漆黒の空へ
船が波をかき分ける音。コトヨイの耳にまず飛び込んできたのはそれで、空に二つの月が浮かんでいる姿が目に映った。『弓槻』は蒸気タービン船だから、その音が気にならないわけはなかったが、彼女の意識には、久しぶりに吸った外気の美しさしかない。
陸はどっちか。……彼女はこの真っ黒な海で右へ左へと目をくばす。当然見えるはずもないのだが、思えばこの船は港へと向かっているのだから、船の進むほうに陸があるはずだった。
しかし、船首方向、少し離れて、一人の男がたたずんでいる。ひげを生やした初老の男で、夜目にも分かるほどの眼光の強さがあった。
「なによ……」
無視すればよかった。わざわざそちらに向けて飛ばなくても、後で迂回すればよかったのだから。
なのに無視ができない。不思議な重さが、その男にはある。
「『弓槻』船長のエルファンスだ」
「船長……」
長身で細い。暗がりで顔はよく分からないが、頭のキレそうな雰囲気だけは今の一言だけで伝わってきた。
「事を荒立てたくない。早く自分の部屋に戻りなさい」
「やだ! お願いだから見逃してください!」
「悪いがそういうわけにはいかんのだよ」
契約と信用というものがある。それがたとえ生身の人間であれ、契約書の通りに物品を輸送するのが輸送戦艦の仕事なのだ。
……エルファンスがそのようなことを言えば、コトヨイの眉間が澱む。
「あたしが……あの国に引き渡されたらどうなるか分かってるんですか……?」
声は震えていた。
「魔女裁判というまやかしの裁判を受けて、そのまま火あぶりにされます」
コトヨイは言いながら、なぜ彼に脱出の許可を得ようとしてるのか分からなかった。分からないまま、彼女は男を真正面に見据えて、思いのたけをぶっている。
「あたし! なにも悪いことしてないのに!!」
誰かに分かってもらいたい。誰かに、「君が正しい」と言ってもらいたい……そういう気持ちが、この包容力のありそうな男に対して働いたのかもしれない。
「いえ、魔女であることが悪いんでしょうね。でもそんなのおかしくないですか!? あたしの知らないうちに知らない場所で決められたルールで、なんであたしが殺されなきゃいけないんですか!!」
コトヨイはよたよたとエルファンスのほうへ……そしてすがりつく。
「お願い……助けて……」
先ほど、この船が自分を受け渡さなければ重大な危機を迎えるだろうと、コトヨイ自身が思ったことは述べた。なのにすがりついたのはなぜだろう。
……一方で、弱々しく揺れる肩を見下ろすエルファンスの眼差しも、決して乾いたものではない。
常識や正義というものは時に厄介なものだ。その、見た目だけは清々しい言葉の羅列が時に人を殺す。
ルールとは誰のためにあるのか。何のために存在するのか。
……エルファンスもそう思うことは少なくない。
エルファンスは自分の娘ほどの少女を胸に擁しながら、ふとその後ろに目をやった。
「助けてやりましょうよ。船長」
クルップだ。
もうすっかり急所蹴りの痛みから抜け出しているようで、芯のある物言いをしている。
「おめおめ引き渡して、その子が足からバーベキューになってくのを見ちまったら、寝覚めわりいって」
エルファンスはそんなクルップをじっと見つめていた。数いる船員から彼を娘の世話役に命じたのは、こういう一面があったからだ。この男なら"荷物"を汚さずに世話するだろう。そして案の定、二人は男と女の関係にはなっていない。
「クルップ。お前に聞きたい」
「へい?」
「この船に何人乗っているか知っているか?」
「へぇ、千四百名ほどかと」
「千四百二十三名だ」
「へぃ」
「その千四百二十三名が職を失うことについてはどう思う?」
「へぃ、それは困ります」
「この娘を引き渡さないというのは、そういうことだ。俺は船長だ。そういう決断はできんよ」
すがりついていたコトヨイが、ばっとエルファンスから離れ後ずさる。船長はその娘を声だけで追いかけた。
「お嬢さん。あなたには同情する。だが我らにも通さなければならない筋がある」
コトヨイは唇をかみ締めた。なぜすがった。この男は敵だ!
杖が脈動する。龍毛が揺らめき、飛翔のための風を纏う中でエルファンスは言った。
「無駄だ。あなたがここから強制的に脱出を試みた時、『飛竜』の一番騎手が飛ぶ手はずになっている」
『飛竜』とはこの船の後部甲板に格納されている機械式の飛行器具のことだ。地球での区別を言えば『飛行機』で間違いないのだが、その形はまさに竜であり、翼をはためかせながら自在に飛び回るその姿は飛行機のそれとは乖離している。ちなみに性質としては飛行機よりもヘリに近いか。
「船長、それでも俺は……」
「クルップ、何も言わないでいい。あたしが勝手に逃げるだけだから」
コトヨイは、そういうことにしたい。この、クモの糸をたらしてくれた男が自分をかばえばかばうほど、彼は立場を危うくしてしまう。
自分が死ぬのも嫌だが、自分のせいで人が死ぬのも絶対に嫌だった。
龍毛から噴出する蒼色の魔力痕。彼女の身体が一瞬にして潮風に乗り、艦橋よりも高く浮かび上がった。
エルファンスはその離船を、ただただ眺めている。
マストをかすめて飛翔したコトヨイのホウキ杖が『弓槻』を一気に追い越して、海原の広がる漆黒の空へと消えた。
「やれやれ、仕事か」
後艦橋よりさらに後部に、だだっ広いフラットデッキがある。
『弓槻』の艦載騎『飛竜』が離発着を行うための場所、いわゆる飛行甲板なのだが、エルファンスと同様、コトヨイが闇夜へ消える様をハッキリと目で追った男がいた。
『弓槻』の一番騎手、レグスタである。赤い髪を鬣のように流している、ライオンのような雰囲気を持った男だ。飛ぶのが好きなこの男はまったく「やれやれ」な気分ではないのだが、大変ぶるのが癖だった。
機械竜の複雑なエンジン始動を馴れた手つきで行えば、鋼の翼はそれとは思えないほどに滑らかにはためいて、騎体を甲板から浮き上がらせる。
その背中で手綱のような操縦桿を握るレグスタは、一度その場で旋回上昇をして高度をとった。その様があまりに優雅で、精一杯の脱出を試みてるコトヨイに追いつけるのかと思うが、竜は次の刹那、恐ろしいほどの加速を見せて船の視界から消えた。
夜の空を飛ぶと本当に何も見えない。
向かって吹きつける風がなければ前に進んでいるかも怪しい無限の闇……。積み重なる不安とともに、その闇に押し潰されるのではないかとすら思いながら飛ぶ一人の少女。
これからどうしよう。……無駄と知りつつエルファンスにすがったのは、そういった理由もある。
逃げればどうにかなるわけではないのだ。生きている以上おなかがすく。いつ、どこから現れるかもわからない追っ手から逃げ続けなければならない。それがいつまで続くのか分からない。
先ほど上甲板に出て、改めてあの船の大きさを知った。この中なら。この中で生きていけたなら……。
しかし望みは絶たれた。飛ぶしかない。一人で。独りで……。
まだ二十歳にも満たない少女である。成熟しきっていない脳によぎる未来はこの夜の空そのものだ。このまま、街の明かりが見えても希望はない。どうしたらいい……?
……そんな彼女の後方から、聞きなれない羽音が聞こえてきた。
(なに?)
振り返っても虚空が広がるのみ。ホウキと称される龍毛からは青い星のような魔力のくずが二、三メートルほど帯を描いて消えていく。それしか見えない。
一方、騎手レグスタ側は、その光が彼女の発見を容易にしていた。
「あーめんどくせ」
彼女が振り返っても気づかないはずだ。彼は直上にいた。百メートルほど高度をずらして追いついたレグスタ騎は、滑空して音を最小限にし、思案している。……どうやら速度はこの機械竜のほうが速いらしいが、さてどうするか。
「とりあえず声かけてみるか」
『飛竜』の手綱を斜め下に引く一番騎手。長い髪をたなびかせて飛ぶ彼女と併走するらしい