2015年 2月5日「あったかいジュース」
「俺が、何で母さんを捨てようとしたかわかるか?」
父は、言った。
坂を、下りたところだった。
コンビニエンスストアが、明るく灯っている。
「俺が、母さんを捨てた理由だよ」
父は、そう言い直した。
沢子は、父にジュースを買うよう求めた。
コンビニに、徹郎がいた。
沢子は、立ち尽くす。徹郎と、向き合った。
「何してんだ?」
徹郎が、聞く。ちょうどドアから出たところで、二人は見つめ合った。
「てっちゃんこそ……」
「ジュース、買ってただけだよ」
徹郎は、袋を上げてみせた。父に、気づいたらしい。頭を、下げた。
「友達?」
父は、鈍かった。
「てっちゃんって、言ったじゃない……」
「てっちゃん? 彼氏か」
「彼氏です」
徹郎が、意外にもそう言った。否定するかと、思った。
別れ話を切り出されてから、ちょうど二週間が経つ。
「沢子さんとは、いつも仲良くさせてもらってます」
「いい奴じゃないか」
父が、言った。
「挨拶も、よくできてる」
父は、満足そうだった。
「別れますけど」
徹郎は、正直だった。嘘は、つけない、そういう性格だ。
「もったいない」
父は、惜しむように言った。父にとって、娘とは何なのか。
遊び道具に、過ぎないのか。
楽しんでいるように、思えた。
「ジュース、買ってくる」
父は、店内に入った。
残された、二人。
「変な、お父さんだな……」
徹郎は、言った。
「まるで、俺のこと怒ってない」
「そういう、人です」
沢子は、言った。
「帰らないんですか?」
「帰るけど……」
何か言いたげに、こちらを見る。
口調、だろう。意識的に、変えてみた。
もう、駄目だ。そう思った瞬間から、思いついた。傷つけたい。
悪意が、芽生えた。
仕返しだった。
自分を捨てて、幸せになろうとしている。許せなかった。
沢子はそんな思いを抱きながら、徹郎を見る。
許せない。
数分前までの気持ちは、にわかに消え去る。
愛。
憎しみに、変わる。
「好き」
沢子は、言った。
「先輩のこと、忘れませんから」
怯えた表情に、変わった。徹郎は、何を思うのか。こんな女、付き合わなけりゃ、良かった。
そう思っているに、違いない。
「さよなら」
沢子は、手を振った。
思いのほか、涙が溢れた。
泣いちゃいけない。
自分に、言い聞かす。
でも、止まらない。
「沢子」
父が、呼んだ。徹郎は、もういない。
自転車で、走り去っていた。
あったかいジュースを、父にもらう。
あったかかった。のどを通って、心に染みた。
あたたかさを、求めていた。
父が、頭に触れた。その上で、ゲップが鳴った。
「寒いんじゃないの?」
沢子は、見上げて、呆れた。父は、ビールを飲んでいた。
「寒いとかどうとかの問題じゃない」
運動した後か、そうでないか、だ。
「だから、腹が出るんだよ」
父の腹を、殴った。弾力性があり、はね返される。
「よく、浮気できたね」
「腹じゃねんだよ、人間は」
髭面で、笑った。父は、三十四歳。若くして、故郷を離れていた。
仕事は、転々としている。アルバイトの日も、あった。だが今は、ちゃんと働いている。
「俺も、いい歳になったな」
父は、縁石に座り込んだ。そうして、ビールを飲む。悲しげに。でも、口元は笑っていた。
「俺は十九で、家を出た」
昔話だった。
「私が、生まれた歳?」
「そうだよ」
母親は、二つ下。高校生、だったらしい。父とは、市内で出会った。市内には、大学がある。父は、そこの一回生だった。
「やることがなかった」
そう、父は言う。
「暇だった」
父に、目的はなかった。
「そんな時、母さんに出会った」
「全然、ロマンチックじゃない……」
「そんなもんだろ」
父は、笑う。
「母さんは、美人だった」
父は、思い返すように言う。
「ナンパ、だった」
「嘘でしょ!?」
「マジだ……」
「信じらんない」
「信じるも何も、おまえはそこから産まれてきた」
何でも、知ればいいというものではない。
「母さんが、言ったんだ」
「なんて?」
「できちゃった、って」
「できちゃった婚!?」
それは、知らなかった。馴れ初めから、いきなり飛んだ。自分の命が、何だか軽いものにも思えてくる。
「んで、大学辞めて……」
父は、語った。父は婿になって、この土地へやって来た。仕事なんて、ろくにない。しかし、市内へ通った。仕事は、長くは続かない。青春期を、家庭に費やした。
「それも、悪くはなかったが……」
後で気づいた。
「幸せなんて終わってから気づくものだよ……」
父は、二十八歳で浮気をした。会社の同僚と、だった。父は三ヶ月、帰って来なかった。女と、同棲していた。
沢子は、覚えていた。母が、狂っていくのを。小学三年の、ときだった。母は、病になった。
うつ病、だった。布団から、出られなくなった。祖父母の家に、しばらく住んだ。
「あの時は、悪かった」
父の、謝罪だった。
「思ってんの?」
沢子は、聞いた。
反省しているようには、見えなかった。
結局、あれは何だったのか。
父にとって、反乱だったのか。
「好きかどうかも、分からない内に、結婚しちまったからな……」
父は、思い返して、言った。
「好きじゃ、なかったの?」
「好きだったさ」
「じゃ、どうして……」
「好きの重さが、分からなかった」
父は、よく分からないことを言った。
「じゃ、どうして……、その重さが分かったの?」
「他と比べたからさ」
父はぼそりと言った。それほど、後ろめたいのだろう。母を殺しかけ、家を出たことが。
父は、反省していた。
若さゆえの、過ちであったと。
「母さんは、元気か?」
父は、妙な質問をした。
「元気じゃん?」
「おまえから見てどうか、という意味だ」
お母さんは、頑張ってる。
父は、そう言った。
「また、俺が出て行かないように、な」
父は、寂しそうだった。
「随分、母さんに会ってないな」
父は、言った。
「お父さんは、どう見える?」
父は、質問をした。
「ふざけてる」
「普通じゃ、ないってことか……」
「普通じゃないね」
沢子は、言った。
「面白いけど」
「面白い、か」
「ときどきね」
冷めたジュースを、飲む。
父と母は、仲が良さそうだった。
それでも、違う、という。
「仮面夫婦、だ」
沢子の胸に、突き刺さった。信じたくない。
「本音が語り合えない、夫婦なんだ」
寂しいことを、言った。
父は、どう思っているのか。母のことを。
「寂しいなあ」
父は言った。
「楽なんだよなあ」
「楽でいいじゃない」
沢子は、言った。
「ギスギスしてるより、よっぽどいいよ」
「そうかねぇ」
「そういうもんだよ」
娘に、とっては。




