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卒業

作者: 名無し二世

 卒業式の後なのに、気持ちは以前のままだった。すでに正午を過ぎていた。昼食はまだだったが、空腹よりずっと深刻な不足を感じていた。

 談笑の輪に背を向けて、人知れず抜け出した。多くの顔が見納めになるだろう。学校生活に不自由しない程度の浅い付き合いでしかなかった。

 校門を出る前に自転車を止めて、校舎を振り返ると、思い出を点検するように、一階から順に見上げていく。ここに未練はなかった。

 最初はゆっくりと帰路を辿っていた。今まで見過ごしていた景色の細部が目につくと、やがて息苦しさに襲われた。退屈な住宅、畑、コンビニ、ガソリンスタンド――、どこも誰かの生活と密接に繋がっている。そんな場所にあふれていた。

 今自分の場所は何処なのかと考えた。もう学校には戻れない。近々この町からも出ていかなくてはならない。ペダルを漕ぐ速度が増したのは無自覚だった。勢い逃げるような恰好になっていた。

 少し寄り道をすると書店があって、その駐輪所で意外な先客と遭遇した。いつかのクラスメイトで、内気な性格だったと記憶する。それに変わりはないらしい。現に自分より早く書店に来て、それどころか、もう用事を済ませた様子だった。

 向こうから話し掛けてきたので、少し驚かされた。

「昨日出た本、とても楽しみだったのに」ぎこちない苦笑いだった。「今日は買う気になれなかった」

 実感ないよ、とぼそぼそ呟く。卒業式の後の虚脱感に浸っているようだった。自分は適当に挨拶した。

「じゃあね」

 と先客が去ってからも、店舗に入る気はしなかった。ただ駐輪場でぼんやりしている。もともと目的もなく漫然と書店に寄ってみたのだった。

 頭の中で内部を思い描いて、欲する物はあるのかと、今更ながら思案してみた。そして先客と同じ虚しさを経験するだけ徒労だろうと判断した。引き留めてもっと話し込まなかった事が悔やまれる。お互い気が晴れたかもしれない。

 しかし書店は自分にとって逃げ場だった。今抱える気持ちの問題において、根本的な解決をもたらさないはずだ。駐輪所を出た頃にはそう考えていた。

 携帯電話の着信音に驚かされたのは、それから一時間ほど後だった。何時の間にか自宅とは違う方角へ向かって走っていた。何も考えていなかった。通話の相手は親で、居場所を尋ねられたが、それには答えずに、遅く帰るとだけ言っておいた。級友と遊びに行ったと思われたらしく、追及はされなかった。相手が自分の気性をよく知る兄でなくて助かった。社会人の彼は休日で在宅の筈だ。携帯電話を電源ごと切っておいて、何気なく空模様を窺うと、薄く曇ってはいるものの、降雨の心配はなさそうだった。

 自分がたまたま止まっていた場所は、ある神社の鳥居の正面だった。静かに落ち着いた場所で、境内の緑のそよぎに、乾き疲れた目を閉じて、しばらく耳を傾ける。すると微かに潮騒の混じっているのを聞いた気がした。距離からしてやや不自然だったが、幻聴だったとしても、それは端的に自分の目的地を告げていた。

 書店の時の迷いはなかった。疲れた体を奮い立たせて、一心に海を目指した。途中の自動販売機で炭酸飲料を買って、自転車は適当な一隅に置いた。

 人気のない浜に出ると、自分は独り海と対峙した。

 炭酸飲料のペットボトルを片手に持ちつつ、砂地を一歩一歩と踏みしめた。波打ち際の傍まで進んで、仰向けに身体を倒した。薄雲のために眩しくはない。学生服が砂まみれになるのは、捨て身の快さがある。全身から力が抜けた。

 しばらくしてから上半身だけを起こすと、炭酸で空腹を誤魔化しながら、次から次に押し寄せては引いてゆく、無数の波を無心に眺めた。

 いつか寄せる波に、三年間の記憶が断片的に映った。どんなに楽しかった映像も、辛く苦い映像も、感傷に浸る間もなく、波と共に、白く砕けてしまう。そんな波が絶え間なく押し寄せて来た。

 どうしようもなく疲れると、また仰向けになって少し眠った。

 いつか薄曇りの空は夕色に染まり始めていた。終わった、という言葉が自然に漏れた。後々から湧くどんな思いも、終わったという一言に帰着した。あらゆる未練を波が拭い去ってくれた。

 疲れ切って、力が抜け切って、自転車で帰る余裕がなかった。携帯電話の電源を入れて、兄に居場所を告げた。当然驚いたようだったが、車で迎えに来てくれる事になった。

 小一時間も経たずに兄が来た。つまらなさそうな顔でこちらへ歩いてくる。砂まみれの自分を見て、兄は顔を顰めた。自分は学生服を脱いだ。丸めて止めていた自転車の籠に突っ込んだ。自転車を手押しで進めると、チェーンが間抜けに鳴った。

 兄は何も聞かずに黙っていた。自分も黙っていた。頭の中で透明な海が静かに波打っていた。

 自転車で一時間余りもかけて来た道を、自動車は無情な速度で、味気なくさかのぼる。それで意識が冷や水を浴びせられたように覚めた。兄は相変わらずつまらなそうな顔で運転している。

 自分たちの故郷をどう思っているのか、何気なく兄に聞いてみた。答えは前に聞いた時と変わらない。この一帯はじつに退屈で、見所に乏しいとの事だった。

 窓の外を流れる景色がいつになく褪せて退屈に見えた。ふとつまらないのは、自分の方じゃないかと思った。

 ひどく腹が空いていた。

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