033:『当たり前』
「人は何の為に働くと思う?」
朝にそんな事を問われた。そんな明らかな事を訊かれた。明らかで明白。誰でも答えられるであろう簡単な、人間問題初級編な質問を出題された。
今日の空も澄んでいて、このまま空に吸い込まれるんじゃあないかと思う程綺麗で、自然と心が清らかになる様な空。計り知れない程大きくて偉大な、手の届かない程偉大なのに親しみがある暖かい空。
そんな晴天の空を見上げながら、つぶやく様に優しく、赤子の頭を撫でる様に、そんな口調で、ただの問い掛けではなく何か深い考えがあるんじゃあないかとも思える様な感じで己己己己は質問を投げかけてきた。
「そんなの、飯を食う為、生きる為なんじゃあないのか?」
俺もまた、偉大で親しげな空を見上げながら己己己己の質問に答えた。
「へへっ そうだね。灯夜君の言う通りだ」
こいつは何が言いたいんだろうか。ただ俺をからかいたいだけなのだろうか。
それとも、純粋にこんな事を疑問に思ったのであろうか。
いや、己己己己ともあろう者がこんな簡単な疑問に躓く筈がない。こいつは常に水平な道を歩いているのだ。己己己己の歩む道には轍なんか無く、ましてや出っ張りなんかある筈もない。
己己己己の歩む道は、水の如く常に水平なのだから。
「いったい何が気になるって言うんだよ?」
「特に大した事ではないのだけれども、働きさえすれば生きていけるとは僕はどうも思えなくてね」
と、己己己己は今まで空を仰ぎ見ていた目線を俺の方へ落としながら言う。「それは・・・」と言いかけたところでいつもの様に己己己己は俺の話を遮り言う。
「人は須く天の理に真剣になるべきだ」
天の理とは何の事なのだろうか。天とは神の例えでよく使われるが、だとしたら、神とは俺達色の事であって、そうすると人々は我々色の言う事に従い生きていけと、そんな事を己己己己は言いたいのだろうか。
いや、己己己己がそんな差別的発言をするとは思えない。己己己己はいつだって平等なんだ。
命は命だと、どんな小さな命であっても命は命であり、全ての命に上下関係は存在しないと己己己己は、この神は、きっとそう言うに違いない。
己己己己とはそんな奴なんだ。
一昔前の神殺しだった頃の己己己己だったならば分からないが、今の己己己己には蚊一匹すら殺せやしない。
それは、今までに殺した神々の呪いなのかもしれないが、決して己己己己が弱くなった訳ではなく、むしろ強くなったのかもしれないと俺は勝手に思っているのだが。
命の大切さ、命の儚さ、命の尊さを知った己己己己は、今まで以上に命を大切に出来るようになったのだから。
命を奪っていた頃の己己己己はおそらく、自分の命の事なんて何も考えていなかっただろう。
それは、強さとも言えるが、弱さとも言えてしまう。そんな矛盾が起きてしまう。
己己己己は、死ぬ事を恐怖と思っているのかは分からないが、死に対して臆病だという事は命を大切に思っているからで、いつか来る命の終わりの事を知っているから。
命の大切さを知っているからこそ、守るべき命を守る時は自分の命を惜しみなく使う事が出来てしまうのではないのだろうか。
そりゃあ、守りたい命を守って自分も助かるのが一番良いに決まってはいるが、自分の命を擲ってまでも命を救おうと思えるのは命の大切さを知っているからなのだろうと俺は思う。
俺が返答をする前に、「有難う灯夜君」と己己己己は俺に背を向け、麓の方へ降りて行った。
いったい今のやり取りはなんだったっていうんだよ。
『まあいいか』と、己己己己が日曜大工感覚で作ったという大鳥居の前で回れ右をした。
回れ右をした事により、俺は驚きその場で尻餅をついてしまう事になったのだ。
「おや? 灯夜先輩何を楽しそうな遊びをしておられるんですか?」
「私も御一緒させて下さいよ」と、俺の驚きの根源は茶化す様に隣に腰を下ろす。
大鳥居の前で回れ右をした俺の眼前にはみのりちゃんが立っていた。本当に眼前に、鼻が触れ合う程の距離にみのりちゃんは立っていたのだ。
実際に鼻は触れ合ってはいないものの、俺とみのりちゃんの鼻と鼻は一粍もない距離ですれ違った。
「あっぶねー!! 危なくキスするところだったじゃあないか!!」
「キス? 灯夜先輩は私とキスしたいのですか? だったらすればいいじゃあないですか」
いや、キスをしたいという訳ではないのだけれども、こうして隣で、目の前で、目を閉じてキス待ち顔をされては心が揺らいでしまうものだ。
みのりちゃんは普通に可愛いし・・・じゃあなくて。
「な、何やってんだよみのりちゃん。 俺がキスをしたいとでも思っているのか」
「はい」
凄い自信だ。
目を閉じて軽く唇を突き出す様な顔をしたままみのりちゃんはそう答えた。
心が揺らいでしまう。俺がまだ一度もキスをした事がないからとかではなく、した事があったとしてもこんな状況は心が揺れ動くに違いがない。
みのりちゃんのこの落ち着いた表情――きっとみのりちゃんは何度も経験があるのだろう。高校一年生にして全く、ませた娘だ。
そんなこんな、ゆらゆらと揺れ動き続けた俺の心は、その後も揺れに揺れ過ぎて、結果――みのりちゃんの顔の前でずっと変顔をし続けてしまっていた。
その時、「ん?」とみのりちゃんが片目だけを開け俺を見る。
恥ずかしい変顔を見られてしまった。
穴があったら入りたい。本当に恥ずかしい。
まあ、穴があったとして、そこに恥ずかしいからといって入り込んだとして、その穴から出る時の方がもっと恥ずかしいだろうから、俺は穴があったとしても入りはしないだろうが。
「ん? どうしたんですか灯夜先輩? 私の唇を奪ってくれないのですか? 私のファーストキッスを貰ってくれないのですか?」
「はぁ?! キスした事ないのかよ。それでこの落ち着きかよ。しかもこんなに簡単にファーストキスを奪わせていいのかよ」
こんなに沢山のツッコミを入れた俺ではあるが、キスを渋っている顔を、キス変顔を、見られた事はなかなかに恥ずかしい。
そして、この顔についてみのりちゃんが何のコメントもくれなかった事で俺の恥ずかしさ度合いは一気に跳ね上がる事となったのだ。
そんな恥ずかしがっている俺に対してもみのりちゃんはノーコメントで、ファーストキスに関しての俺のツッコミに対してだけ答えてくれた。
「先輩、到頭先輩、TOTO先輩? 東北先輩? あれ? どれでしたっけ?」
「どれも違う!! 到頭先輩ってなんだよ!! それに俺はそんな便器みたいな名前でもないし、地方みたい名前でもない!!」
「灯夜先輩、とりあえず五月蝿いです」
「はい。すみません」
何故か怒られ、何故か素直に謝ってしまった。やっぱりこの娘には不思議な力があるように思えてしょうがない。
しかし、俺の名前知ってんじゃねえか。
「有難う」
みのりちゃんは急に感謝の言葉を口にした。
「ん? どういう事?」
「灯夜先輩は有難うという言葉の対義語を御存じでしょうか? 灯夜先輩ともあろう御方が御存じないなんてそんな事はないですよねー」
と、みのりちゃんは急に話題を変えつつ俺を馬鹿にした様に言う。
「あ、当たり前だろう。そんな事知っているに決まっているじゃあないか」
強がってしまった。本当は見当もつかないのだが、何故だろうかみのりちゃんに負けたくなかったのだろうか、それともみのりちゃんの前で格好をつけたかったのだろうか。
自分の事の筈なのによく分からない。
「ほお、よく御存じでしたね灯夜先輩。てっきりその表情だと知らないものだと思っておりました。これは失敬」
「お、おう・・・ この俺がそんな事知らない筈がないじゃあないか」
よく分からないが当たったようだ。しかしどこが当たったというのだろうか。
「その通りです灯夜先輩。【有難う】の対義語は【当たり前】です。有難うとは有り難い事、めったにないという事ですね。よって対義語は当たり前。普通、当然と言う事です」
そうだったのか。奇跡的に当たったみたいだが、この話は勉強になった。いつか誰かに教えよう。
「おっと、もうこんな時間」とみのりちゃんは腕時計を確認する素振りを見せたが、その腕には腕時計なんかはなく、綺麗な白い手首が袖口から見えただけであった。
「それでは灯夜先輩。また御逢い致しましょう」
そう言うとみのりちゃんは階段を転ばないように注意しながら急ぎ足で下って行ってしまった。




