030:『願い事』
「死ねよ」
振り向くとそこは、一面の赤だった。
いつもならばそこは、ただのモノクロが広がっているだけの景色な筈なのだが、今は違う。
街も空も海も森も――赤。
火の海とも違った、血の海の様でもなく、何も混じらない赤――真赤。
神社に向かう階段も、麓から市街地まで続くアスファルトの道も、歩行者が安全に道路を横断するための横断歩道の線ですら・・・
物によっては色の強弱はあるものの、その色は赤である事は間違いなく、何処をどう見ても俺の視界は赤でしかなかった。
その赤は全てを包み、俺の網膜まで焼いてしまったのではないだろうかとすら思えるほどだ。
再度現れた少女は前回同様こちらを鋭い目付きで、前髪の下から睨み付ける。
相変わらず右の手は、怪我なのか、ボクサーなのか包帯でグルグル巻きで、よく見ると左手も同様包帯で巻かれていた。
この娘はやっぱりボクサーなのかもしれないな。
俺と少女は動物が睨み合う様に、ガンマンが決闘開始を待つかの様に、はたまた侍が組み合う前の一時の様に一定の距離を保ったまま、立っている。
睨み合いとは言っても睨んでいるのは少女の方で、俺はただ立ち尽くしているだけなのだが。
俺はいったいどんな顔をしているのだろうか。きっと酷い顔をしているに違いない。締まりのない。だらしない顔に違いない。
俺にはもう、息を呑む様な心境ですらない。緊張感とか恐怖感とか、そんなものは既に通り越して、もはや清々しい。
俺は完全に狂った。人には神は殺せやしないが、神の力を以ってすれば神は殺せてしまう。つまり俺は今、死の淵にいる。
そんな死に際に立たされてみるといやはや、なんという事だろう。俺は既に、全くと言っていい程に恐怖が無い。恐怖という感覚が欠落してしまっている。
ピリついた時間が過ぎる。ついに、戦いの火蓋が切って落とされたのか、少女は俺を睨み付けたままズシズシと、地を揺らしているんじゃないかと思う程に力強く歩み寄ってくる。
そんな地震の震源地の様な少女の背景も相当に赤いが、少女自身はもっと赤い。まるで物凄い怒りが色になった様だ。
ズシズシとグラグラと迫りくる赤に、俺は為す術も無くただただ運命を受け入れる様に立ち尽くす。
何をどうすればいいのか分からない。パニックの極限でフリーズしてしまったのだろうか。
何もする前から手も足も出ない。
手も足も出ない――文字通り俺は、手も足もまるで自分の物ではないかの如く動かせずにいた。
『終わった』
少女が目の前まで迫ってきた時、俺は二度目の負けを全身で受け入れ、ゆっくりと目を閉じる。
『また、俺は華麗に綺麗に負けるんだろうな。あーあ、格好悪いな。もしかしたら今度は死んじゃうかもな』
「たす・・・け・・・て」
ん?
その声に、俺は瞑っていた目を見開いた。
目を開けた俺の目に飛び込んできた光景はモノクロ。
さっきまでの燃えるような赤は何処に行ったんだよ。
いつもの見慣れた景色に戻っていた。神社に向かう階段も、麓から市街地まで続くアスファルトの道も、横断歩道の線も、全てが元に戻っていた。
『あれ? あの娘は何処に行ったんだ?』
さっきまで、レーザービームでも出るんじゃあないかと思う程鋭い目付きで俺を睨み付けながら迫っ来ていた赤――否、少女が俺の視界から突然に、忽然と、姿を消した。
『瞬間移動か? これも神の力なのか・・・』
ふと目線を下に向けた俺の足元には、両の手を抱え込む様にして少女が倒れているではないか。
「だっ、大丈夫かっ?!」
いくら俺を殴った相手だとはいえども、この娘は俺に憎しみがあるのかもしれないが、俺には無い。俺にはこの娘を憎む理由が無い。
「うぅ゛ーう゛ぉーーー!!」
物凄い大きな、まるで重機が作業しているかの様な声で少女は唸り声を上げ、その場でのた打ち回る。
「おいっ大丈夫かっ?! おいっ」
のた打ち回る少女に、俺は話しかける事しか出来ない。いったいどうすればいいのか。このよく分からない状況をどうしたら抜け出せるのだろうか。
すると、今までフル活動していた重機がお昼休憩に入り一旦の休息を許されたのか、少女は急に落ち着く。
モノクロへ戻った景色はまた、一面赤へと変わる。
『いったい何だっていうんだよ』
倒れながら少女は何やらつぶやいている。
「し・・・ね・・・死ね・・・死ね、死ね、死ね、死ね死ね死ね死ねーーー!!」
そう叫びながら少女は右の拳で俺の腹部を力一杯殴り付けてきた。
「い゛ぃ゛っってぇーーー!!」
またも俺は吹っ飛ぶ。下から殴られたことにより、俺の体は一旦宙に舞い、そして背中から地面に落ちる。
あばらが何本か逝った様な音を俺の聴覚は聞き取った。耳と骨を伝って聞こえたその音は、まるで若木が折れる様なそんな音、威勢が良く、元気一杯といった感じにメキメキと骨が折れ、メリメリと少女の拳が腹部にめり込む。
五臓六腑に響き渡る音と衝撃。
『これはまずい、呼吸が出来ない』
意識を保つだけでも精一杯だというのに、更にそれに追い打ちをかける様に、痛みは俺に酸素を摂取する事を許さない。
助けを呼ぼうとも声が出ない。
『このままじゃ・・・』
少女に殴られた時、時間にして3秒程ではあっただろうが俺の脳裏に映像が流れ込んできた。
走馬灯――おそらくこれを走馬灯と呼ぶのだろう。
そこに映し出された映像には、美月や景、志乃芽や志乃花といった身近な人物――もとい神物達と過ごした日常が映っていた。
本来ならばたったの3秒でなんて上映時間が短すぎる程の映像が、どういう理由なのか、たったの3秒で事が足りてしまった。
『駄目だ、まだ死ねない。死ぬ訳にはいかないんだ!!』
俺の思いが届いたのか、ただ時間が過ぎたのか、次の瞬間、俺の肺は酸素を取り込んだ。
酸素を取り込んだと同時に体も動くようになった。折れた筈のあばらの痛みも感じない。
『これならいける』
いけるとは言っても力でこいつに、身軽な重機の様な、そんな最強な少女に勝てる筈がない。
そこで俺のこの後取った行動。それは――逃げる。
俺は逃げた。とれあえず全速力で、最大出力で逃げた。
いくら身軽とはいっても相手は重機だ――いや、少女だ。
男の俺の最大速度に勝てる筈が――あった。
神社の階段を上がるのは体力の消耗がいくらなんでも激し過ぎると判断した俺は、市街地に向かう訳にはいかないと、そのまま山の方へと走った。
後ろも振り返らずしばらく走っていたのだが山の少し手前、トンネルの前で後ろを振り返ったらちょうど少女が飛び上がったところ。
そのまま少女は高く飛び上がり俺を飛び越しトンネルの前で、まるで通せんぼをしている風に立ち塞がる。
赤が周りを覆い尽くした――と思ったら、再度景色はモノクロへと変わった。
『これはいったい・・・』
きょろきょろと周りを見渡したが、さっきまでの赤は何処にも無く、全てがモノクロへと還っている。
一通り見渡した目線を少女に戻す。
どういう事なのか、少女の目は鋭く睨み付けるそれではなく、目には涙を浮かべていた。
涙が浮かんだと思ったら途端にボロボロと溢れ出す。次々と涙が地面を湿らせる。
今までの、いかにも最強な少女とは打って変わって、泣きべそをかく子供の様に声を出してエンエンと泣いている。
そして少女は、溢れ出る涙を手で拭い、それでも止まらない涙を流しながらゆっくりと口を開き、声にならない声で言った。
「ふ゛ぁだじをぉ・・・ごろじでぇ・・・ぐだじゃい」
何を言ってるか分からない。分からないがちゃんと伝わってきた。
俺には少女が何を言っているのかが不思議と理解出来た。
少女は言った。
泣きじゃくりながら、己の中に住む鬼に逆らいながら、頑張って、俺にお願いしたんだ。
「私を殺してください」




