スーザの兄
スーザは畑の端に沿ってエグラを歩かせながら説明した。
「この農園は全て帝国の国営農場です。ここで取れたファイファはとても良質で様々な用途に使われ、国外にも輸出されます。ここの糸で作った布には全て我が帝国の紋章が入っているんですよ」
「ふうん。綿栽培がどれだけの売り上げを産むのか分からないけど、収益性は高かったはずだわ。年ごとの豊凶の差はどうなの?」
「さあ、詳しい事は分かりませんが、不作だったという噂はあまり聞かないですね」
「そう。あっ、ちょっと止めて」
さあやはエグラを降りると、休憩を取っている農民の所へ歩いて行った。彼女は2,3言葉を交わしただけで、彼らと親しくなったようだ。食べていたおやつを分けてもらいながら話しこんでいる。スーザはエグラを連れているので、少し離れたところからその様子を不思議そうに見つめていた。10分ほど話した後、さあやは綿のついた枝をもらって帰ってきた。
「うふ。皇帝の友達だって言ったらくれたの。もこもこしてかわいいでしょ?」
「良かったですね」
子供のように喜んでいるさあやを見てスーザは微笑んだ。
この綿農園以外にも、あと2か所ほど農園があるそうだが、そろそろ日も傾く時間だし、先ほど強盗に襲われた一件もあるので、彼等はエグラに乗って城へと帰り始めた。
「国営としては、城の庭に薬草園もあります」
「薬草?」
「はい。陛下の亡くなられたお母上、つまり前皇妃さまが作られたもので、この国でしか取れない珍しい薬草もあるんですよ。でもそこには許可を得た一部の者しか入ることが出来ないんです」
「ふうん」
ちょっと興味はあったが、入れないのなら仕方がない。彼等は休憩を取らずに走り続け、日が落ちる頃、エグラ達の長屋に戻って来た。
「お疲れ様でした、サアヤさん。お尻が痛くなったんじゃありませんか?」
鞍からさあやを降ろしながらスーザが言った。
「う、うん。少し。でもエグラの方が疲れたわよね」
さあやは少し恥ずかしそうにうなずくと、鞍についた袋からマカラを取り出してエグラの顔の前に差し出した。
「はい。今日一日ご苦労様」
足元に置かれたマカラを美味しそうに平らげたエグラを厩舎へ戻した彼等は、今日の出来事を楽しそうに会話しながら外に出てきた。
「さっそく街で大暴れしたんだって?ルーキーさん」
通りがかった木の上から降ってきた声に顔を上げると、黒髪に短い顎ひげをはやした男が、木の枝の上で幹にもたれながらさあや達を見下ろしていた。彼は一般の兵が着る紺色の隊服を着ていたが、随分と着崩していてブラウスの下から胸がはだけて見えていた。
男はひらりとさあやの前に飛び降りると、顎の短いひげを触りながら顔を近づけた。
「へええ。皇帝が異国から客人を呼んだって言うからどんな女か見に来たら、結構いい女じゃねーか。どうだ、サアヤ。今夜一晩俺と・・・」
さあやが身を引く前に男の手が肩に回って抱き寄せられ、さあやは声も出せずに男の顔を見つめた。
「兄上」
怒った顔でスーザがさあやと男の間に割り込んだ。その言葉で彼がさっき街でスーザが言っていた彼の2番目の兄、キートレイなのだと分かった。
「サアヤさんに失礼ですよ。この方は皇帝陛下の大切なお客人です」
弟の態度から何かを察したのか、キートレイは背中を向けると右手を振った。
「じゃあな。又会おうぜ、サアヤ」
ーまったく、何なのよ。あのセクハラ男はぁぁー
キートレイの後ろ姿を見ながら、さあやは思いっきり毒づいてやりたかったが、スーザが申し訳なさそうな顔をしているので、怒りを収める事にした。
「兄が失礼しました、サアヤさん。キートレイはちょっと、奔放なところがあって・・・」
「い、いいのよ。スーザのお兄さんだもんね。そんなに悪い人じゃないと思うわ」
その後、スーザに部屋まで送ってもらったさあやは着ていた上着を脱いで、今日買ったものの中から豆を取り出した。
「さあ。これを今日のうちに水につけておかなきゃ」
食堂にボウルを借りに行くと、アルバドラスがちゃんとさあやの事を客人と伝えてくれていたらしく、食事を取っていた兵達が皆立ち上がって敬礼をした。さあやは彼らに遠慮なく食事をしてくれるように言うと、調理室に入って行った。ここでも料理人たちが驚いたように頭を下げたので、さあやは「気をつかわないで」と言うと、ボウルを貸してくれるように頼んだ。
木製の大小さまざまなボウルの中から適当な大きさのものを選んでそれに水を入れ、持ってきた豆を全てその中に入れた。それを部屋に持って帰って来てテーブルに置くと、中を覗きこんだ。大豆と形が似た豆を選んだが、形が似ているからと言って成分も似ているとは限らないだろう。
「うまくふやけてくれるかなぁ」
さあやが呟いたときドアをノックする音が聞こえたので開けてみると、5人の女官が立っていた。
「サアヤさま。湯あみの準備が出来ております」
先頭の着替えを持った女性がそう言うのを聞いて思いだした。出掛ける時、サーズにお風呂に入りたいと伝えておいたのだ。
ー やった。お風呂! -
心を躍らせながら女官たちと歩いていたさあやだったが、ふと思うところがあって立ち止まった。
「ねえ、どうして5人も居るの?」
女官たちはにっこり笑って答えた。
「私はこの湯着をお着せいたします」
「私はお手を」
「私はおみ足を」
「私はお背中をお流しいたします」
「そして最後に私はお体を拭かせていただきますわ」
さあやは思わず顔をひきつらせた。そして懸命に風呂は一人で入る主義だと説明し、「それでは私達の仕事が・・・」と取り乱す彼女達を何とか湯あみ場の入口で見張りをしてもらう事で納得してもらった。だがどうしても一人は中に入ってお世話をすると言うので、必要な時は声を掛けるからそれまでは何もせずじっとしているという条件で話はまとまった。
山の一部をくりぬいた洞窟の中を歩いて行くと、天井が高くなり、広い洞窟風呂が現れた。風呂の周囲は石でおおわれている。中はかがり火が3つ燃え全体的に暗い雰囲気だが、日本の露天風呂をほうふつさせるので、とてもリラックスできそうだ。本当は女官の1人に着せられた薄い布製の湯着も脱げればいいのだが、ここでは身分の高い人の肌に直接触れてはいけないと言う決まりがあるらしい。一人なら気にせず脱いでしまうのだが、女官の1人が見張っているので我慢するほかはないようだ。
さあやはわくわくしながら風呂に入って行ったが、ふと足元を見つめた。お湯が足首から20センチ上くらいしかない。どうやらこちらの世界では風呂は浸かるものではなく、この中で体を洗ってもらうだけのものらしい。さあやは少しがっかりしたが、何とか枕に出来そうな岩を見つけると、そこに頭を置いて寝転がった。日本の温泉にも寝湯というのがあるが、その状態である。
「はぁぁ。島根の温泉、思い出すわぁ」
社員旅行で行った温泉を思い出しながら、ふと今まで忘れていた会社の事を考えた。
「みんな。どうしているかなぁ・・・」
夜警をしている部下に声を掛けると、キートレイは北の物見やぐらへ向かう橋の途中で立ち止まり、街の夜景を見下ろした。
「サアヤか・・・。面白そうな女だ」
この国の女とは全く違った雰囲気を持つ女。皇帝のお手付きじゃないのなら、俺が頂いても首をはねられることは無いだろう。
「又よからぬ事を考えているでしょう、兄上」
後ろから響いて来た声に、キートレイは面倒くさそうに振り返った。
「これはこれは。こんな夜分に何用で?近衛のルーキーさん」
「その呼び方はやめて下さいと言ったでしょう」
キートレイは何食わぬ顔で橋の欄干に肘をついて手のひらに顎を乗せた。
「近頃の弟君は生意気だな。近衛に入隊する前はかわいかったのに。それともかわいいのは女の前だけか?」
スーザはそれには答えず、兄の隣へ行って手すりに背中からもたれかかった。
「サアヤさんは駄目ですよ。僕の方が先です」
「ほおっ。さてはもう髪飾りでも贈ったか」
「贈りましたけど、どうやらサアヤさんの国では髪飾りを贈ったからと言って好きだと言っている事にはならないらしく、全く気付いてもらえませんでした」
「ハハハッ、それは残念だったなぁ」
ニヤリと笑ったキートレイに顔を近づけてスーザもにっこり笑った。
「でも諦めませんよ。彼女は必ず僕が落とします」
この年上キラーめ。この弟がそう言って今まで落ちなかった女はいないのだ。
「それじゃあ、賭けるか?俺かお前か、どちらが先にあの女を落とすか」
「賭けません」
スーザはひらりと白いマントを翻すと欄干から離れ、キートレイを振り返った。
「サアヤさんを賭けの対象にはしません。あの人はそう言う人じゃないんです」
「ほおっ、こりゃ本気か・・・」
去っていく弟の後姿を見つつ、キートレイは呟いた。あいつを本気にさせたサアヤとはどんな女なんだろう。
「これはますます興味が湧くねぇ・・・」
キートレイはさあやを抱き寄せた時の感触を思い出しながら、ニヤリと笑った。