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2016年 1月30日③「ばい菌」

 沢子は徹郎を待っていた。もちろん、手袋を返す為である。

 ダサい手袋は、あったかい。徹郎が、自慢するだけのことはある。

 最終列車は、十二時二分。か弱い電灯の下で、勉強していた。

 暗記カードをめくる手を止める。

 気がつけば、列車が遠くに走る音が聞こえていた。到着した列車は、たったの一両しかない。

 降りてきたのは、徹郎だけだった。ベンチで待つ自分に、片手を挙げて応える。

「本当に、待ってるとは思わなかった」

「メッセージ、送ったじゃないですか」

「くそ寒いのに……」

 徹郎は、目の前の彼女を見た。達磨、である。マフラー、耳あて、帽子、マスク。コートに、スカートの下は恐らくジャージの二重履き。そして、自分の手袋、である。

「誰だ、おまえ……」

「サワちゃんです……」

 沢子が掲げた手袋は、彼女には少し大きい。

 面白かったので、もう少し貸すことにした。

 夜道に、明かりはほぼない。この日は、たまたま月明かりがあった。

 畦道を、二人で並んで歩く。足音だけが、聞こえていた。

「先輩、焦げくさいですね」

 不意に、彼女が言った。

「焼肉、食ってたから」

「えっ、いいなぁ」

「腹出るほど、食わされたわ」

「何肉ですか?」

「牛以外、何があんだよ……」

「鶏、うまいじゃないですか」

「鶏は、なかったな……」

「馬鹿みたい」

 彼女は、気に入らなそうに言った。

「おまえのおかげで、帰る口実ができて良かった」

「泊まってくる気だったんですか?」

「まあ……なんか気に入られちゃったし……」

「不潔ですね」

 不潔、だと思った。人と人は汚れしか生まない。生まれついたのだから、それは仕方がない。

「文豪も、世の中ばい菌だらけだ、って言ってる」

「偉いんですか? 文豪は」

「偉くはない」

 徹郎は、言った。

「心が、なんか通じてるだけ」

 吹きさらしで、手が悴んできた。

 ぐっと握っても、熱を感じない。

 感じるだけの温度が、そこにはなかった。

「先輩、彼女のことは、好きですか?」

 隣の、達磨が言った。

「好きだけど?」

「キスとか、したんですか?」

「したねぇ」

「ベロベロのやつは?」

「ベロベロ……」

 してない。

 生理的に、苦手だった。

「そういう関係なんですか?」

「そういうって、どういう……」

「肉体関係」

「初めて聞いたわ……人の口から」

「そうですか」

 肉体関係も、苦手だった。約束や、誓いを強要されているようで。

 一生愛する自信など、ない。

 人は、変わりゆく生き物だから。

「おまえ、彼氏いたっけ?」

 意地の悪い質問をした。

「いませんよ」

 腕に、彼女の肩がぶつかった。怒っているのか、たまたまか……。と、思ったら田んぼに落とされそうになった。

「やめんか」

 ぐりぐり押されて、そこから逃れる。沢子の笑い声が、闇夜に、細かに響く。中学生振りぐらいかな、と思った。

「おまえ、まだ俺のこと好きか?」

 勢いで、言葉が出た。確執など、簡単に飛び越える。

「好きなわけ、ないじゃないですか」

「好き、じゃないんだ」

「嫌いです、どっちかっていうと」

 嫌い、と人に初めて言われた。

「先輩、ダサいですよ、なんか」

「じゃあ……返せよ」

「手袋のことじゃありません」

 沢子の声は、尖っていた。

「顔、です」

「顔?」

 思わず、聞き返した。真っ直ぐに、彼女はこちらを見ていた。暗闇でも、見えているらしい。

 そういう、口振りだった。

「先輩の顔は、おじいちゃんみたいです」

 老けている、そんな自意識は特にない。

「表情がないんですよ、表情が。死んじゃってます」

「目、だろ?」

 自分でも、分かっていた。眼鏡の奥の目が、死んでいた。毎朝、鏡で確認する。

 あの日以来、自分は死んでいた。

 沢子と別れた、あの日から。

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