

 あ、これ……脳内に紫の可憐な花が揺れる。

「ラベンダーですよね」

「はい。ラベンダーって、とても有名な香りなんですけど、そのままだとあまり人気ないんですよね。他の香りとブレンドした方が好まれるようです。これとか」

「あっ、オレンジ! すごく合いますね、気取らない感じだし、甘すぎないし。こっちは……うーん、何だか、お香っぽい」

「フランキンセンスですね」

「知らないなぁ」

「ええと、乳香って言ったらわかりますか?」

「あー、聞いたことあります!」


 元々、アロマオイルとか香水に興味がなかったわけではない。お店でテスターの香水をつけてみることはよくある。

 女子力を上げたい、なんて思いつつも、一生懸命になって自分をガラリと変えたい訳じゃない――そんな私みたいなタイプには、シュッとひと吹きで女子力が上がったような気分になれる香水は、すごくいいなと思う。


「足立さんは、どうして香りに興味を持ったんですか?」

 私は聞いてみた。すると、足立さんはあごに手を当てる。

「自分でも不思議なんですよね。子どもの頃からとにかく、手あたり次第に色々なものの匂いを嗅ぐのが好きだったんです」

「ええ? なんか面白い」

 匂いフェチ? とか思っているうちに、足立さんは続けた。

「そんなことをしてるうちに、匂いを細かく嗅ぎ分けられるようになったので、こういう仕事もいいかもなと。作りたい香りもあったし」

「理想の香り作り、ですか」

「理想というか……」

 足立さんは、真剣な顔をしている。

「……使命感、みたいなものですかね。こういう香りを作らなきゃ、という気持ちがいつもどこかにあって。たぶん、いつかどこかで嗅いだんでしょうけれど」

「匂いって、記憶に残りますもんね」

「そう、そうなんです」

 深く同意されて、私はまたまた後ろめたくなる。匂いが記憶に残るという話は、当の足立さんから講習会の時に聞いたものだからだ。


「実は、数年前にその香りを作ることに成功したんです。これなんですけどね」

 足立さんはもう一度鞄を開け、中から茶色の瓶を取り出した。

「何の香りなのか僕も知りたくて、会う人会う人に試してもらってるんですよ」

「私も試したんだけど、わからないのよねぇ」

 母が、トレイにキッシュとスープの器を載せてカウンターから出てくる。

「ちょっと泪も試してよ」

「うん、いいけど」

 私は足立さんから瓶を受け取った。


 キャップをひねって開け、いきなり吸い込まないようにちょっと顔から離して持ち、手で仰ぐようにする。

 香りが、ふわりと私の鼻に届いた。

「……甘い香り……爽やかなんだけど、ちょっと癖があるような、忘れられないような」

 感じたまま言いながら、私はもう少し瓶を顔に近づけた。

「いい香りの煙草っぽい? 土臭い感じもします。それに何か、森の……」


 不意に、背中がぞわっ、とした。

 なんだか、怖い。香りの向こうに、今見えている景色と違うものが見えそうな気がする。

 古代、香水は宗教儀式にも使われたっていうけど……まさか、幻覚作用?


 カンッ、と音を立てて瓶を置くと、母と足立さんが驚いたように私を見た。

「泪?」

「泪さん?」

「ちょ、ちょっと私、外の空気を」

 私は、店の出入り口の方へ行こうとして立ち上がった。


 くらり、と目眩。


 そのとたん、手が、テーブルに置かれていたペッパーミルにぶつかって――

「あっ」

 テーブルからペッパーミルが落ちていくのが、スローモーションで見えた。


 とっさにそれを拾おうとして、手を伸ばしたところまでは、覚えている。

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