逃走
湯で身体を拭く少女の目に力が戻ってきた。
一縷……自分の未来に細い光の糸がもたらされたのだ。今はそれを信じるしかない。
死のうと思った。引き渡されて辱めを受けて殺されるのなら、水は恰好の逃げ道となろう。
しかし、あの男から垂らされた糸が一瞬光り輝いて、彼女を思いとどまらせた。
……罠かもしれない。
ふとそう思い、身体を洗う手が止まる。話ができすぎているじゃないか。
それでも彼女は再び動き出した。罠でも……希望の見える未来のほうがいい。
二リットルという湯の量は予想以上に少なく、渡された石鹸の泡が落ちきったかも心もとないのだが、彼女は今、それを気にする余裕もなく白い袖に手を通した。
浴室の扉を開ける。そこにはあの男が、特徴的な杖を持って立っていた。
先端に雫のような形に削りだされた藍晶石が埋め込まれており、棒部分の凝った彫刻を経て、末端には五十センチはある毛の束が放射線状に広がっている。
龍毛と呼ばれる魔力の増幅器なのだが、その効用を知らない者にとっては、
「杖ってーかホウキだな……」
ホウキにしか見えない。
彼女はその冗談じみた言葉を無言で受け止めると、彼を見上げた。少女の期待が痛いほど伝わってきて、彼もまた無口になる。
明らかにこの船の業務に対する……というか、すべての信用に対する裏切り行為だ。彼女を逃がしたことが彼の故意によるものだとわかれば、少なくとも以後この船に揺られて旅をすることはかなうまい。
表情を硬くしながら彼女の手を引くように歩くクルップ。娘はそんな彼の横顔をちらちらと映しながら小走りについていく。
娘も娘で、似たようなことを考えていた。これが罠でないのなら自分を逃がした罪は重いはずだ。
なぜなら、自分は魔女なのだから……。
冒頭で、世界の秩序はまだ十分に確立されていないと描いた。しかし一つだけ、ほぼ世界全土に浸透した考え方がある。
……魔女は忌むべき存在である、ということだ。
三万人に一人……といわれる"魔術"の才能は要するに人間の突然変異であり、素質のない者にとっては得体が知れない。
彼らは"魔女"(メシフィスト)と呼ばれ、古来から敬遠される存在であった。
そもそも得体の知れない存在を受け入れがたいのが人間だ。魔女を忌むべき存在とし、得体の知れないことをする前に排除してしまおうという動きは古来からあり、各地で"魔女狩り"という名の殺戮が行われてきた。
数十年前、その少数派が生存権を賭けて団結し、戦争を起こしたことがある。名を魔人戦争といい、『魔軍』と呼ばれた彼らは始めこそ善戦したが、なにせ三万人に一人の人間たちの集まりである。数の差から、やがて大反攻に合い、彼らは各地の英雄たちによって"討伐"された。
その後魔女に対する迫害はさらに酷いものとなり、「魔女も人間には変わりがないのだから」という穏健派を抑えて、徹底的な追及が常となっている。
なお、魔女でない一般的な人間を平人という。
輸送戦艦『弓槻』が明日碇を下ろすパーキンスという国は、先の戦争を戦い抜いた英雄の一人、ザイアスが国主であることもあり、その政策の急先鋒となっていた。
つまり、彼女を逃がせば船の責任は重い。ましてや船員の一人が逃がしたとなれば、追求される過程で彼が無事でいられるはずがない。
(この人が殺されてしまう……)
このままいけば、助かるのは自分の命か彼の命か……ということになる。
……彼女はたった数分の間で、命の重さを天秤にかけなければならなかった。
急階段が見える。
「あの上……?」
少女の問いにクルップはうなずき「後艦橋付近に出る。この時間なら人もいないだろう」と付け添えた。
「そう……」
そっけなく答えて男の前に躍り出る。長い髪は二リットルの湯ではどうにもならず、身体を拭く際に濡れてしまった部分がじっとりと重い。もともと愛嬌のある顔だが、どうしても素敵な自分で対面することができないことを残念に思えた。
「あたし、コトヨイ」
「お、おう」
今まで何度聞いても答えなかった名を、不意に名乗られて動揺するクルップ。
「これ、プレゼント」
ふわりと彼の首に手を回し、身体を一度だけ摺り寄せた。
「お礼を言っておくね。ありがとう。こんなお礼でごめんね」
一気にまくし立て、もう一度彼の全身が見える場所まで戻る。
「そして…………ごめんね!!」
ここまでを一呼吸で行いたかったかのように迅速に、そして鋭く彼女は彼の股間を蹴り上げた。
「あぐぅ!!」
予想だにしてなかった"攻撃"に、クルップは悶絶してその場にうずくまる。それを見下ろすコトヨイは心底すまなそうな顔をして、
「凶悪な魔女はあなたを超強力な魔術でぶっ飛ばして、無理やり逃げたんだからね。みんなにはそう伝えてね! ばいばい!」
そして船の揺れによたよたとよろめきながら一生懸命走り出す。いや、揺れではなく長い間拘束されていたことの衰えかもしれなかった。
(誰かに見つかったら捕まる……)
危機感を募らせたコトヨイの右手に異質な力がこもる。それは先ほどホウキと称された杖に伝わり、手ごたえが脈動となって彼女の肩を揺れ動かした。
そして自走を始めるその杖に彼女は飛び乗って、狭い通路を這うように飛翔する彼女の視線の先には急階段がある。
急階段を昇る……というよりは上昇したコトヨイの頭上を通用蓋が塞いでいる。船が戦闘時や高波時に浸水してもそれが中甲板以下に流れ込まないように、そこかしこに蓋ができる仕組みになっているわけだが、彼女がこれを開けてその上に這い上がると、そこは部屋になっていた。
先ほどクルップが述べた通りならば、後艦橋付近の一部分である。艦橋とはいわゆる船に乗っかっている建物で、見張りや指揮を行うために塔のようにそびえている上部構造であり、最前部にある二つの三十六センチ連装砲塔の後ろに前艦橋、そこから煙突とマストを越えてさらに二つの砲塔があり、その後ろに前艦橋の半分ほどの高さの後艦橋がある。その部分に付随した一室であった。
「うお!?」
男の声がした。突如顔を出した女に驚いて椅子から立ち上がり、
「ほんとにきやがった」
と呟く。少女は顔をしかめた。つまり彼女の行動は予想されていたということだ。部屋の外にはもっと多くの男がいるかもしれない。
しかし、もはや後には引けない。
「どいて!!」
彼女の杖に再び力が宿る。先端の魔法石が男に向ければ、ハンドボールほどの大きさの青白い光の玉が虚空を迅った。
「うわ!」と声を上げながらそれを避ける男。女はその隙に駆け出すが、夜空の見える扉を開けたその一瞬の停止で追いつかれてしまう。
「離して!!」
腕をつかまれれば、もがいたくらいではびくともしない男女の力の差があった。
「逃がさねえよ」
だがコトヨイの幸運、この男の不運は、自由になっているほうの腕に彼女の杖があったことか。
彼女がもがきながら、杖の先端を男のわき腹に当てた。と、再び煌く魔法石。
「ぐわぁ!!」
避けようのない一撃に男はくの字になって吹っ飛び、船室の壁に背中を打ちつけてうめく。
その時すでに女の姿はこの部屋にはない。