二人の少女
気がつくとわたしは夜の公園にいた。かすかに辺りから蝉の声がする。入り口の両脇に植えてある背の高い大きなヒマワリが、まるでわたしを監視するかのように威圧感を放っている。
どうしてわたし、こんなところに……?
子どもの頃遊んだ、それほど大きくない近所の公園だ。今でも昼間は小さい子どもや母親たちの憩いの場となっている。休日は父親の姿も多く見える。
ああ、そうか。またわたし、無意識に逃げて来たんだ……。
わたしは自分の頬をさすった。右頬がぷっくらしている。視界がおかしいのは瞼が腫れあがっているためだろう。自分の体を見回すと、中学校の制服はところどころ汚れていて、腕や足、果てはお腹にまで無数の痣があった。けれど、不思議と痛みはなかった。どうしてだろう。もう怪我の感覚も麻痺してしまったのだろうか。
家に帰る気には到底なれず、わたしはとりあえず手近なブランコに立って乗った。何も考えず、ぐんぐんこぐ。限界まで上昇してから、ふと思った。この勢いをつけたまま前方に体を放りだしたら、頭でも打って死ねるだろうか。いや、だめだ。中途半端に怪我なんかして迷惑をかけたら、あの人たちにどんな目にあわされるか分からない。
だけどもう疲れた。このまま手を放して、ブランコを囲む固い安全柵にでも頭をぶつければ死ねるんじゃないか、本気でそう考えた。
考えながらふと顔をあげると、真正面、ブランコの安全柵の外側に女の子が立っていた。わたしは突然のことに息をのみバランスを崩す。けれどなんとか持ちこたえた。
ブランコは大きく前に進み、否応なしに女の子に近づいて行く。女の子はそんなわたしを目で追っていた。そのまま慣性によって、ブランコは女の子から遠ざかる。
この子、いつからここにいたの? どうしよう。
そんなふうに思っているうちに再びブランコは彼女に近づく。わたしは得体のしれない彼女への恐怖で体が固まってしまい、ブランコを足でとめることはおろか、飛び降りることすらできずにいた。
女の子が近づく。わたしと目があった。女の子はどうやらわたしと同じ年くらいらしい。大きな目をしている。だけど頬がげっそりこけている。最初は暗くてよく分からなかったけれど、彼女はずいぶん痩せている。
女の子と一番近づいたとき、
「あーそーぼ」
と彼女が言った。女の子にしてはしゃがれた声だった。そして「あーそーぼ」と大きく開けた口からどす黒い、何か液体のようなものをどばあ、と吐いた。
「ひゃあああああ!」
それが何なのか分かった瞬間、わたしは腰をぬかしてブランコから転がり落ちてしまった。
「ごめんごめん。おどろかせちゃって」
女の子が無邪気に笑って、謝罪した。
「でも、イタクなかったでしょ」
そうなのだ。わたしは立ちこぎの状態のまま後ろにひっくり返って地面に叩きつけられたのだが、大した衝撃もなく、不思議とそれに伴う痛みは感じなかった。わたしは仰向けの体を起こして立ち上がった。女の子がブランコを挟んですぐ正面に立っている。さっき滝のように吐いた血は跡形もなく消えていた。だけど彼女の何とも言えない不気味さに、知れず足が震える。すると、そんなわたしに対して彼女は信じられない言葉を放った。
「やだなあ、仲良くしようよ。オタガイ、死んでるんだし」
「えっ」
思わず息を呑む。
「やっぱりジカクないんだ。だってあなた、そんなに大けがしてるのに全然イタクもクルシクもないでしょ? 死んでるからだよ」
うそ。
「それでも生きてたときのイメージがあるから、生きてるのとおんなじふうに感じるんだよね。だけど時期に分かるよ。おなかも空かないし、トイレもいらないから。あとスイミンも」
死んだ? わたしが? いつ?
わたしは記憶の糸を懸命に手繰り寄せる。
たしかわたしは自分の家にいて、自分の部屋にいて、
新しい母親にさんざんバットで殴られて、蹴飛ばされて、階段を転がり落ちて……。
何が原因だったっけ? まあどうせ、弟がらみの些細なことだろうけど。
「ねえ、これからどうする?」
わたしの思案を遮って、女の子がわたしの顔を覗きこむ。こう言っちゃ悪いけれど、不気味な顔だなと思う。骨に皮がぶら下がっているかのようで、みずみずしさはどこにもない。落ちくぼんだ目は深い影を造っているけれど、その奥で眼球は忙しなく動いている。まるでどこかうきうきしているような感じさえする。ガサガサの口元にずっとうすら笑いを浮かべているし……。
「あ、わたしのこと気味ワルイって思った? 悪いけど、あんたもソートーだと思うけどねえ。あ、わたし、寧々って言うの。ヨロシクね」
「……陽子よ」
おまけに中学生くらいなのに妙にたどたどしく話す子だ。わたしはまだ彼女のことをすべて信用できず、用心して、それだけ答えた。
「うたぐり深いなあ。まあいいけど」
寧々は颯爽と、さっきまでわたしがこいでいたブランコに飛び乗ると、その外見とは裏腹に、清々しい表情で実に楽しそうに自分のことを語り始めた。彼女のくたびれたスカートから細い枝切れみたいな足が覗く。立ちこぎができるのが不思議でならないほど細く、痛々しい。
「あたし、本当はもう立てなかったんだよね。力でなくてさ。でもこうして幽霊になっちゃえば関係ないんだ。やった」
行くところもないし、わたしも仕方なく寧々の隣のブランコに座った。
寧々は、自分は両親から虐待を受けて死んだのだと語った。虐待、の言葉はわたしの心を深く突いた。わたしと同じだったからだ。
寧々の両親は二人とも血のつながった実親だが、どちらも自分のことばかり考えている人間だという。
二人とも働いておらず、働く気もない。寧々を置いて各々勝手に出かけ、たまに帰宅しては泥酔するまで酒を飲み終いにケンカをはじめる。
寧々はというとその間、住まいであるアパートの三畳ほどの納戸に閉じ込められ、乏しい食糧で一人きりずっと過ごしている。もちろん学校には行かせてもらえない。寧々がまだ幼児だったころはたまに祖母らしき人物が世話しにきてくれていたが、どうやら病気を患ったらしく、ある日を境に来なくなった。
いつものように納戸で弱々しく横になっていると、突然父親に働けと言われ、納戸から引きずりだされそうになり抵抗すると、腹を激しく蹴られ、血を吐き、そのまま放置された。
「そのとき、あたし、死んだんだよ。今でもきっと、わたしの死体はあの家に転がされてる。わたしの死体の横であの二人はふつうの暮らしをしてるんだ。ふふ、ふふふ」
寧々は笑いながらブランコから手を放した。立ちこぎをしていた彼女はそのまま顔から地面に激突した。
「ちょっと、だいじょうぶ?」
わたしは寧々に駆け寄ろうとしたけど、やめた。すぐに寧々が起き上ったからだ。無邪気な子供のように笑いながら、彼女は起き上った。わたしは思わず後退さった。まるで地獄から復活したゾンビだ。
そしてゾンビはわたしのほうにくるりと顔を向けると、言った。
「くふふ……、あたし、あいつらにフクシュウするんだ。まあ見ててよ」
「ふ、ふく、しゅう?」
「そ。ねえ、あんたもそうしなよ。幽霊になるとさあ、自分は怪我とかしないのに、相手に対してはなんでもできるみたいよ? あんただって、あたしと似たようなものなんでしょ? 見れば分かるよ」
わたしは言葉に詰まった。その通りだからだ。わたしの場合、暴力をふるうのは継母だけれど、実の父親はそれを見て見ぬふりだ。幼いころから優しく仲の良かった父親。その父親に助けを求めても無駄だと悟ったとき、わたしは絶望した。継母に抵抗する気も失せた。学校や、別の大人に知らせても無駄な気がした。だれも助けてくれぬまま、ひたすら殴られる。こんな日がずっと続くのかと虚空な心で泣いた。
「じゃあね、あたしは行くよ。成功したら、ホーコクするから。あ、もしかしたらうれしくてジョウブツしちゃうかもしれないから、無理かも」
わたしの答えを待たずに、テヘ、と今時の中学生のように舌をだして、寧々は夜の空に消えた。
ある古いアパートで中年の夫婦が何者かに殺される事件が起こってから、一週間が経った。
その遺体は原形をとどめておらず、無残な有様はまるで何かに食い殺されたかのようだという。
隣町の老人ホームに入居している、被害者の夫の母親が「寧々という中学生の孫がいたはずだ」と証言しているが、そのような少女はアパートのどこにも見当たらなかった。そもそもこの両親から出生届は出されていなかった。しかしアパートにはいくつもの鍵が取り付けられた不自然な納戸があり、誰かがそこに長い間監禁されていた形跡があるという。
その納戸は事件発見時、すべての鍵が壊され開いていた。
「またそのニュース見てるの、陽子ちゃん」
「あ、毬絵叔母さん。は、はい、ちょっと気になって」
リビングでテレビを見ていると、突然声を掛けられ、わたしは緊張して居住まいを正した。
「怖いニュースね……。でももうよしましょう、陽子ちゃん。あなたは退院したばかりなんだから。安静にしていなきゃ」
毬絵叔母さんはさりげなくテレビを消すと、わたしを気遣うように微笑む。
まだ信じられない。これからこの人が自分の母親になるなんて。実感が湧かない。騙されているんじゃないかとさえ思う。わたしは家族みんなに疎まれ、殴られるしか価値のない、そんな人間だったはずなのに。
わたしは結局死んではいなかった。
あのとき階段から落ちたわたしは意識不明状態となっていただけで、数時間後には病院で意識を取り戻した。動かなくなったわたしを見てパニックになった継母が、隣家に助けを求め、その隣人が救急車を呼んでくれたらしい。
そして翌日、病室のテレビでこの事件を知ったとき、わたしは心底驚いた。あの公園での出来事は単なる夢ではなかったのだ。
「寧々」という名前を聞いたとき、病的なほど痩せこけているのに妙に活気があふれている、アンバランスな彼女を思い出した。そのアンバランスさがとても不気味だった。彼女は自分とわたしはすでに死んでいると言っていたが、実際にはわたしのほうは幽体離脱状態だったということだろうか。本当のところはわからない。
彼女は、寧々は結果的に成仏したのだろうか。両親に復讐して、彼女の恨みは晴らせたはずだけれど。
わたしはリビングを出て、自室にもどった。壁には真新しい中学校のブレザーが掛けてある。
わたしの新しい生活がはじまる。
わたしは退院したのち、父方の遠い親戚に養女に迎えられることになった。
毬絵叔母さんの夫である幸樹さんは海外で大きく事業を展開している人で、かなりの資産家だ。しかし子どもがおらず、もともとわたしを養女にという話は出ていたのだという。
やっていけるだろうか。ここで。
ピンクに統一されたふかふかのベッドにころんとうずくまり、わたしは幾度となく巡る期待と不安の渦に呑まれる。
もう理不尽に殴られることはないのだ。殴られることで諦めていた普通の暮らしがやっと手に入った。夢のようだ。
でも。
もうお父さんとは暮らせない。お父さんはあの女を選ぶのだろう。それがたまらずに寂しく、また憎い。わたしは裏切られたのだ。
この新しい家でもわたしが期待通りの娘ではなかったら、また裏切られるんじゃないだろうか。そんな考えが頭を離れない。伯父さんや叔母さんの優しさを、まっすぐに受け止められない。
だけど、あのままあの家にいたらわたしはどうなっていただろう。
継母は癇性な女で、一度火がつくと止められない。何かと父の連れ子であるわたしを些細な理由で罵倒し、殴る。彼女にとって大事なのは三年前に生まれた実子である弟だけなのだ。
……あのままあの家にいたらわたしは完全に心折れてしまうか、殺されるかしていたと思う。
「ここで、新しく頑張るしかないんだ」
わたしはそうつぶやくと、タオルケットに包まった。遠くで蝉の声がする。蝉しぐれ。この蝉しぐれを子守唄に、ちょっと眠ろう。
蝉の声がする。気がつくとわたしは公園にいた。空高く昇る太陽が容赦なく地面を照りつける、昼の公園。子どもたちが砂場で遊んでいる。母親たちが木陰でおしゃべりしたり、スマホをいじっていたりする。
あれ? ここ、夢の中?
わたしはよく分からないまま公園の奥へと入っていく。公園の隅にブランコがある。そこだけ木陰になっているためか、妙に薄暗い。ブランコに誰か立って乗っている。中学生ぐらいの女の子だ。手足が針金のように細い。彼女は静かにこちらに細い首を回すと、深い闇の底のような目を向けた。寧々だった。
そのただならぬ雰囲気にわたしは怯む。と、寧々が言った。
「ずるいよ」
反射的にわたしは駆けだしていた。
ここからはやく離れなきゃ。そう感じた。しかし公園の入り口で足がもつれて無様に転んでしまった。顔を上げるといつのまにか、いくつもの、大きく背の高いヒマワリがわたしをとり囲んでいた。いや、それはヒマワリではなかった。寧々の顔だった。いくつもの寧々が、わたしを見下ろし、口々にしゃがれた声で言う。
「ずるいよ」
「ずるいよずるいよ」
「ずるい」
「ずるいよお」
そして何本もの寧々は、次々に、わたしに食らいついてきた。夢の中なのに、脳天を突き刺すような痛みが走った。わたしは声にならない声をあげ、必死に抗議する。
「ずるいって、何がよお……、だって、しょうがないじゃない」
体中の肉を抉られ、引き裂かれ、頭を持っていかれそうになったところで目が覚めた。
わたしはふかふかのピンクのベッドの上で、ぐっしょりと汗をかいていた。
(夢……)
ほっとして、涙が溢れてきた。まだ心臓は早鐘を打っている。
(やっぱり、わたしの中に、自分だけ助かってしまったという寧々への後ろめたさがあるんだ)
わたしは顔を洗おうとベッドから起き上がって、ふと、新しい中学校のブレザーがなくなっていることに気がついた。あるのは空のハンガーのみ。おやと思っていると
「ふうん。こんなの着るんだ。いいなあ」
背後からしゃがれた声がした。
「あんた、死んでなかったんだね、いーなー、おかねもち」
頭のてっぺんからつま先へ、一気に血の気が引いた。
寧々。どうして。
そう思っても、わたしは振り返ることができない。
できない。
恐怖が体を支配し、少しも動かない。
だけど、ちょうど目線の先、ハンガーの近くに置いたスタンドミラーに、真新しいブレザーを手にした彼女が映っていた。鏡越しに目が合う。
「ひっ」
生きた人間を二人食らった彼女は、最早妖怪のような相貌になっていた。
鏡の中で、寧々が口を大きく開いた。そして地獄の底から絞り出したかのような唸り声をあげた。
「ずるいよおおおおおおおおお」
その口から壊れた蛇口みたいに血が溢れだす。
わたしは逃げることはおろか、鏡の中の彼女から目をそらすことさえできなかった。体が石みたいに硬直していた。
鏡の中で寧々がわたしの肩に飛びついた。ずしりとした彼女の重みと背中を伝う液体の感触に体中の神経が波打った。寧々の体はとても冷たいのに、流れている血はあたたかいと感じるのはなぜだろう。
鏡の中。わたしとわたしの背中にしがみつく寧々の姿。わたしの肩越しに顔を出した寧々がちょうどわたしの顔と並ぶ。ちょっと前まで同じだったのに。同じ運命をたどるはずだった二人なのに。それが今は。
「なんであんただけ、しあわせに、なってんの」
わたしの耳元で、低く濁った寧々の声が怒りに震える。それでいて泣いているようにも聞こえた。その血を流す口をわたしの肩にあてた。食われる。もうだめだ。
今になってやっとわかった。
寧々だって本当は復讐なんてしたくなかったのだ。こうならざるを得なかったのだ。彼女はもっと生きたかったのだ。当然だ。成仏なんてできるはずはない。
だけど、覚悟を決めたわたしをよそに、寧々は一向に動かなかった。わたしの肩に食らいついたまま、じっと鏡の中でこちらを見ている。
「寧々……?」
ようやく声が出た。
「寧々、ごめん」
とっさにそれしか言えなかった。他に何を彼女に言っていいのか分からない。
すると鏡の中の寧々はゆっくりと顔をあげた。夜の公園で出会ったときよりもさらに凄まじい形相に変わっていた彼女の顔から人間らしい表情は読みとれない。だけどさっきまであった、刺すような殺伐とした雰囲気は無くなっているような気がした。そして、
「ズルイよ」
拗ねたような声で彼女はそう言うと、そのまま消えた。
わたしはしばし呆然としたけれど、毬絵叔母さんの声で我に返った。
「陽子ちゃん、どうかした? ノックしたんだけど……あ、いただきもののクッキー、食べない?」
「叔母さん……あ、いただきます」
わたしは気が抜けて、馬鹿みたいに機械的に答えた。
「あら、陽子ちゃん。肩、どうしたの」
「えっ」
わたしはとっさに肩を見た。右肩には、血が滲んだ歯型がくっきりとあった。それを見て不意に我に返ったわたしは振り返って部屋を見回した。
そこはいつものわたしの部屋だった。クリーム色のカーテンに、新しい机と本棚。ピンクで統一されたふかふかのベッド。きちんとハンガーに掛けられた真新しい制服。
大量に流れた寧々の血も消え失せて、彼女の姿はどこにもなかった。
秋。
わたしは新しい中学校に転入した。一昨年新設された綺麗な中学校だ。
伯父さんと叔母さんの勧めでカウンセリングに通い、一方で文芸部に入り、何人かの友達もできた。
わたしの境遇を知ると憐れむ人もいる。虐待を受けていた過去。それを見て見ぬふりした実父。養女なんて、家で気を使っちゃって大変そう、などと陰口をたたく隣人もいる。だけどわたしは全くそう思っていない。
たしかに環境が変わったからと言ってすべてがうまくいくわけはない。今でも虐待をうけた悪夢にうなされ、平和な暮らしを完全に受け入れられない。
けれど、わたしは今こうして生きている。
あのとき階段から落ちて死んでいたら、きっと無念さだけが残り、寧々のようになっていたかもしれないというのに。
寧々のことを思うと、今でも胸が重く締めつけられ、苦しくなる。
彼女は一体今どこにいるのか。寧々の遺体は結局見つかっていない。彼女のあの赤い血は、彼女の「生きたかった」という叫びにちがいない。その無念さの中で彼女は彷徨いつづけるのだろうか。
「ズルイよ」
あのときの、寧々の拗ねたような声が、わたしは未だに忘れられない。