2016年 1月30日「風のない町」
「今、何時ですか?」
苦しげな呼吸を繰り返しながら、糸居沢子は聞いた。ホームには、二人しかいない。乃部徹郎と、沢子、だけだ。
「六時半、ご愁傷様」
徹郎は、読書中である。携帯電話で、暇なときは常に読んでいる。画面にタッチして、次のページをめくった。
次は、七時半にしか列車は来ない。焦ってもしょうがない。ベンチに座る徹郎は、それを語っていた。
沢子は、彼の隣に腰を下ろした。もちろん、一人分は空けて。
「先輩、面白いアプリないですか?」
「ないです」
徹郎はすぐにそうやって、彼女の出鼻を挫く。面白いのは読書だけだ、そう語っている。
「先輩は、作家になるんですか?」
沢子が聞いた。
「なりませんよ」
徹郎にその気などない。
「本好きは、別に作家志望だからじゃないから」
「もしかして、Hな小説読んでます?」
「読んでねーよ」
Hなシーンもある、純文学ではあったが。
「ああ、寒い……」
突然、沢子が手を擦り始めた。わざとらしい、と徹郎は思った。こんな雪の日に、手袋を忘れる馬鹿はいない。
「馬鹿ですけど」
見透かしたように、沢子がそう言った。
「貸してやろうか?」
徹郎は言った。馬鹿だと思ったことへの、謝罪である。
「いいですよ。そんなセンスのない……」
「センスのない?」
徹郎は、聞き捨てならない。撥水加工で、しかも、フリース素材であったかい。
「完全にイカしてるだろ」
「イカスとか……」
呆れた。だが、可愛らしい。沢子は、徹郎を、見下げていた。一つ上の先輩であるが、何だか勝っているような気になる。
電車は、一時間に一本しか来ない。二人とも、市内の同じ高校に通っている。片道一時間半。遅刻、であった。
ダサくても、センスがなくても、ここでは誰も見ていない。
沢子は徹郎の手を取って、奪った。
「結局、着けるんかい」
「着けますよ。女の手は、繊細ですから」
「繊細ねぇ……」
「しわっしわの、ひび割れた手の方が好きですか?」
「いや……」
好きにしろ、と思った。徹郎はページをめくった。読んでなかったが、動きがほしかった。純文学の、為になる言葉が零れていった。
最低気温は二度。この冬は平年に比べて暖かい。年を跨いでも、積雪量は五センチに満たない。
随分と歩き易い。おかげで、親も車で送ってくれない。
よって、今の二人があった。
雪国は、意外と堕落している。冬に対する備えが、十分過ぎるからかもしれない。
外の情報は、テレビで知る。SNSで、同い年の連中と繋がれた。自分たちの常識は、そのまま世界の常識ではなかった。
「こないだ、テレビで見たんだけど……」
徹郎は、自慢を込めて言う。
「パンが、都会では流行っているらしい」
「パン?」
沢子は眉をひそめた。言ってることがわからない。
「もしかして、パンケーキですか?」
「そうそう」
徹郎は頷く。およそ自分の間違いになど気付いていない。
「パンケーキかぁ……」
沢子は思いを馳せた。異国の話にも思えた。
「行列、並んでみたくありません?」
「並んで、みたいようなみたくないような……」
徹郎は、沢子ほどときめいてはいない。どちらかというと、巨大な建物に憧れがあった。
ちらちらちら、
ちらちらちら。
風のない日、雪はゆっくりと地面に落ちる。風のない町で、今日もゆっくり時間が流れる。