夜泣きの森のカラクリ魔法使い
昔々、世界にまだ竜がいた頃。
世界の果てと呼ばれる渓谷のほとりに、深い深い森がありました。
迷い混んだら2度と出られず、夜な夜な森をさまよう人間のすすり泣きが聞こえるという話から、夜泣きの森と呼ばれるその森に、好んで近づく者はおりません。
月の美しい冬の夜、一人の娘が森に迷い混みました。
娘は、かつて姫と呼ばれる身分の者でした。
望まずして国同士の争いに巻き込まれ、たった一人で祖国を追われたのでした。
王である父も、妃である母も、祖国も失い、獣のいる森へと追いたてられ、迷いたどり着いたのがこの夜泣きの森でした。
かつて、白くすべらかだった手のひらは傷だらけ。
泥だらけの裸足の足は、凍えてうまく歩けません。
真冬の森に彼女はひとり、泣くこともできぬまま、よろよろと歩いておりました。
獣に追いかけられ、痛む足を宥めながら、何とかここまでやって来ました。
彼女はここが夜泣きの森とは知りません。
お城の中で、ダンスの稽古やマナーの勉強ばかりしていた彼女は、外の世界のことは何も知らないのです。
疲れきった彼女は、その場にへたり込んでしまいました。
見上げれば、木々の枝葉の間から月が覗いています。
不意に、悲しみが押し寄せてきて、彼女はポロリと涙をこぼしました。
そしたら涙が止まらなくなって、彼女は声もなく泣きました。
ぽろぽろと泣いていると、彼女の頬にほとりと冷たいものが当たりました。
ほとり、ほとりと降り出したのは、真っ白な雪でした。
いつの間にか月は雲に隠れ、姿を消していました。
ああ私、このまま凍えてしまうのだわ。
そう思った彼女の耳に、かたかたと乾いた木がぶつかるような音が届きました。
「泣き虫毛虫」
そんな言葉も聞こえた気がして、思わず泣き止みます。
おかしいのです。この場所には、彼女しかいないはずですから。
「泣き虫毛虫は摘まんでポイ!」
また聞こえました。
周りを見回しますが、誰もいません。
「誰ですか? どこにいるの?」
「可哀想なお嬢さん。この森に何の用?」
どこからともなく聞こえてくる声に、彼女は泣きそうになりました。
怖いのです。
かつての臣下や見知った人々に国を追われた彼女は、すっかり人が怖くなっていました。
「さっさと帰ったら? 帰り道がわかるうちに」
「……帰るところなんて、もうないわ」
冷えきった涙の粒が、お姫様の頬からぽろりと零れ、握り締めた拳を濡らしました。
お姫様だった彼女の手には、もう何も残っていません。
「じゃあ、仕方ないね」
声はあっさりそう言いました。
あまりに素っ気ない言葉に、彼女はぽかんとしました。
仕方ない。そんな風に彼女が思えたことはありませんでした。
背中の方で、かつりと音がして、彼女がゆっくり振り返ると、そこにいたのは一体の木の人形でした。
赤と緑の服をきた人形は、かくりと首をかしげます。
「お客さんは久し振りだなぁ」
かくかくと木の顎が揺れて、人の声が漏れました。
彼女は目を真ん丸にして、人形を見つめます。
それが、彼との出会いでした。
「名前など好きに呼べばいい」
彼は、そんな風に言いました。
「名乗るべき名なんてとっくに忘れたよ」
そう言われてしまえば、彼女に返す言葉なんてないのです。
動く人形なんて初めて見ました。
彼についていくと、辿り着いたのは、森の奥にある一軒の丸太小屋でした。
彼が手を振ると、触ってもいないのに入口の扉が開きました。
恐る恐る踏み込むと、暖炉には赤々と炎が燃え、ポットがひとりでカップにお茶を注ぎます。
「魔法だよ。僕には手がないからね」
そう彼は嘯きました。
確かに、彼の手は固い木でできており、何かを握ることなどできはしないのです。
「魔法……使い?」
魔法使いなんて、伝説の生き物です。
彼女はそう思っていました。
過去史には、魔法の記録が残っていますが、今はもう、魔法は失われたはずです。
「見ても分からないなんて、思ったより愚鈍だね」
「ぐっ……?」
絶句している彼女に構わず、彼はかたかたと顎をならして笑います。
「まあ、好きにすればいいよ。どうせここには僕たちだけだし」
ふわふわと宙を移動したカップが、彼女の手の中に落ちてきます。
カップは温かく、ゆるやかに立ち上る湯気からは、仄かに甘い匂いがしました。
ここにいてもいいのだと言われた気がして、彼女の震えた指先に、涙が一滴だけポタリと零れました。
そして、二人の奇妙しな生活が始まりました。
彼は彼女が丸太小屋の屋根裏部屋にだけ立ち入らなければ、後は一切干渉しようとはしませんでした。
彼は気儘に日々を過ごし、彼女は生きるために畑を作ろうと苦戦しているところです。
野良仕事などしたことのない彼女の手は、瞬く間に荒れ、傷だらけになりました。
「ここに人が食べられるものはないよ」
そう彼が言ったので、自分で作るしかなかったのです。
彼は手伝うでもなく、時折言葉で毒を吐きながら、それでも彼女を追い出そうとはしませんでした。
彼女は彼を「魔法使いさん」と呼ぶことにしました。
彼はどうして人形なのでしょう。
その問いは何となく、聞いてはいけない気がして、彼女の胸の中に納めたまま。
穏やかな時間は、少しずつ過ぎました。
ある日、彼女は小屋から離れ、薬草を採りに行くことにしました。
彼に聞いたのですが、この森には良質な薬草が多く自生しているのです。
「どうせ僕には役に立たないからさ」
そう彼は言いました。
「でも本当に行くのかい? お嬢さんには厳しい道のりかもよ」
「構わないわ。ありがとう、魔法使いさん」
礼を言うと、彼はかたかたと木の腕を揺らしました。
彼女が気づいたところによると、どうやら彼は照れ屋のようでした。
素直さに欠けるとも言いますが、直接心配だと言われなくても、彼女には十分嬉しかったのです。
彼が人形でも、彼女は彼が大好きです。
素っ気ない態度も、優しさと気がついたからかもしれません。
森を歩くのも、今ではもう怖くありません。
彼に教えてもらった薬草の自生地をゆっくりと巡ります。
そしてかご一杯に薬草を採取した頃。
おうおうと、森の哭く声を彼女は聞きました。
森が哭くなんておかしなことですが、確かに聞こえました。
こんなことは初めてです。
彼女は耳を澄ませました。
がさがさと草木を掻き分ける音がして、彼女ははっとしました。
ここは奥深い森。
棲むのは野生の動物だけです。
思わずじりじりと後ずさると、繁みから飛び出してきたのは、動物ではありませんでした。
彼女はぽかんとしました。
人です。
なぜここに人がいるのでしょう。
姿を表したのは、屈強な男でした。
周囲を見渡し、立ち尽くす彼女に気がつきます。
「女?」
「ガイジ、何をしてる。動物ならさっさと仕留めて……」
後ろからもう一人、男が顔をだしました。
同じく彼女を見て動きを止めます。
「女……? 何処かで見覚えが」
後から来た男が呟きました。
ガイジと呼ばれた男は「お前もそう思うか」と返しました。
しばし、お互いに見つめ合います。
やがて男たちは顔を見合わせました。
「シエルカ姫!?」
彼女はびくりとすくみました。
捨てたはずの名です。今はもう、呼ぶ人のいないはずの。
祖国で、彼女の顔は主君の娘として知られていました。
彼女が思っていた以上に。
「亡くなったはず……いや、これは使える」
「どういうことだ?」
「ガイジ、彼女を捕まえろ」
「よくわからんが……」
彼女ははっと我に返りました。
ぼうっとしている場合ではありません。
彼らが何を話しているのかはよくわかりませんが、捕まったら、もう2度とこの森に戻れないということは分かりました。
家族を失った彼女は、これ以上何も失いたくはありませんでした。
必死に逃げ出しましたが、あえなく捕まって、後には中身の零れたかごだけが残されました。
捕まった彼女は、町へと連れていかれました。
そして反乱の旗頭に据えられたのです。
彼女の祖国はすべての王族を失い、隣国に飲み込まれていました。
それを取り戻すための反乱軍の、お飾りの主として、ただ座っていることを求められました。
最後の姫として祭り上げられ、沸く人々の中心で、飾り立てられてただ座るだけの彼女の心は凍りついたようでした。
彼女を追い出した人々が、今度は祖国を取り戻せというのです。
悪夢を見ているようでした。
目を閉じれば、思い出すのは奇妙しな彼の姿。
夢だったのは、こちらの方かもしれません。
さよならすら言えなかったことが、ただ心残りでした。
食べ物が喉を通らず、みるみる痩せていく彼女が、ベッドの上で眠ったままになるまで、そう時間はかかりませんでした。
うとうとと微睡む彼女は夢を見ました。
夢の中で、彼女は泣いていました。
どうして泣いているのかもう思い出せませんが、とにかく悲しくて仕方がないのです。
いつかのように天を仰げば、真ん丸の月が彼女を見下ろします。
「泣き虫毛虫は変わらないんだね」
そんな言葉を聞いた気がして、彼女は瞬きました。
いつのまにか、彼が佇んでいました。
あるはずのない光景でした。
なので彼女は、これが夢なのだと悟りました。
なんて幸せな夢でしょう。
彼が来てくれるはずなんてないのに。
「君が何処に行こうと、僕には関係ないけれど、ひとつだけ聞いておこうと思って」
彼は木の腕をのばしました。
短い腕は、彼女には届きません。
「まだ生きたいかい」
彼女は止まらない涙をぬぐいました。
ぬぐってもぬぐっても、涙が頬をまた濡らします。
それでもぬぐって、彼女は腕をのばしました。
彼の木の腕を握ります。
「生きたいわ! あなたと一緒に!」
「そう」
小さく呟いた彼の手は、彼女の手のひらを滑り落ちました。
慌てて更にのばした手を、誰かの手が握りました。
血の通った温かい、ヒトの手。
「物好きなお嬢さん、僕の小屋に招待するよ」
見上げれば、困ったような顔の見知らぬ青年は、彼と同じ声でそう言ったのでした。
***
昔々、世界にまだ竜がいた頃。
奥深い夜泣きの森に、今はもう亡い国の姫と、人形の魔法使いがおりました。
時々人の姿に戻る人形の魔法使いを姫は愛し、魔法使いもまた、泣き虫な姫を愛しました。
そして二人は、生涯幸せに暮らしたそうです。




