1-2 『蝶よ花よ』の日々
あの日思い切り泣いてから、気持ちはどこかすっきりとしていた。
…というのも、私の泣き方が普通じゃないと感じた母親が、あれから救急車だの緊急入院だのと動きだして「こんな泣き方、初めてなんですっ…!」と泣きながら医者に詰め寄る姿を見てしまったものだから、こちらの気持ちは落ち着くというものだ。
…自分より焦ってる人を見ると冷静になるってこういうことか、なんて考えたけど、彼女をそうさせてしまったのは私だとすぐに反省した。
でもまあ、思い切り泣いたことで気持ちの切替はできたと思う。
「私」が消えてしまうのが止めることのできないものなら、それは仕方のないことなのだ。
それならいっそのこと、『衿加』としての生を沢山楽しむしかない、と。
やっと楽観的な「私」に戻ってこれたことに安堵しつつ、それからすぐに『衿加』としての今を取り巻く環境に目を向けていった。
――そんな風に日々を過ごしながら、いくつかわかったことがある。
第一に。『衿加』の家はお金持ちなのではないかということ。
これは私の部屋(だと思う)の周囲を見渡して気づいたことだけど、部屋の広さ、家具、アンティーク系の調度品など、一般家庭とはかけ離れたモノがこの部屋にある。
…近くにある玩具も、パッと見の判断だけど海外製の高いものだと思う。そんなものが転がっているくらいだから、相当なお金持ちだろう。
第二に。『衿加』の両親のスペックが相当高いということ。
最初に出会った美しい女性はやはり母親だった。
おっとりとした彼女はまさに『お嬢様』といった人で、疑うことをしらない世間知らずな面もある。
だからこそ彼女の周りはとても温かい空気があるし、彼女が微笑むとまるで花開くように周囲の人間もみな笑顔になっていった。
そのあとに出会った父親(私のギャン泣き事件で駆け付けてくれた)も、優しい雰囲気を醸し出す爽やかイケメンだった。
ちなみに父親はとても多忙な人で、そう頻繁に会える人ではなかった。
…だからというべきか、彼の娘に対する溺愛ぶりはなかなかのもので、会う際はとても濃厚な愛し方をしてもらっている。…彼の整った顔が驚く勢いでニヤけていくのには毎回引い…失礼、戸惑ってしまう程だ。
とにかく、そのどちらに似ても『衿加』としての人生は安泰…そんなことを思うと心は自然とホクホクしてくる。
――そして、そんな温かい両親が衿加に向けてくる愛情に嘘はなく、「私」の意識もまた二人の存在をかけがえのないものだと感じていた。
そうした日々の幸せを感じながら、私は衿加として少しずつ成長を重ねていった。
(…あぁ、今日もいい天気だなぁ)
陽の光に目を細めながら、そんなことを考える。冷え込んでいた空気の層も変わり、ようやく春らしくなってきた。
両親の深い愛情を受けて育った『衿加』である私。
爽やかイケメンの父、花のように美しい母の二人に似てとても愛くるしい美少女に…と思っていた私。かくしてそれは間違いではなかったが…少しずれているようにも感じた。
(…ううん、この目は、いったいどこから…)
そう考えながら目元を少しさする。
どちらかというと柔らかい雰囲気の両親と比べると、どうも私の顔はハッキリと際立っていて、どこかきつい印象を与えるような気がする。特にそれがわかるのがつり上がって見える目元だった。
とはいえ、二人にまったく似てないわけではない。母親のふわりと柔らかい白茶色の髪(陽に照らされると蜂蜜色にキラキラと輝いて綺麗なの)は、しっかりと受け継いる………ものすごい直毛だけど。
そんな私の気持ちは別として、ここまでかというくらい目尻を下げて愛してくれる両親。
…いや、この両親ならどんな容姿だろう関係なく愛情を注いでくれるだろう。それくらいの溺愛ぶりだ。…ただ、本当に溺愛が過ぎて、過保護ともいえる傾向にある。
―…ちなみに、「私」としての記憶はまだ残っている。
大きくなるにつれて消えてゆくと思っていたけれど、今のところそんな兆しはない。―…相変わらず、「私」の最後の記憶は思い出せないが、今ではもうどうでもいいような気がしていた。
新しい生を楽しむ余裕ができている証拠だと思う。
――そしてようやく、私は『衿加』と自覚して三度目の春を迎える。
(……あと少しで三歳…やっと外に…)
――実は、まだこの屋敷の庭より先へ出たことがなかったりする。…というのも、父親がそれを許してくれないのだ。
留守にすることが多い父親としては、何かあってからでは遅い、ということらしい。…その過保護な原因のひとつに例のギャン泣き事件がある気がしてならないので、どうにも強く訴え出れない。
とはいえ、さすがに屋敷だけで過ごすことにも限界が来ていた。とにかく外に出てみたいのだ。
なので、父親と時間が合うときはひたすらに『おとーさま…えりか、おそと…いってみたいなぁ?(首コテン)』なんてあざと…じゃなくて、可愛くお願いし続けた結果、ようやく条件を取り付けることに成功した。
それが“三歳になったら”なのである。
当然警護の者を十分につけた上での話ではあるが、それは年齢的にも仕方のないことだと思っている。まだ子供だしね。
そして、その条件下であればいろんな習い事もさせてくれると約束してくれた。
初めてのお嬢様生活、やりたいことは沢山ある。特に小さい頃の方が吸収は早いともいわれるし、いろいろとやってみたいのだ。
(何がいいかなぁ…?お嬢様といえば…うーん)
やりたいものを考えながら口元がにやけていくのを感じる。
勿論、なんでもかんでも手を出して中途半端な仕上がりに…なんてことにするつもりはない。そこはやはり前世の名残か…少なからず貧乏性なところがあるので、お金を無駄にはしたくない。
それに『お嬢様』のイメージとして、中途半端というのはちょっと…いや、かなりよろしくない。やるからには完璧を目指さなくては。
(むしろ…なんでも出来そうな気もしてるんだよね)
衿加として過ごしてきて数年、容姿の高スペックは日々感じるものがあるが、身体や頭脳といった能力も高いんじゃないかと思い始めてきている。
庭で遊んでいるとき、部屋で本を読んでいるとき。…なんというか、「私」の存在を抜きとして反応や理解が高いような気がしてならない。
「…衿加ちゃん?ここにいたのね。こんなところで座り込んで、いったいどうしたの?」
「おかーさま!おにわの、おはなをながめてました」
急にかけられた声に狼狽えることなく言葉を返した。実際には庭を見ながらもこれからの展開を想像しつつニヤニヤ…なんてことは勿論言わない。
母はやわらかく微笑み、隣に一緒に座り込んで花へと視線を送った。うーん、綺麗な人は一挙一動が本当に絵になる。
「ふふ、ほんと、綺麗に咲いているわね。乙女椿ね」
「…おとめ、つばき?」
「ええ、この花の名前よ。椿の中では遅咲きの花で、開花の時期もそう長くはないのだけど…私は好きだわ」
母の口許は弧を描き、温かな笑みを浮かべた。
「そういえば、衿加ちゃんが生まれたときにもちょうど咲いてたわ」
「…えりかの、おはな?」
「ふふ、そうね、そうかもしれないわね」
ちなみに彼女とやりとりをするとき、基本的に素の「私」ままだったりする。だって本当に…温かい人なんだよね、心が洗われるってこういうことなのかと思うくらい、自然と純粋な言葉が出てくるのだ。
彼女を、その彼女を愛する父親を、悲しませることだけは決してしてはいけない――そう、感じてしまうくらいに。
(…過保護も、悪くない…かな)
母親の手をギュッと握りながら、そんなことを考えた。
春は、すぐそこまで来ていた。