危険な夜の散歩
その日の夕食の後、さあやは昨日入った大きな風呂に入りたかったが、あの風呂は3日に1度しか沸かさない決まりになっていた。普段は部屋に備えられているバスタブに入るのだ。毎日風呂に入る習慣だとカヤに伝えると、ちゃんとお湯を注いでお風呂の準備を整えてくれた。
絨毯のある部屋で風呂に入るのも、浴槽の中で体を洗うのも少し抵抗があったが、髪の毛はカヤがバスタブに外付けしたボウルに髪を入れ、ハチミツをつけながら洗ってくれるので、なんだか高級エステに来たみたいで楽しかった。
こちらの世界では貴族の女性たちの髪は何度もタオルで拭きあげた後、カーラーを巻いて美しい縦巻きカールを作るのだが、お見合い前にデジタルパーマというお手軽にカールができるパーマをあてているさあやにそれは必要なかった。ただこれはドライヤーを使って手で巻きながら、完全に乾かさなければならないというハンディもある。
何枚ものタオルを使って髪を乾かそうとしているカヤには悪かったが、これは自分でやらないとうまくいかないと言って断った。
「ドライヤーがないのは痛いなぁ。何か他にいいもの・・・あっ、そうだ!」
さあやはひらめいた。城の周りには屋根のない回廊がぐるりと周囲を回っている。見張りの兵が始終そこを巡回しているのだが、夜は明かりを取るために、所々でかがり火が燃やされているのだ。それをうまく使えばドライヤーの代わりになるだろう。ただし近づきすぎると、髪が火事になってしまう危険性はあったが・・・。
カヤは「私もご一緒いたします」と言ってくれたが、城の中だし危ない事はないと言って一人で出かけた。中から外へ出ると、冷たい夜風が頬にあたって体がぶるっと震えた。早く髪を乾かしてベッドに戻らなければならない。周りに誰もいないことを確認すると、一番近くのかがり火のそばに行って、両手で髪の毛をくるくる巻きながら火に近づけた。はちみつエステの効果か、とても髪が滑らかだ。
「うん。いい感じ」
右側が完成すると、次に左側を乾かし始めた。
誰もいないと思って通りがかった回廊の端にさあやが立っていたので、キートレイはふと立ち止まった。彼女は髪の巻き具合を確認するために手鏡をのぞき込んでいる。にやりと笑うと、キートレイは足音を忍ばせて近づいた。
「あっ・・・」
髪をいじるのに気を取られていたさあやは、思わず手を滑らせ手鏡を落とした。だが後ろから伸びてきた手がそれを受け止めたので、さあやは驚いたように振り返ってその人物を見上げた。
「キートレイ?」
「よぉ」
思わず体を引こうとしたが、彼がさあやの肩を抱き寄せるほうが早かった。
「風呂上がりにこんな所をうろつくなんて大胆だな、サアヤ」
首元に唇を近づけて、彼はささやくように言った。
「は・・・放して。セクハラすると許さないんだから」
「セクハラ?なんだ、そりゃ・・・」
考えてみればこちらにはセクハラを禁止する法律はない。さあやは部屋にスタンガンを置いてきた事を後悔した。キートレイはさあやの髪を片手でつかむと、顔を近づけた。
「サアヤ」
「!」
だが冷たい鉄の感触が首筋に触れ、キートレイはぎょっとして顔を上げた。真っ白な長いマントに燃えるような赤毛が夜の風の中でたなびいている。
「これは・・・わが妹君、フレイヤじゃないか。こんな所で何を?」
「私はサアヤ殿の護衛だ、キートレイ。今後この方に近づく時は、首をはねられるのを覚悟で来るんだな」
フレイヤはキートレイの首元の剣を、さらにのど元に押し付けた。キートレイはにやりと苦笑いをした後、ふうーっと長い溜息をついた。
「お休みのキスもダメか?」
「駄目だ」
「だとさ。残念だが逢引きはまた今度な、サアヤ」
キートレイはさあやを掴んでいた手を放すと、夜の帳の中に消えて行った。
「フレイヤ、ありがとう!」
さあやは思わずフレイヤの腕に抱きついた。虚勢を張ってはいたが、本当は怖かったのだ。
「申し訳ない。不肖の兄で・・・」
フレイヤは震えているさあやの顔を心配そうにのぞき込んだ。
「ううん。一人で出歩いていた私も悪いの。フレイヤ。もしかしてずっとどこかで見守ってくれていた?」
「今のは少し駆けつけるのが遅かった」
「いいの。これからは出かける時はちゃんとフレイヤに連絡する。傍にいてね」
フレイヤ達、聖騎士隊は今は形式上皇帝直属の部隊だが、いずれアルバドラスが正妃をめとれば、皇妃の常に傍にいて彼女を守り、彼女の為にしか動かない私軍になる。第14代皇帝パバルトの時代、病気がちな皇帝に成り代わり、戦皇妃と呼ばれたアナスタチア妃が聖騎士隊を率いて戦場を駆け巡ったという歴史もあって、フレイヤ以下20名の女性騎士たちは常に厳しい訓練を重ねてきた。
人数の少ない女性ばかりの隊に、近衛の精鋭たちも一目置いているのはそうした理由があるのだ。アルバドラスがなかなか正妃をめとらないのでその力をずっと持て余してきた彼女達であったが、ふとフレイヤはいつかこの小さな人の為にそれを使う日が来るのではないかという予感がした。
フレイヤは皇帝以外、誰にもとった事のない騎士の礼 - ひざまずき、左腕を胸につけると、さあやを見上げた。
「死力を尽くし、お仕え申し上げる」
どこまでも続く暗闇の中を彼は歩いていた。体はいつの間にか8歳の頃に戻っていて、彼は重くのしかかってくる闇に不安を感じながら、ひたすら歩き続けた。突然青い閃光が目の前にひらめき、光は大きな輪を作り上げた。
ー ルディ・・・・ -
中から響いてきた懐かしい声に彼は一歩足を踏み出した。手を入れようとした瞬間、光の中から伸びてきた血まみれの手が自分の腕をつかんで、少年は声を立てることもできないまま、その手の主を見つけようとした。
「母上・・・・?」
カーテンを開けると、生まれたての朝日が部屋の中まで差し込んでくる。
「エルディス様。朝でございますよ」
メダの声にアルバドラスは眩しそうに眼を細めた。本格的な冬はまだだが、今朝は少し冷え込んでいるようだ。ベッドの上に半身を起こしたアルバドラスは今見ていた悪夢を思い出して呟いた。
「時々・・・なぜ目が覚めるのかと考える事がある・・・」
「エルディス様・・・」
メダの顔が陰ったのを見て、アルバドラスは微笑みながらベッドを出た。
「すまぬ。朝からつまらぬ事を言った・・・」
冷たい水で顔を洗うと、さあやは大きく伸びをした。
「んんー。今日もいい天気」
コルセットはとてもではないが一人ではつけられないので、カヤに手伝ってもらい、朝食用のドレスを着ると、さあやは部屋を出た。窮屈なコルセットも裾の長い幾重にも布が重なり合ったドレスも全く慣れないが、石造りの城の中は結構寒いので、それなりに重宝している。長いらせん階段を登り切ると、さあやは深呼吸してそっと木の扉を開けた。
朝食まではまだ時間があるので、ドラゴン達に会いに来たのだ。まだ眠っているかもしれないので息を殺して中を覗き込んだ。昨日会ったフリッパーとは少し体色の違うドラゴンが丸くなって巣の上で寝そべっている。彼らが飛び立つ外への出入り口に立って、アルバドラスがじっと空を見つめているのが見えた。
その横顔がなぜかとても寂しそうに見えて、一瞬声をかけるのをためらったが、思い切って呼んでみた。
「ルディ・・・!」
懐かしい呼び声にアルバドラスはドキッとして振り返った。母が生きていた頃、彼女はアルバドラスをずっとそう呼んでいた。
ー 生きるのです、ルディ。どんな事があっても、生き延びるのです・・・! -
母の最期の声を思い出しながら、アルバドラスはさあやが走り寄ってくるのを見つめた。
「おはよ。え・・と、驚いた?」
「いや・・・」
彼は何事もなかったように答えた。
「あのね。エルディスって名前が素敵だったから、あなたの事をエルって呼ぼうかなと思ったけど、エルは昨日エルにつけちゃったでしょ?だから間をとってルディ。ダメ?」
「・・・いや、構わぬ・・・」
さあやは微笑むと、アルバドラスの横に立って空を見上げた。遠く高く、フリッパーが空を流れるように旋回しているのが見えた。
「わあ、すごい。ここに居ると私まで空を飛んでいるみたい。あっ、そうだ」
さあやは眠そうな顔をしているクラティカの側に行くと、彼女と初めましての挨拶を交わし、再びアルバドラスの所へ戻ってきた。
「エルはまだ寝ているみたい。起こすのかわいそうだから、またお昼にでも来ようかな」
そう言いながら、さあやは冷たい風にぶるっと身震いをした。
「ここへ来る時は、もう少し厚着をして来る事だな」
そう言いつつ、アルバドラスは自分の上着を脱いで肩から掛けてくれた。さあやが不思議そうな顔で自分を見ているので彼は憮然とした顔で「なんだ」と聞いた。
「だって。ルディならこんな時『寒いのか?ならば我が温めてやろう』とか言いそうなのに」
「ほうっ、温めてほしいのか?我はいつでも構わぬぞ」
「いいえ。このコートで十分あったかいです!」
彼らは楽しそうに笑いあうと、再びフリッパーが飛んでいる、青く透き通った空を見上げた。




