八、虎穴
「それにしても、風帝はどうやって雷国まで来ているのでしょうか」
晶凛は素朴な疑問を口にした。雷帝の整体が終わったところだった。
雷国と風国の間には山脈があり、大人の足では三日三晩かかる。蛇行した道や山の傾斜は、国の行き来を困難にしていた。
「それはだな……」
雷帝は少し考えた後、「よし、ついてこい」と言って歩き出す。
小走りで後ろをついていくと、雷帝の得意げな横顔が見えた。
宮廷の裏庭に出ると削り取られたような山の斜面が広がっていた。下の方には大人が一人通れるくらいの穴があった。
「洞窟がどうしたのですか?」
雷帝が立ち止まったのを見て話しかけた。
「そこまで入ってみろ」
「ちょっと待ってください。さっきの風帝の話と関係していますか?」
冷気が洞窟内から吹きつけてきて、晶凛は身震いする。低音の風のうなり声が聞こえてきた。
「関係している。何かあったら助けてやるから心配するな」
「そこまで言うなら入りますけれど……」
晶凛は恐る恐る洞窟の中へ足を踏み入れる。風のうなり声が大きくなっていった。
「きゃああああ!」
晶凛は後ろに尻餅をついて、足をばたつかせた。
目の前には威嚇する虎がいた。番人のように、先へ進む者の侵入を拒んでいる。
「何か……いますよ……!」
雷帝は晶凛の反応を見て、笑いを抑えているようだった。
「笑ってないで助けてくださいよ!」
「――怯えなくて良い。絵だから」
「絵?」
冷静になって虎を見ると、岩肌の形を利用して顔料が塗られていた。筆の擦れ具合が、虎の憤怒の表情を捉えている。
「百理の名作、『虎穴』だ」
百理の名前は、庶民の間でも知り渡っていた。
「百年に一度の奇才と呼ばれている、あの百理ですね。この目で作品を見れるなんて……」
動いて見えたのは立体感と迫力があったからだ。
感心したように作品を眺めていたが、顔だけ雷帝の方に振り返る。
「もしかして。私で遊びましたね?」
「いや、反応が可愛かったもんで……」
晶凛は恨みがましい目をした。
「冗談はさておいて。この洞窟が風国に通じている」
「そうなのですか?」
「そうだ。山を越えるのに三日三晩かかっていたのが、この洞窟を使うと半日に短縮できる」
「便利な道ですね。……でも、国の機密事項じゃないですか。私に言ってもいいのですか?」
「大丈夫だ。誰も使うはずがない」
雷帝は悲しげに微笑む。
「雷国と風国は大きな溝がある。敵対しているのではなく、それぞれ自分たち以外の文化しか認めていない」
雷国の民は風国のことを「お高くとまった民族」だと考えていて、風国の民は雷国のことを「野蛮な民族」と考えがちだった。
「……多種多様な人を認めることができるならば国同士は変わるだろうな」
皇帝らしい真剣な眼差しだった。いつも冗談を言っている雷帝からは想像できないような重い言葉だった。
「雷帝が言うには、風国との国交がなくなったのは、お互いを認めていないからということなんですね」
雷帝の言葉を噛み締めるように繰り返す。
「そうだ。拒絶するのではなく、いいところを取り入れることだ。これは身近な人間関係でも言えることだが、相手を認めることから真の繋がりが生まれるのではないかと思う」
晶凛は雷帝を少し見直した。
「そっかぁ……」
ため息のような声が漏れた。身近なようで国全体のことだと考えると壮大な話だった。
「そういえば」と言って雷帝は振り返る。
「俺の専属の整体師にならないか?」
「お断りします。他にも待っているお客様がいますので」
不意討ちを狙って勧誘するが、晶凛はサラリとかわした。
「晶凛らしいな」
クックと笑って言葉を締めくくった。