空の戦い
コトヨイには初め、それがなんだかわからなかった。巨大な塊が彼女の脇を上から下へかすめて、乱気流を作ったためににわかにバランスを崩しかけ、杖にしがみつく。
「ハロゥ」
"塊"はその後、翼をはためかせながら再び上昇をし、コトヨイと並んだ。
「だれ!?」
「『弓槻』航空隊のレグスタってモンだ」
「あの船の?」
「おうよ。時間外労働させやがって」
少女の顔が青ざめる。先ほどの男の言っていたエースパイロットとは彼に間違いない。
「逃がしてよ……」
搾り出すように言うコトヨイ。
「そういうわけにはいかねえよ。任務だしな」
「……」
なんなのだ。さっきから任務だとか筋だとか……。人の命はそんな約束事よりも軽いものなのか。
コトヨイは無言で身体を傾け杖の先を斜め下に向けた。自然彼女は右下方に旋回することになる。
「おい、待てよ」
すかさずそれを追う『飛竜』。月の光は弱く、ヘタに動かれると見失いそうだ。
「おとなしくしねえと噛み付くぞ」
構いなしに逃げるコトヨイ。追うレグスタ。漆黒の闇の中を一陣の風となった二人が通り過ぎる。ぐんぐんと速度を増し、右へ左へと急旋回で振り切ろうとするコトヨイに吸い付くように、レグスタが風を切った。追いつかれたら捕食されそうな威圧感。
(怖い……!)
彼の反応は鋭く、また正確であり、どのように逃げても背中に覆いかぶさってくるようなプレッシャーが彼女を脅かしている。
だからといってがむしゃらに旋回するわけにもいかなかった。
コンパスも目印になる灯台もない大海原なのだ。ヘタに逃げ切ってもその向こうに陸地があってくれるとは限らない。
一方、背中を追うレグスタも見た目ほどの余裕はなかった。
(やけに小回りが利きやがる……)
コトヨイ自身気づいていないが、旋回性が圧倒的に杖での飛行のほうが高い。目標は小さいし、そもそも見たこともない杖の飛行が、思いもかけない挙動を時々見せて彼を何度も驚かせている。
何とかついていってはいるが、それは彼女の『逃げる』ということに関しての技術のなさと、レグスタ自身の経験と勘のよさに支えられていた。
要するに手ごわい。というか未知な要素が多かった。
(もし……)
彼女にもし本気で反撃する気があるのならどうなるのか。……レグスタは微笑う。
「お姫様よ。反撃してみろよ! もしお前が俺に一撃見舞えたら、ここは見逃してやる!」
自分の声で高揚感を覚えたこの一番騎手は、操縦管を握りなおした。彼にとってはこの任務に退屈しないためのゲームであった。
もちろんコトヨイにしてみれば、ここをゲームと楽しむ余裕などはない。何を言われたかもにわかに理解できないまま、しばらく血が逆流してしまいそうな急旋回を繰り返していたが、ふと、先ほどの言葉が脳に溶け込んで、一瞬彼の方向を見た。
「ホント……!?」
「やれるもんならな」
不敵に笑うレグスタ。『飛竜』一番騎として小娘に遅れをとるわけにはいかないという、負けず嫌いの表情だ。
コトヨイは超高速の気流の中、さらに少し考えて突如急上昇を始めた。どうせこのままでは噛み付かれる。どの道逃げ切ることはできないのなら、万に一つの可能性に賭けるしかない。
……このような空中戦はコトヨイの経験にあろうはずもなかったが、覚悟を決めた彼女の上昇であった。
「光よ!」
杖先端の宝玉が光り、暗い夜空に打ち出されたそれが照明弾のように辺りを明るく照らし出す。これで背中に張り付いた竜を見失うことはあるまい。
「へぇ……」
便利なもんだ。レグスタが感心する。
前にも言ったとおり魔術が使える者とそうでない者の軋轢はこの世界では古来からの歴史であるが、わからなくもない。光も動力も、魔術が使えない者にとっては苦心の塊なのだ。それをこうも簡単に発生されてしまっては、魔法を使えない者からすれば不公平を感じずにはいられないだろう。
もっとも、レグスタの心はもっと子供であった。彼女が次々と見せてくれる魔術に無邪気に驚き、『飛竜』を相手にどう立ち回るのか、そればかりが楽しみに、鮮明になった女の背中を追っていた。
しきりに感心しているレグスタを尻目に、一転捻りこんでぐるりと円の旋回を始めるコトヨイ。攻撃をするならまず、杖の先が竜のほうへ向かなければならない。つまり、追われている形をまず何とかしなければならなかった。一際多く流れ出る蒼い魔力痕が美しい。
レグスタはその、先ほどとは違う旋回に深追いすることを早々に諦めた。旋回性は相手がはるかに勝っているのだ。それはつまり一回転するための最小半径が『飛竜』の方がはるかに大きいということであり、そんな旋回競争に付き合えば、逆に背中を取られてしまう。
彼は速度を上げ、『飛竜』の手綱を強く引いて上昇をした。速度は『飛竜』が上である。旋回途中の彼女から一気に距離を離した形だ。
そして宙返りの要領で下を向き、コトヨイを直下に捉えた。彼女の発した魔術の光に照らされて、長い藍色の髪がさらに鮮明に見える。レグスタは思わず生唾を飲み込んでしまった。
(女ってだけでいいなぁ)
彼に限らず、長い航海中、船員たちはまったく女っ気のない生活を強いられる。すると髪の毛が長くたなびいているだけなのに、その姿が神々しく見えてしまうらしい。
その"女神"の顔がこちらに向き、一瞬目が合った。顔は整っていて、あどけないながらも美しく見えたが、振り返った意味を知ったレグスタは顔をしかめる。
(しまった……!)
彼女はこちらを振り返っただけではない。コトヨイの杖先は角度を変えて、降下を始めた彼と入れ違いに急角度の上昇をしていたのだ。長い髪に見とれた分だけ気づくのが遅れ、その一瞬で互いは交差し態が入れ替わった。そうなると旋回性の悪い『飛竜』は分が悪い。
レグスタが気を取られたのはほんの一瞬だったが、なにせ超高速下のやりとりの中。刹那の遅れは数十メートルの開きとなって現れる。
小回りを利かせて翻るコトヨイ。下降するレグスタはその速度と『飛竜』の重さでまだ再上昇ができない。
(やられた!)
一転追う形になった杖の先端が鮮やかに光る。それは青白い魔力球となって『飛竜』の背中に襲い掛かった。
(ちぃ!!)
横向きに一回転するようなローリングでそれを辛くも切り抜けて、なお下降する『飛竜』。いつの間にか下には海面が迫り、腹をかすめて潮を巻き上げた。
続いてそれを追いかけるコトヨイの身体が海面すれすれを飛ぶ。彼女の作る気流が水面を揺らして白い帯をつくり、まるで『飛竜』を追う雷跡のように見えた。そして撃ち出される二発目の魔力球。
(コイツ……!)
レグスタがうなる。まるで憑かれたような化け方だ。先ほど併走した時に震えていた女とは思えない。彼女にしてみればただただ一生懸命なのかもしれないが、多少のミスでここまで鮮やかに張り付かれた事を考えれば、彼女の飛行センスは並ではない。
(しかし若えな)
素直すぎる。
彼はこの一撃を、騎体を右へ滑らせることによって回避すると、さらに追われた三撃目で強く手綱を引いた。彼女が攻撃により飛行方向を固定する一瞬を狙ったものだ。『飛竜』の首が再び上空へと向く。
魔女の一撃は翼をかすめて通り過ぎ、同時に竜はその翼を大きくはためかせた。