過去との再会[過去編]
「おかえりなさいませ、ライダ様」
そう言って堅牢な盾の紋が刻まれた馬車のドアを開けたのは、その頭髪をすっかり白く染めた初老の男。いつもと変わらぬ出迎えに、ライダは藍色の瞳を少し細めてそれに応じる。真っ青な外套を外し、腰に下げた剣を手に持ち替えて馬車に乗ると初老の男もそれに続いた。
ドアが閉められると御者がいるのだろう、ゆっくりと走りだした。
「お久しぶりでございますね」
先に口火を切ったのは初老の男の方だった。男は長年クラウン家に仕える執事の一人で、ライダも幼少の頃より世話になっている人物。ライダが休暇のため実家の屋敷に戻れる日などは、手が空いてさえいればよく迎えに来てくれるのだ。以前はこの男が御者として迎えに来ていたが、ライダが話し相手になってくれと頼んでからはこうして同乗してくれる。
「そうだな。思っていたより引き継ぐものが多くて困る」
「部隊の編成でもございましたか?」
男に言われ、ライダは左手に携えた剣を持ち直しながらほんの少し眉間にしわを寄せた。眉間にしわが寄るのは考えるときの癖であるが、これは子供の頃から変わっていない。
「俺、言ってなかったか? 近衛騎士団の団長に推挙された、って」
そうライダが口にした途端、男の顔は見る間に輝いた。膝の上においてあった右手を取られ、しっかりと握りしめられる。
「おめでとうございます。歴史の長いクラウン家でも、団長に任じられた者はおりません。初めてのことでございます」
「そうなのか。それは知らなかったな」
国内で唯一、貴族とそうでない者が別け隔てなく扱われる場所が騎士団である。完全な実力主義で、腕が立つならばスラムに住む下民でも騎士団員として受け入れられる。更にその騎士団の中でもより実力のある者は近衛騎士団の一員として働くことができる。
近衛騎士団の団員ともなると王宮の中に部屋を与えられ、下民であっても爵位を得ることができる。無論、実力主義は近衛騎士団の団長にも同じことが言える。たとえクラウン家といえど、剣の腕がなければ団長に推挙などされはしないのである。未だにこの点に関しては貴族内でも賛否両論意見の分かれるところであるが、ライダとしてはとても歓迎している制度である。国力とも言える騎士団が強いに越したことはない。
「でも、ハーウィンドは強いな。団長を決める七決闘除けば戦績は五分だ」
しばらく前に対戦した現・近衛騎士団団長であるハーウィンドの大立ち回りを思い出し、ライダは人好きのする笑みを浮かべる。
「七決闘は陽の出と共に一日一試合、七日間休みなく毎日やるんだ」
ライダは開放された右手で、その長い金髪を束ねていた髪留めを外しながら嬉々として言葉を続ける。
「初日と二日目、陽が落ちても決着つかなくて。二日連続で引き分けになったんだ。審判任された王子が可哀想だったなぁ」
可哀想に、と繰り返しながらもその表情は本当にそう思っているのかどうか怪しいほどの笑みに満ちている。男は楽しそうなライダの様子に、こちらもやはり笑みを浮かべて相槌を打つ。
「ところで、レイはどうしてる?」
「変わりございません。他の私兵と仲良くされてらっしゃいます」
ライダは安心したようにやや固い背もたれに身を委ねた。
レイを引き取ってからもう六、七年が経過する。紆余曲折はあったが、強くなりたいという本人の強い希望でライダが直々に剣技について指導した。つい最近成人の儀を迎え、やはり本人の希望によりクラウン家の私兵として働いている。屋敷に帰る度にかかり稽古を申し入れられるが、最近次第に打撃が重くなり精度が上がっている。ライダにしてみれば騎士として引き抜きたいところだが、当の本人が頑なにそれを拒んでいた。
「あいつ才能あるからなぁ。すぐ近衛になりそうなもんだが」
だめなんだよな、と残念そうに肩を落とすライダに男は控えめながら同意したように頷いた。
それから何の会話もないまま馬車に揺られていたが、しばらくしたところで不意にライダは身を起こした。広がっていた髪を再び束ね直し、窓の外に視線を向ける。しかしその途端、背後に視線を感じて振り返ると予想していた姿がそこにあった。
『ライダ殿、急ぎ戻られよ。主が』
「エンベスト、止めてくれ!」
困惑に顔を染めた精霊の顔を見るのはこれが二度目。一度目はもう思い出したくもない、十三年前だった。
目の前の執事に言ったつもりであったが、怒鳴るような声は御者にも届いたようだった。馬車は荒々しいながらも何とか指示通り歩みを止めた。止まるなり再び腰に剣を佩いたライダは馬車から飛び出し、五頭のうち先頭の馬を馬車から外した。
「すまないが借りるぞ」
返答も待たずにライダは鞍もない馬に飛び乗り、屋敷を目指す。馬車よりはずっと早い。
走りだし、スピードに乗ったところでライダは精霊に目を向ける。
「何があった?」
走る馬と並んで飛ぶ精霊に声をかけると、精霊は夕陽のような橙色の瞳を細め表情を翳らせる。
『客人相手に、剣を抜いて……』
乗り慣れない鞍無しの馬に体勢を崩されながらも、なんとか維持をする。会話一つとっても気を抜くことができなかった。
「仕掛けたのはユーラか」
『はい』
予想通りの返答にライダは思わず舌打ちをし、睨むように前方を見据えた。客人が誰であるか、ライダには大方の検討がついていた。そしてそれが恐らく外れていないであろうことも、予想できた。
* * *
程なくして屋敷につくと、門の前に泣きそうな顔の少年を見つけた。馬から飛び降りて近づくと少年の頭を少し乱暴な手つきで撫で回す。
「そんな顔するな。大丈夫だ」
言いながら、少年と共に門の脇に立っていたもう一人の私兵に視線を送る。
「代わりを出して少し休ませてやってくれ」
「はっ」
ライダが声をかけると、私兵は待っていたと言わんばかりに声を張り上げた。それを確認するとライダは少年を置いて屋敷の正面玄関に近づく。どうやら玄関ロビーで撃ち合っているようで、鋭い音が扉越しにもよく聞こえた。
重い扉を引き開けると案の定、目の前に剣を携えた人影が二つ目に飛び込んできた。片方は弟であるユーラ。もう一方は細身のユーラより一回りも二回りも大柄に見える黒尽くめの男。黒尽くめの男は剣を手にしているが、鞘から抜いてはいない。金属製の鞘を盾代わりにユーラからの攻撃を確実に受け流している。
どう贔屓目に見ても無礼を働いているのはユーラの方だった。ライダは腰から鞘ごと剣を外し、左手に構えると二人の間に割って入った。
「兄様――!」
鞘で受け止めたのはユーラの剣。右側はまったくの無防備だったがライダに対しての攻撃はなく、むしろ少し安堵したかのように息を吐いている。
「下がれ、ユーラ。頭を冷やして来い」
「しかし!」
「下がれ」
強めの口調で言うとユーラはようやく剣をおろし、ライダとともに屋敷にやってきた精霊に付き添われて奥の部屋へと去っていった。その姿を見送ってから、ライダは困ったように事の成り行きを見守っていた執事に目を向ける。
「奥の客間は空いてるか?」
「はい」
執事の返答にライダは一つ頷くと、少し視線を上げて男を見やった。
「付き合え」
ユーラに向けたものより軽い口調で声をかけると、男は躊躇いもせず一度頷いた。
ライダは男と共に部屋に入ると、少しばかり怯えたような使用人たちを部屋から追い出した。使用人が置いていったワゴンの上に用意されていた酒瓶を手際よく開け、瓶から直接酒を口内へ流し込む。ごくりと喉を鳴らして飲み下すと、喉がほんのりと暖かく刺激された。
「いくつか聞きたいことがある」
ライダは言いながら、開けたばかりの酒瓶を男に差し出した。
何を盛るつもりもない、ただ膝を突き合わせて純粋に話がしたい。平民たちの間ではそのような時、こうして一つの酒瓶を回すのが常。ライダもそれに倣ってみた。しかし男は驚いたのか、瓶とライダを交互に見比べて瞬いた。
「なんだ、飲めないのか?」
ライダが尋ねると男はようやく瓶を受け取った。
「上流貴族でもやるものなのか?」
ライダの溌剌とした声とは違い、男の声は低く静かながらよく通る。慣れた手つきで酒を飲んだ男を見ながら、ライダは口元を歪めて笑みを浮かべる。
「俺くらいだろうな」
男から酒瓶を受け取り、ライダは手入れの行き届いた部屋の中央にあるソファへ腰を下ろした。それを見て、男もその向かいへ腰を下ろす。
「お前、精霊持ちか?」
微かな既視感を覚えてライダが尋ねると、男はあっさりと頷いた。
「この部屋に不可侵の結界を張れるか? あの様子だとまた突撃して来かねないからな」
続けてそう言うと、男は短く“やってくれ”と呟くように言う。次の瞬間、部屋全体が何かに覆われたかのように鈍い光に包まれた。音すらも遮断されたかのような静寂が訪れ、ライダはそれを紛らわせるように一度咳払いをした。
「名を聞いてなかったな。俺はライダ・クラウン」
名乗ってからもう一度酒を飲み、今度は二人の間に鎮座するテーブルの上へそれを置いた。
「グレイス」
ライダが家名を名乗ったにもかかわらず、グレイスはそれをしなかった。酒談の場でそうとしか名乗らないのであれば、恐らくは名乗れる家名がないのだろう。ライダはそう判断した。
「まず、用件は何だ? それから、その首に下げているものをどうやって手に入れた?」
ちょっと気になったから聞いてみた、というような比較的軽い口調でライダは尋ねた。一瞬の間の後、グレイスはまず首に下げていたものをとってテーブルの上へ転がした。
「ダズから預かった。この国ではこれがあれば何かと便利だと言われた」
グレイスの表情の変化は乏しく、その顔に感情という名の変化はなかったが嘘を言っているようには見えなかった。ライダがテーブルの上に視線を落とすと、堅牢な盾の紋をあしらったペンダントトップが目に留まる。
「用件は二つある」
間違いなくダズのものだ、と確信したところでグレイスが再び口を開いた。
「一つは俺自身の用件。謝罪に来た」
抑揚のない声で淡々と語る様を見ながら、ライダは知らず知らずのうちに拳を固く握りしめていた。
「もう一つは頼みがあって来た」
グレイスが言い終えるのと同時に、ライダは細く長く息を吐き出した。息を吐くことで強張った体を意識的にほぐしながら、短い間に返す言葉を拾い集める。
「頼みってなんだ」
謝罪に来たと言いながら、頼みもあるという。ライダは随分と不躾な来客に、意図の読めない方の用件について尋ねることにした。すると、先に謝罪について触れてくるであろうと思っていたのか、グレイスの表情がほんの僅か曇るのが見えた。
「門番をしていた子供、この屋敷で…………」
そこまで言葉を発してから、グレイスは押し黙った。続く言葉を探すように視線を落とし、口を閉ざしたまま何かを考えているように見える。ライダの目に映る男が小さくなったように見え、助け舟を出すように“ここで養っている”と告げた。その言葉に合点がいったのか、グレイスは視線を上げる。
「そうか」
そうして一度頷き、再び押し黙った。
今度は発する言葉を選んでいるのか、先ほどのように小さく見えることはなかったが中々口を開かない。やりづらい、そうライダが内心で嘆息した頃になってようやくグレイスは顔を上げた。
「もう一人、増やせないか?」
「は?」
言われて、思わず間の抜けた声がライダの口から漏れた。
「増やすって、何をだ」
「子供だ」
どうにも意図が汲めず、ライダは思わず眉間にしわを寄せる。言葉不足とさすがに察したのか、グレイスは再び考えるように視線を落とした。
「門にいた子供と、同じ顔の子供だ。痩せてはいるが……」
グレイスの言う、門にいた子供というのはすぐに察しがついた。というよりも、この屋敷の門の前に立てる子供など一人しかいない。レイのことだ。そして、それと同じ顔ということは探していた双子であろう。
「どうしてお前が……」
「赤子の頃、ゲレリィに連れて来られていた」
予想もしなかった言葉にライダは思わず立ち上がり、鞘に収められたままの剣をグレイスの眼前に突きつける。さすがにグレイスも少しばかり驚いたような表情でライダを見上げた。
「返答によっては斬り捨てるぞ」
ライダの言葉にグレイスは逡巡し、頭を振った。
「今は困る」
「いつならいいんだ」
「すべてやることを済ませた後なら」
死ぬことを恐れた様子もなく、どちらかというとそれを受け入れているかのような言動にライダは剣を下ろした。要するに、呆れたのだ。溜め息を付いてライダは再び腰を下ろした。
「どういう状況なんだ、説明しろ」
正直に言うと、知りたくない。そう思うライダの心中を悟ったかのように、グレイスの口にした言葉はあまりにも現実離れし、そして酷いものだった。しかし、それを語るグレイスの口ぶりはやはり淡々としていた。
拾ってきた赤子に愛情は注がれなかったこと。人を切り裂くためのナイフと共に日々を送っていたこと。その頃には殺戮を繰り返すことに疑問を持ち始めたグレイス。まるでその代わりとでも言うかのように、赤子は常に血を見て育ってきたこと。赤子は物心ついた頃にはナイフを手にし、やがて人を殺すようになったこと。そして、なによりライダの心を逆撫でしたのは、ゲレリィのボス・グスタンが少年を男娼のごとく扱っていたという事実。
話が終わっても、ライダはすぐに口を開く気にはなれなかった。そんなライダに追い打ちを掛けるように、グレイスは静かな声で呟いた。
「口が利けなくなっている」
驚いたライダの視線を、グレイスは真正面から受け止めていた。そして感情の見えない表情のまま頭を下げる。
「ダズがゲレリィに来た頃はまだ喋っていたんだが……」
「おい、待て」
とんでもない事実を耳にして、ライダは目を見開いた。明らかな驚愕の声に、グレイスは顔を上げる。
「ダズは、ゲレリィにいたのか……?」
悲痛な表情を見せるライダに、グレイスはようやく言ってはいけなかったことなのかもしれないと気付いた。しかし既に遅い。間違いなくライダの耳にこの事実は届いてしまっていた。
「……隠すつもりはなかったんだが、九年前にゲレリィに来た」
グレイスの言葉を耳にしながら、ライダは頭を抱えるようにして俯いた。九年前といえば、ダズはちょうど十三になる年。ダズが屋敷を出たのは成人の儀が執り行われる少し前、やはり十三歳だった。屋敷を出てすぐにゲレリィに身を寄せ、以来ほんのつい最近までそこにいた事になる。聞いたこともない組織であればどれだけ心が軽かったか。よりにもよって、世界最悪と呼ばれる殺戮集団・ゲレリィである。
ちらりと向けた視線の先で、グレイスが居心地悪そうにしている。余計なことを言ったと、少しは後悔しているのだろう。
「すまない……」
ライダはそう言うと大きく息を吸って、体の中に溜まったどす黒い感情とともにそれを吐き出した。
「とりあえず、ダズのことはいい。その子供は喋らないのか?」
息を吐いたことで少し気分が落ち着いた。ユーラをこの場に同席させないで良かった、と考える余裕もある。
「九年前は喋っていたが、ここ何年かは誰も声を聞いてない」
グレイスの言葉に相槌を打つようにライダは頷いた。
「もういい、大体分かった。だが、条件がある」
恐らくもうこれ以上の情報は得られないだろうが、仮にあったとしても聞きたくはなかった。グレイスに続けさせないよう、ライダは口早に言葉を発した。
「今の話、墓場まで持って行け。決して口外するな」
ライダの言葉を聞き、グレイスははっきりと頷いた。
「分かった」
一言、端的に返された言葉だったが、ライダにはその言葉が信用に足るものと感じられた。グレイスの黒い双眸に、曲がらない信念の色が見え隠れしている。
「そういえば、子供の名はなんて言うんだ」
不意に名前を教えられてないことに気付いて尋ねたが、グレイスは首を横に振った。教えられない、という意思表示のようだった。
「フィンレイに言われている。名前は変えさせたほうが良いと」
「フィンレイ?」
「ゲレリィを潰した、俺の友だ」
微かに揺れたグレイスの瞳をライダは見逃しはしなかったが、あえて問いただしもしなかった。あまり良くない結果であろうことは目に見えている。
「ならついでに、お前のその名も変えたほうが良いな」
そう言うと、グレイスは変化の乏しいその顔を疑問に染めてライダを見返した。
「グレイス。古代言語で“魔憑き”を意味する」
目を見張るグレイスに、ライダは小さな嘆息を返した。
「あまり人前で名乗っていい名ではないな。詳しい者が聞けばすぐにバレるぞ。心臓喰らい」
「……そうか」
再び視線を落としたグレイスに目を向け、ライダは思案するように眉間にしわを寄せた。
二人の間を沈黙が流れるが、長くないその沈黙を破ったのはグレイスの方だった。
「俺は別に、構わない」
「こっちが構うんだよ」
ライダはテーブルの上に転がしてあったペンダントを手に取ると、グレイスに向かって投げ渡す。ライダの読み通り、グレイスはあっさりとそれを受け止めた。
「ダズに会ったら返してやってくれ。どうせ帰って来る気なんかないだろうからな」
「帰る気は、一応、あるらしいが……」
グレイスはそうフォローしてみるが、ライダはそれを鼻で笑って応じた。
「早くて三十超えてからだな。剣も駄目、精霊や妖精に関する知識の会得も不得手、そのくせ人一倍頑固だ。どうせ自分はまだまだだとか言って放浪してるんだろう」
心底呆れたようにライダはそう言い放ち、気分転換でもするかのように立ち上がった。
「――エレツっていうのは、どうだ?」
思いついた名を口にして、腰を下ろしたままのグレイスを見やると、何も言わずにライダを見返してきていた。ライダはまだ意味を理解してなさそうなこの男に向き直る。
「同じ古代言語だ。エレツは“命”を意味する。お前にはおあつらえ向きだろう?」
ライダがそう言うとしばらくグレイスは押し黙り、言われた言葉の意味を反芻するかのように虚空を睨む。その姿は殺戮者としての名残を留めているのか、ライダの目にはどこか不気味に映った。
「……分かった」
「それから、謝罪はやめておけ」
ライダの言葉を聞き捨てならないとばかりに、グレイスが立ち上がる。
「見ただろ、さっき。話になんかならないぞ」
「だが……」
口ではそういうものの、グレイス自身も話し合いをするには難しそうなユーラの態度を思い出しているようだった。しかし難しそうと理解はしているものの、諦めようとする様子はない。
ライダはあまり気は進まなかったが、外に続く大きな窓を指して口を開いた。
「ここからしばらく南下したところに、別邸がある。彼女の墓はそこだ」
これから何年経過しようとも、恐らくユーラの態度は変わらない。それに謝るならばユーラではなく、本人であろう。ライダの考えた末の結論がそれだった。
何故教えたのか、と問われればライダはおそらくこう答えるであろう回答を己の中に見出していた。それは他の誰でもない、今目の前にいる、かつて“血飲の殺戮者”や“心臓喰らい”さらには“魔憑き”とまで揶揄され呼ばれていた男の目が、それらを彷彿とさせるものではなかったからだ。
「あと」
既に部屋の出入り口に向かい始めたその行く手を阻むように、ライダは前に立ち塞がる。
「悪いがこちらは通行止めだ。無礼は承知だが、窓から出てくれ」
ライダのその言葉に怪訝な顔を見せるが、ほんの一息の間に何かを納得したように頷いた。
「恩に着る」
そういうと、グレイスは踵を返して窓に向かう。その背を見て、ライダは胸の内に吹っ切れない何かが沸き起こるものを感じたが見て見ぬふりをした。
窓を開けグレイスが柵を踏み越える瞬間、
「エレツ」
ライダの言葉にグレイス――エレツは一度振り返り、ようやくそれと見て取れる笑みを浮かべた。再び前を向くとすぐに柵を越え、今度は振り返ることもなく厩舎の方へ姿を消した。
ライダの視界から彼が姿を消したのと、部屋に張られた結界が消えるのと、どちらが早かったかは分からない。しかし次の瞬間、予想を違わず怒りに肩を震わせたユーラが、勢い任せにドアを叩き開けていた。予想と違っていたのは、その手に抜き身の剣が携えられていることだった。ライダは眉を顰めると剣を抜き、ユーラに向かって真っ直ぐに構えた。
「冷静になれ」
弟に向けて剣を取るなど、できることならしたくはない。
「殺したい気持ちは分かるが……殺さないと、あのとき言ったのは嘘だったのか?」
ユーラの視線が部屋を巡り、目的の姿がないと悟るとその足が玄関ロビーに向く。
「待て、ユーラ!」
鋭い声にユーラがその場で足を止めた。振り返った目は、やり場のない怒りで満ちている。
「どうしても行くつもりなら、力ずくで止める」
語調を強めて言い放つと、ユーラの手から剣が落ちた。ライダは剣を収めて近くへと歩み寄った。
「ど、して……止めるんです……。あいつは、サラも……その子供も殺したんです!」
崩れ落ちるユーラの肩を支え、ライダはしっかりと抱きしめた。
「恨むなら、あのとき間に合わなかった俺を恨め」
あいつを恨むな、とは口にできなかった。
ユーラがあの日から抱えている苦しみも、そして今歩き出そうとしているかつて心臓喰らいと言われた男の苦しみも、ライダにはその一端しか理解することは出来ない。しかし、どちらかが剣を取り、どちらかが傷を負うことは双方の苦しみを深くする。既に幾重にも引き裂かれそうになっているユーラの心には、それはひどく重いものとしてのしかかる。指をくわえて見ているだけはしたくなかった。
いつか再び相まみえる日があるだろうと、根拠のない直感が胸の内にあるのを感じ、ライダはユーラにも気づかれないよう小さな溜め息を吐いた。
了