スローグ
周りの建物は全て古くなって、壁や屋根もひどい有様だった。何とか雨はしのげるだろうが、ヴェル・デ・ラシーアの厳しい冬を彼等はどうやって乗り越えているのだろうか。しかも風に乗ってどこからか異臭が流れてくる。ゴミや汚物の処理もまともにされていないようだ。
やがて通りのあちこちから上半身にほとんど衣服をまとってない獣族が7人ほど現れ、さあや達の行く手をふさいだ。元々彼らは毛におおわれているので、衣服を付けるのは人間の習慣に合わせているだけなのかもしれない。
黒い毛並みに鼻先が白い獣族の男が彼らの前に出てきた。彼の首には透明のガラス玉がいくつも連なった長いネックレスが下がっている。ちょうどビー玉ほどの大きさのガラス玉だ。男は鋭い目つきでさあや達をにらみながら言った。
「何の用だ?ここは人間の来る場所じゃねーぞ」
その男の周りに居る数人の仲間以外にも、姿は見えないが敵意のある視線を感じる。完全に囲まれたようだ。フレイヤは崩れそうな屋根の上からも感じる攻撃的な気配に、右手をゆっくりと剣の柄に近づけて行った。だがさあやはにっこりと微笑むと、フレイヤ達の前に一歩進み出た。
「私達は敵ではないわ。あなた達がどんな生活をしているのか、見させて欲しいの」
「はぁ?なんだそりゃ」
男はいぶかしそうな顔をすると、さあやに近づいて来た。思わずフレイヤが剣に手をかけたので、さあやは彼女の手をそっと抑えた。
「フレイヤ。決して剣は抜かないで。私は大丈夫だから。スーザも、いいわね」
「しかし・・・」
今度はその手をギュッと握ると、さあやは微笑んで手を放した。獣族の男はまるでさあやのにおいをかぎ取るように鼻先を近付けてきた。
「俺はあんたみたいな人間を知ってる。いつも豪華なドレスを着てさ。俺がちょっとへまをやったら鞭で打つんだ。おかげで体のあちこちの毛が抜け落ちちまってるだろ?何度もぶたれたせいだ。あんた、あの女に似てる」
さあやの顔の前で男は口を大きく開けて牙をむきだした。彼の体中に残るたくさんの傷跡をさあやは悲しそうに見つめた。きっとここに居る獣族達は皆同じような目に遭って、やっとここへ逃れてきたのだろう。
「傷はもう治ったの?」
「あ?」
「もう痛くない?」
優しく問いかけられて、男は妙な顔をしながら口を閉じた。
「痛くない。治った」
「そう・・・」
さあやは微笑むと顔を上げ、周りを見回した。
「他の人たちもみんな辛い思いをいっぱいしてきたのね。でももうそんな事にはならないように、みなさんが人と同じように幸せに生きて行けるよう、ヴェル・デ・ラシーアはそんな国にならなければなりません。だから私に皆さんの生活を見せて欲しいのです」
男はさあやの言っている事が信用できないのか、それとも彼女の言葉の意味がよく理解できないのか、まだいぶかしそうにさあやを見つめている。
「おまえ、一体何者だ?」
「私はさあや。ただの人間よ」
「ただの人間がどうして俺達を幸せに出来るんだ?」
「私はそうであればいいと願っているわ。もちろんその為の努力も惜しまないつもりよ」
男はガラス玉のネックレスをいじくりながらしばらく考えていたが、自分では判断が出来なかった。かといって彼女を追い返すことも出来なかった。人と同じように生きる。それは確かに彼らの長年の夢だったからだ。悩んだ挙句、男はさあやをこの町の長の所へ連れて行くことにした。ただし行くのはさあやだけである。フレイヤとスーザはこの場に見張り付きで残されることになった。
「絶対反対だ!」
心配するフレイヤとサーズを説き伏せて、さあやは男達に囲まれてさびれた町の中へ入って行った。通りの両側には長屋のような建物が並び、獣族達が生活している姿を垣間見る事が出来た。子供を背負って洗濯をしている者や、自分が作った野菜を売っている者。通りを走り回る子供達。貧しいが、確かに彼らの生活がここにあった。
ただ、町に立ち込める異臭はかなり気になった。ちゃんとしたトイレという物がないのかしら。そんな事を思いながら前を歩いている首飾りの男に声をかけた。
「ねえ。あなたの名前は?」
「マーロ」
彼は振り返らずに答えた。
「年はいくつなの?」
「15」
どうやらまだ少年だったようだ。毛並みのつややかさで何となく若いという事は分かるが、何分彼らは体毛があるので年齢は分かりづらいのだ。
「マーロ。私達友達になれるかしら」
「なれるはずない。人間と獣族なんだから」
「あら、私には獣族の友達が居たわよ。人間だからって悪い奴ばかりだとか、人間だから友達になれないなんて、それこそ偏見じゃないかしら。ねぇ、マーロ、聞いてる?マーロったら」
しつこいさあやを無視しながらしばらく歩いて行くと、マーロはドーム型になった石造りの家の前で立ち止まった。この間意識を飛ばして見た獣族の王、カルヴァンが居た屋敷ではないようだ。だがもし長と呼ばれる人物がカルヴァンなら、話し合う事が出来るかもしれない。
心の準備をして家の中に入った。そこは家というよりも集会所と言った雰囲気で、室内の壁に沿ってつけられた椅子と中央に薪をくべる独立型の暖炉があるだけで他には何もなかった。そこを通り抜けて次の部屋へ向かう入口を入ると、小さな四角い部屋になっていて、薄茶色の毛並みの獣族が一人、一段高くなった木の床の上に厚手の布を敷いて座っていた。
やはりこの獣族も年齢はわかりにくいが、ひげや体毛のあちこちに白い毛が混じっているので、かなりの年齢だろう。カルヴァンはつややかな黒毛の精悍な若者という感じだったので、彼ではなかったようだ。長はさあやを見ても表情を変えずに、マーロが耳元で話す説明を聞いていた。
「サアヤ様とおっしゃいましたな。どうして我々の生活をご覧になりたいのですかな?」
「私には獣族の友達がいました。彼女は優しくてお茶を入れるのがとてもうまい人でした。でも亡くなったんです。同族である獣族の幸せのために。彼女の思いが私にはわかるから、だから少しでも役に立ちたいと思ったんです」
長はさあやの心を見極めるように眼を見開いてじっと見つめた。
「我々の生活を変えるには国を変えなければならない。国を変えるには皇帝の力が不可欠です。あなたは皇帝を動かす事がおできになるのですかな?」
さあやはドキッとして長の顔を見返した。獣族は皇帝を闇の王と呼び、彼を倒すことで獣族の王国を復興させようとしている。だからアルバドラスとの関係を彼らに知らせるわけにはいかなかった。しかし信頼関係を築きたいなら、うそをついてはいけない事もさあやは知っていた。
「皇帝陛下の事は存じ上げています。彼も私の友人です」
「お前!皇帝の手先だったのか!」
後ろに立った3人の獣族が突然、短刀を引き抜いてさあやに突きつけた。3つの短刀はさあやの首筋、胸、背中にぴったりと突き付けられている。長の隣に立っていたマーロはそれでも表情を変えないさあやをじっと見つめた。
「もし皇帝があなたたちを滅ぼしたいのなら、3本の爪が現れた段階でこの町は皇帝軍に攻め込まれ、消滅していたでしょう。皇帝にはそれだけの力があると、あなた達にもわかっているはずです。でもそれをしないのは、あなた達をヴェル・デ・ラシーアの民と思っているからじゃないですか?確かに今は反対も多くて、あなたたちを解放する事は出来ないかもしれない。でもみんなで力を合わせて頑張れば、そのうち状況も変わってくるはずです。私はその手伝いをしたい。その為にここへ来たんです」
そう伝えながら、さあやは自分の中に絶対に譲れないものがあるのを感じた。のど元に突き付けられている冷たい刃の感触を感じても、その情熱は消せないと思った。この国を変えたいなどと、大それた事を思っているわけではない。だが今この国は変わって行こうとしている。だから希望は必ずあると思えた。
長は少し考えるように目を伏せた後、マーロに彼の家を案内するよう伝えた。




