後編
窓際に立って外を眺める。
開け放たれた窓からは、小鳥のさえずる声とそよ風が入って来た。
「久保さん、片付け始めますよ」
「……はい」
呼ばれて、例のベッドに向かう。
私は今、亡くなった患者さんのベッドを清掃している最中だった。
ベッドまで近づくと、今日の朝まで患者が横たわっていたシーツをはぎ取る。
「慶邦くん、どうして死んじゃったんでしょう」
私は横目でそう呟いた同僚の、悲嘆な表情を見やる。
私たちは看護師である。彼女はこの子の担当で、毎日顔を合わせては、定期検診等を行っていた。時々食事を運んでいた程度の私とは、思い入れが違うのだ。
「ここは病院よ。何が起きるか分からないもの。仕方ないわ」
「でも!」
彼女は語気を強める。
「あの子、単なる盲腸だったんですよ!」
彼女の目は真っ赤に充血していた。
「なかなかご両親が病院に来られないさみしさも我慢して、あんなにいい子にしてたのに……」
彼女は一瞬押し黙る。
「……潤也くんも死んでしまうし……仲の良かった二人が同じ日に死んでしまうなんて、何の皮肉なんですか?」
「……潤也くんは仕方ないところもあるんじゃないかしら」
私は畳んだシーツを籠の中に入れた。
「……でも私と話したときは、そんな素振り見せてませんでしたよ?」
「自殺したいなんて思う子は、みんなそうなのかもしれないわ」
伊東潤也。彼は自殺未遂をしてこの病院に運ばれてきた。どうやって潜り込んだのか、学校の屋上から投身自殺を図ったらしい。運ばれたときは意識もなく、前歯は欠けて、両足を骨折していた。
彼は、自分が生きていると知ったとき、一体何を思ったのだろう。
ふと、私はそんなことが気になった。
「変なことしないようにナースステーションのすぐそばの病室にしていたのに。まさか毒で死ぬなんて」
「そんな考えても仕方ないわよ。私たちは生きたいと思う人の手助けはできても、死にたいと思う人には何もしてあげられないもの」
彼女はしかし、釈然としない表情でシーツの無くなったベッドを睨み付けた。
「誰が渡したんでしょう」
「えっ?」
「だから、あの毒ですよ。警察は自殺するために潤也くんが所持していたんだろうって言ってましたけど……絶対おかしいですよ」
「どうして、そんな風に思うの?」
「だって潤也くんの荷物なんて文庫本と衣類ぐらいでしたし……それに毒を持っていたんだったら、とっくに自殺していたと思いませんか?」
私は無意識に腕を組む。
「なんだか鈴音ちゃんが死んでから、人がよく死にますね」
そう言った彼女は私を見て、しまったという顔をすると、すいませんと小さい声で謝る。
彼女は気まずさを紛らわすように、ベッドの清掃を再開する。ほうきを手に持ってベッドの下を掃き始めた。
「あら?」
ゴミを集めていた彼女の動きが止まった。ベッドの下を覗き込むと、手を伸ばし、一枚の画用紙を引きずり出す。
「……」
「どうかしたの?」
「……久保さん、黒い鳥の話を聞いたことがありますか?」
「なんのこと?」
私は首を傾げる。
「……私も潤也くんから聞いたんですけど……もうすぐ死んでしまう人が見る鳥だって……」
彼女はそう説明すると、私に画用紙を見せた。画用紙にはクレヨンで伊東潤也らしい人物が描かれている。その隣に……真っ黒に塗りつぶされた物体があった。
「……下らないこと言ってないで早く掃除終わらせましょう」
「……はい……そうですね」
彼女は目を伏せ、不気味な黒い物体が描かれた絵をゴミ箱の中に入れた。
「そんなものがいたら、警戒されて困るじゃない」
思わず呟いていた。
「何か言いました?」
「ううん……何も」
私はぼんやりと窓の外を眺めながら鈴音のことを思い出す。
鈴音、私の娘。今どうしてる? ああ、私はあなたがさみしい思いをしていないか心配だわ。
大丈夫よ。もうすぐ沢山の友達がやってくるからね。
一人はあなたに会いたいって言ってくれたお兄ちゃん。
一人は慶邦くんよ。覚えているでしょう? でもね。慶邦くんはいけない子だわ。慶邦くんったら、鈴音みたいになりたくないなんて言ったのよ。ひどいでしょ?
伊東潤也の包帯を換えていたときのことを思い出して、私は憎悪に打ち震える。
でも同じように死んでしまったら、そんなひどいこと言えなくなるものね。
手間のかかる子だった。あんまりご飯をまずいまずい言うもんだから、誰かに気付かれるかと思ったじゃない。
余計なものが入っているんだって。
「久保さん、終わりましたよ。窓、閉めてくださいね」
彼女はぼんやりしていた私を咎めることもなく、さっさと持ち場に戻っていく。
私は空のベッドを一瞥する。鈴音のときも伊東潤也のときも、掃除し終わったベッドを見ると、人知れず空しい思いに駆られた。
私は目的を達成したはずなのに。今日もそれは変わらない。
吹き抜ける風が横顔に当たる。
私は窓に近づくと、風で閉まりかけたカーテンを開いた。
それは、窓の柵にいた。
黒い鳥。カラスより大きくて、目も口もない。まるで黒いペンキで何度も何度も塗りつぶされたかのように、真っ黒な色の。
「次は、私の番ってこと?」
私は問いかける。黒い鳥は何も答えない。不思議と、気持ちは穏やかだった。
「それともあなたは、私が殺そうとしていた相手に警告を出していた存在で、彼らを守れなかった腹いせに、直接私に会いに来たの?」
黒い鳥は何も答えない。
ふと、強い風が吹き抜ける。
黒い鳥は、大きく翼を広げた。それは今まで見たどんな鳥よりも、大きく、不気味な姿だった。
そしてふわっと飛び上がる。
私の横を通り抜けたかと思うと、振り返ったときには、その禍々しい姿は消えていた。
私は黒い鳥が飛び去った方向を見つめ、静かに微笑む……