中編
「ねぇ、たまには自分の病室に帰ったら?」
ジュン兄が苦笑い混じりに呟いた。
「今日で五日連続だろ? たまには昼寝でもさせてくれよ」
ジュン兄は上体を起こしたまま大きな欠伸をする。
僕は黙って、クレヨンを画用紙の上に滑らせた。
「それで、何描いてるんだい?」
「だめだよ。見ちゃ!」
ジュン兄が顔を近づけてきたので、僕は画用紙を抱え込んで隠した。
「いいぜ、そっちがその気なら、俺にだって考えがある」
ジュン兄はそう言うと、両腕を器用に使い、ベッドの横に置いてあった車いすに飛び乗った。
「俺がベッドの上で身動き取れないままだと思ったら大間違いだぞ」
ジュン兄は僕の背後に回ると、画用紙に手を伸ばす。僕は取られないよう、必死で逃げまわった。
「やめてよ!」
「こら、まて」
鬼ごっこでもしているみたいだった。ジュン兄は時々いじわるなのだ。
笑っていたジュン兄が、突然何かを思い出したかのように無表情になる。車いすを止めて、虚ろな目で僕を見る。
「ジュン兄?」
「……悪い、下らなかったな」
ジュン兄は額に手を当てて苦笑いした。
「ねぇ、ジュン兄……肩に何か付いてるよ」
僕の指摘にジュン兄は両肩を交互に確認した。そして右手で肩を順に払う。
「ゴミでも付いてたのか?」
眉を顰めてジュン兄は言った。
「……ちょっとその辺散歩してくるよ」
ジュン兄は、車いすのまま病室の外に出て行く。ジュン兄には時々こういうところがあった。笑っていたかと思うと、突然暗く、淀んだ顔になる。まるで全てが下らないとでも言うような、卑屈な表情。
僕は自分の描いた絵を見た。僕はずっとジュン兄をモデルに描いていたのだ。
なんでだよ。
その絵を見ながら僕は少し泣きそうになる。
後、どのくらい時間があるんだろう……
窓から夕日が差し、カーテンの影が僕を覆っていた―――
「……もうすぐ夕食じゃないか? ヨシクニくん帰らないと」
ぼんやりしていると、ジュン兄はもう戻って来ていた。
「……いいよ。ここのご飯全然おいしくないもん」
「そうかな? 俺は割とおいしいと思うけど」
僕は渋々立ち上がる。
「あっ、ちょっと待ってヨシクニくん」
ジュン兄が僕のことを右手で手招きする。左手の方は、なぜか固く握りしめられていた。
「何?」
「いいから、こっち来て」
ジュン兄は、優しげに笑っていた。やっぱり笑うと、欠けた前歯がどうしても目立つ。
ジュン兄は「耳、耳」と右手でジェスチャーする。僕は指示通り、右耳をジュン兄の口に近づけた。
「俺、黒い鳥を見たんだ」
ジュン兄の囁き声。
一体僕はこのとき、どんな表情をしていたんだろうか。
*
その日の晩だった。
『ピー、ピー、ピー、ピー、ピー……』
あの音が聞こえた気がして目が覚める。ベッドに入ったまましばらく耳を澄ましみるが、実際は聞こえてこなかった。その代り看護師さんや病院の先生が廊下を走る音が響く。
僕はそっと、ベッドから抜け出した。
スリッパをペタペタさせながら真っ暗な廊下を歩く。心臓がバクバク言ってうるさかった。
ジュン兄の病室の前まで来る。僕は震える手で横開きのドアを少しだけ開けた。
窓際のベッドに。
ジュン兄のベッドに。
人が沢山いた。
先生が、か細い腕を持って脈を測っている。
あの人形のような手はジュン兄のものだろうか?
「ジュンヤくん……どうして……」
誰かの悔やむような声が、ここまで届く。
僕は思わず駆け出した。その場を逃げ出した。
誰かに足音が聞こえるかもしれないとか、そんなことお構いなしだった。
スリッパを放り出して、自分のベッドの中に潜り込む。布団を被って座り込み、寒くもないのに体をガタガタと震わせた。
僕は今笑っている。
目を見開いて「ヤッタ」と心の中で叫んでいる。
僕は何度か深呼吸すると、ゆっくり布団を下ろした。
目の前に黒い鳥がいる。
僕は黒い鳥に手を伸ばし、頭を優しく撫でてやった。
「やったよ、成功だ」
僕は囁く。
僕はずっと前から黒い鳥が見えていた。
正確には、スズネちゃんの夢を見た前の夜。
初めて黒い鳥を見てしまったとき、僕は布団に潜り込み、ずっと泣いていた。
『もうすぐ、死んでしまう人だよ』
ジュン兄のあの言葉が、何度となく頭に響いたからだ。
泣き疲れると、体中の力が抜けた。
僕はもうすぐ死んでしまう。
一昨日のおじいちゃんみたいに。
一週間前のおばあちゃんみたいに。
そしてスズネちゃんみたいに。
さみしい。
死んだら、誰か僕と遊んでくれるの?
誰か僕と一緒にいてくれる?
他の人にも見えたらいいのに。
この黒い鳥が見えたらいいのに。
そしたら、死んでからだってきっとさみしくないのに。
そうだよ。さみしくなくなる。
ジュン兄にこの黒い鳥を見せたら、ジュン兄だって死んでくれるはずだよね?
そしたら、向こうでスズネちゃんともジュン兄とも遊べる。一緒にいられるんだ!
僕は目を真っ赤にしたその日から、ずっとジュン兄のそばにいることにした。
黒い鳥は特別何かをするわけでもなく、僕の後を付いて来たから、
僕がジュン兄のそばにいることは、同時に黒い鳥がジュン兄のそばにいることになった。
『あそこ! 何か見えない』
『ねぇ、ジュン兄……肩に何か付いてるよ』
いつも黒い鳥はそばにいたんだ。
よかった。ジュン兄にも黒い鳥は見えた。
僕は微かに笑いながら、黒い鳥を撫で続ける。
すると、黒い鳥を撫でていた右腕が、見る見る内に黒に染まっていった。
ああ、とうとう僕の番なんだね。
黒は右腕から、胸に、体全体にジワジワ広がっていく。
しだいに視界もぼやけて、意識が遠のいていった。
僕は今座っている?
横になっている?
分からない。もう辺りが真っ暗だ……