032:『雫の理由』
奇跡とか、まぐれとか、たまたまとか、ミラクルだとか。
そんな言葉が当てはまるのだろうか。当てはまってしまうのかもしれない。言葉だけならば。
でも、これはそんな言葉で片付けられる様な事柄なんかではない。そんな言葉で片付けられないし、そんな言葉では終われない事。終わらせてはいけない事だと俺は知っている。
きっと、何かが起きてそうなった。見えない力だとか、神秘的な何かが働いてそんな結果になった。もしくは俺の知らない所で誰かが助力してくれたとか。
助け舟は俺には見えなかったけれど、結果――俺はその見えない船に乗船する事になるようだ。
しかし、今の俺ではその状況を上手く書き留められない。何が起きたか分からないとか、状況が把握出来ずにパニックになってとかではなく、上手く表現する事が出来ない。上手にお話し出来そうにない。上手に物語を語れそうにないのだ。
何が起きたかは分かる。状況も把握出来る。
ただ――どうしてこうなったのか。それだけは上手く理解出来ずにいた。
この後何が起きるのかも、何をするべきなのかも明白だし、勿論これから行動に移すつもりでいる。こんなチャンスは二度と来ないと、俺は感覚的に理解をしている。
この後俺は少女を、天手力雄神を封印する。己に、黒に。燃え盛る様な、怒りの塊の様な赤を黒である俺自身に封印する。
今の状況をそのまま伝えるのならば、有体に言うのであれば、天手力雄神である少女が俺の前で燃えている。
ただ燃えているというのなら驚く事は何もないのだが、その燃え方が普通じゃない。
普通じゃない――激しいとか、そういった燃える勢いの事ではなくて、目で見ておかしいのだ。その炎の在り方がおかしい。それは、普通の火の燃え方からすれば期待外れで、奇態で、外れていた。普通の炎では到底ない。
天手力雄神の質問に俺は同様していた。呆気にとられて自分が今置かれている状況を忘れかけていた。そんな時に「死んでくれ」と俺は赤に包まれた。燃やされた。黒から赤に染色された。
俺は赤に、燃え盛る真赤に包まれた筈なのだが、確かに俺は赤に包まれた筈。そして、天手力雄神にトンネルの中へと投げ飛ばされた。
投げられた時にたまたまそうなったのか、それとも天手力雄神がそうしたのかは分からないが、兎に角、俺を覆っていた炎は消え、その代わりであるかの様に少女が燃えていた。
黒――少女を覆っていた炎は黒かった。
黒い炎を纏った少女は疲れているのか、まるで何かに憑かれた様に、憑かれ疲れた様に、長時間走り続けたランナーといった感じで両の膝に手を当て、ショートカットの髪のそのもみあげからは頬を伝った汗なのか泪なのか、雫がポタポタと伝い落ち、ハァハァと息を切らしている。
言葉なんかいらない。伝わってきた。赤ではない本人。天手力雄神ではない少女としての気持ち。俺の脳内には自分のものではない気持ちが己を主張するかの様にしゃんとしてそこにあった。
少女のその気持ちが、まるで自分の気持ちの様に理解出来る。
そんな気がしただけなのかもしれないが、そんな気がしただけなんかではない。
そんな不安定なものなんかではなく、確実なもの。そんな信用に足らないものなんかではなく、十分に信用に足るもの。
どうやら俺に伝わった少女の思いは正しかったようだ。
顔を上げた少女の顔は明らかで、火を見るよりも明らかで、それはもう灼然たる有様で、まさに灼然炳乎と言った感じだった。
彼女はもう、天手力雄神ではなく一人の少女。
ちゃんと少女であって、自分自身で、人間としての少女自身の顔で、彼女は微笑んでいた。とても爽やかな、凄く幸せそうな微笑み。その微笑んで細くなった両の目からはポロポロと雫が流れている。
少女が黒く染まったからなのか、俺の色に同調したからなのか、その雫の理由が俺には手に取るように伝わってくる。
哀しみで流れたのではないと。
辛くて流れたのではないと。
悔しくて流れたのではないと。
嬉しくて流れているのだと。
俺はその笑顔を見るなり行動に移した。迷う事なく封印した。
「ありがとう・・・ 本当にありがとう・・・」
その場に崩れ落ちながら少女は満面の笑みを俺にプレゼントしてくれた。
とんだサプライズだよ本当に。敵に笑顔を恵投されるなんて。
そんな風に思ったって嫌な思いをする訳もなく、至極嬉しい限りであって、俺はその幣物と呼ぶべきであろう贈り物を素直に喜んだ。そっと胸にしまって行動に移すのであった。
「ありがとう」と言ってくれた事により、俺は自分の行動に迷う事は全くなく、自身でもって自信をもって少女を黒に封印したのであった。
一瞬意識が遠のいた様に後ろにのけ反った少女ではあったが、すぐに体勢を整えて立ち上がると、「こういう気持ちだったんだ・・・」と一言呟いた。
「ん? それはどんな感じなんだ?」
「天児屋命。覚えているでしょう?」
天児屋命というと、俺がいつの日か一人花火をしていた時に現れた神。神であって、青の化神である彼女の事だろう。
「ああ。勿論おぼえているさ」
「私も貴方の事を信じてみようと思う。貴方に期待してみる事にした」
期待とは何を期待されているのだろうか。この先の未来とか、この地球の未来だとか、そんなヒーロー的な期待を俺はされてしまったのだろうか。
少女は俺に背を向け首だけで振り返り、「頼んだよっ」と、一言残すと物凄いダッシュで俺の前から姿を消した。
少女の驚異的な足の速さは神になったから、化神としての力なんかじゃあなく、自分の力。少女の本来の力、力量だったようだ。
なんて速さだよ。世界陸上の選手かよ。
天手力雄神、赤の化神との闘いを無事勝利で終える事が出来た俺は、神社の階段を上り出し、皆が待っているであろう神室へと帰路についたその時、俺の目の前には己己己己が立っていた。
「やあ、灯夜君。終わったのかい?」
「己己己己お前、見ていたのか? だったら手を貸してくれよ。危なく死ぬ所だったんだぜ」
「何を言っているんだい灯夜君。手はちゃんとか貸したじゃあないか」
ん? 手を貸しただと? 俺は己己己己の手を借りたつもりはないのだが。
「えっと・・・」と言いかけた所で己己己己は、俺の言葉を遮りいつもの様に話し出した。
「まあ、手は貸したのだが、それを行動に移したのは他ならぬ灯夜君自身なんだから、これはもう僕の力ではなく灯夜君の実力なんだよ。チャンスをしっかりとものにしたのだから」
「己己己己悪いが、俺のちっぽけな頭ではやっぱり、己己己己の言葉の意味が分からないんだ」
その後己己己己が言った一言は、俺のこんなちっぽけな頭でも理解する事が出来る一言だった。
「僕の出した舟はちゃんと灯夜君の所に届いたみたいだね」
「じゃあ、己己己己があの娘を燃やしたんだな。どうやったかは今だ分からないが、己己己己が少女を黒い炎で燃やしてくれたんだな」
「それは違うね。僕は舟を出しただけだ。それも暗闇で何処にいるか分からない相手に無人の舟を出したんだ。見方によっては舟を捨てただけにもみえてしまう。そんな舟を見つけて乗ったのは灯夜君。だからこれは灯夜君の功績なんだよ へへっ」
そう言うと己己己己は「皆待ってるよ」と階段を上りながら言った。
意味が分からなくなってしまった。やっぱり己己己己の思考を理解する事は到底不可能のようだな。
ん?
あれ? そういえば、懐に入れていた己己己己に貰った塩の入った袋はどこにいったんだ?
まあ、あれ程の戦闘だったんだ、きっと何処かに落としてしまったのだろう。




