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再生物語  作者: はりまお
1/1

再生物語

1




昔の話である。


とある町から遠く離れた山奥の土地に小さな村があった。人口は千人足らずで過疎化の進んだ閑散とした村であった。


その村には秀夫という男が住んでいた。


彼は村の中央部に沢口商店という小さな駄菓子屋を構えていた。しかし、この店は決して毎日客でいっぱいになるような店ではなかった。


昔、村は土木業や養蚕業で栄えており現在の何倍も人口が多かった。しかし、次第に村の若者たちの都市部への進出が進むようになり、それらの産業は徐々に廃れていき村は活気を失っていった。


それにつれて沢口商店の売れ行きも思うように伸びなくなってしまったのだ。かつては毎日学校帰りの子供たちで繁盛する人気の老舗であったが、今では村の子供の数自体が減少したせいで経営は厳しい状況だった。壁のペンキが剥げかかっており、『沢口商店』と書かれた看板には虫喰いの痕が目立つが、それらを直す経済的余裕はなかった。


そんな現在ではすっかり落ちぶれてしまった沢口商店だが、この店は創業四百五十年という長い歴史を持つ村では名の知れた店であった。


秀夫には五年前に亡くした妻との間にさとしという男の子がいた。


秀夫は多少抜けているところがあったのに対して、哲は年のわりにしっかりした子供だった。秀夫は自分で使えるお金を削って哲に不自由ない生活をさせていたが、哲は生活が少し苦しいことになんとなく気づいていた。そのため、哲はあまり多くを求めたり我儘を言ったりすることはなく父親の手伝いは嫌がることなく行った。このことは秀夫にとってはとてもありがたいことだった。


二人はお互いの存在に励まされ、また励まし合いながら生活していた。




穏やかな陽光が窓から差し込んで店内を明るく照らす日の午後だった。


秀夫は商品の仕入れ作業を行っていた。来客が少ないのでこの作業は数ヶ月に一回のペースで行われていた。


沢口商店は建物は小さいが商品を置くスペースは広くとってあり商品の種類と量は豊富だった。そのため商品の整理はなかなか大変な作業だった。


秀夫は店先の段ボール箱の山を店内に移動させてから段ボール箱の封を切って中の追加商品を取り出した。


そして、追加した商品を陳列するためのスペースを作ろうと棚の上に綺麗に並べられた黄粉餅を移動しようとする。


だが、そのときに手を滑らせてしまいそのうちのいくつかが床に落ちてしまった。


秀夫は溜め息を吐き、転がった餅を拾おうとする。


しかし、すぐにその手を止めた。


よく見てみると、裏返った餅の表面に小さな黒い“何か”が付着していた。それは黄色の世界の中でよく際立っていた。


“何か”は秀夫に驚いたのか、ゆっくりとした動きで餅の反対側へ向かっていく。それは、とても小さな黒胡麻のような虫であった。おそらく、餅を包装していたビニールの袋に穴が空いていたのだろうと思われた。


しまった――。


秀夫は顔を歪め、 それを即座にゴミ箱に捨てた。その後、慌てて他のすべての商品をチェックして少しでも古い物はすぐに処分した。


すると、商品の四分の一ほどがなくなってしまった。虫が混入している物は他にはなかったが、秀夫は思わず山になっているゴミ箱を前に呆然としてしまった。秀夫は店内の脇に置いてある椅子に腰掛け、机に肘を乗せて頭を抱えた。


俺は最低だ。食品を扱う職に就いている以上、一番に気を遣うべきことは衛生面のはずなのに。

虫入りの商品を客が買ってしまえば店の信頼は地に堕ちてしまう。これからは店内チェックをもっと厳重しなければならない。

それにしても、古い商品が店内にこれほどあったとは思っていなかった。このごろは来客数がさらに少なくなった気がしないでもない。客が商品を買っていかないので売れ残った商品がいつまでも残っていたのだろう。

なんとかしなければこの店は潰れしまう。沢口商店はご先祖様が代々守ってきた歴史ある店なのだから、それだけはなんとしてでも防がなければならない――。


「……あの、すいません」


秀夫はその声で顔を上げた。思い悩んでいるうちにいつの間にか眠ってしまっていたようだ。目の前には男が少し困ったような表情をして立っている。秀夫は慌てて襟を直しながら腰を上げた。


「お会計よろしいですかね」


男は財布を取り出しながらそう言った。手にはこの店の商品である味噌団子が握られている。秀夫ははいと呟いて男を精算口へと案内した。


秀夫はお金を受け取りながら、思わず男の顔をまじまじと見つめてしまっている自分に気がついた。


見たことのない顔だった。店に訪れる客のほとんどは村の人間なので、村の外の人間が来店するのが秀夫には珍しかったのだ。以前は町の方からの来客も多かったのだが、近ごろはめっきり減ってしまっていた。顔を知らないというだけでこの男が村の外の人間だとは限らないが、どちらにせよ、常連でない新たな客が店に立ち寄ってくれることは嬉しいことだった。


男が店を出てからしばらくして、秀夫は店の前に何か黒い物が落ちているのに気がついた。


店を出て拾い上げてみるとそれは小さな巾着袋だった。触ってみると硬く滑らかな感触がある。おそらく先程の男が落としていったものだろう。


秀夫は左右を振り返りながら男の姿を探した。しかし近くに男の姿はもうなく、いつもの閑散とした田舎道が横たわっているだけだった。


哲は学校に行っていて留守番は頼めないし、客が少ないとはいえ店を施錠して遠くに探しにいくわけにもいかなかった。仕方がないので、秀夫は拾得物としてそれを預かることにした。


秀夫はあの巾着袋がもし大事なものなら、男は落としたことに気づいた時点で来た道を引き返して再び来店するだろうと考えていた。しかし男はその日のうちに現れなかった。次の日も、そのまた次の日も男が現れることはなかった。


秀夫は巾着袋の中身が気になった。触ってみると、やはり硬くて滑らかな感触がある。袋を弄っていた秀夫は驚いてにわかに手を離した。針のような、尖ったものに触れた気がしたのだ。この中身は何なんだろう。秀夫の好奇心はますます膨れ上がる。そんな自分が子供じみている気がして彼は少し自分が恥ずかしくなった。秀夫は多少の罪悪感を感じつつも、袋の口を緩めてそっと中を覗いてみた。


中に入っていたのは栗だった。


丸々とした大きな栗が八個入っている。


栗の仄かに甘い薫りが鼻腔を刺激した。目を閉じると栗の木々が生い茂る森にひとり佇んでいるような不思議な気分になった。


秀夫はさらに一週間待ったが、男が店を訪ねてくることはなかった。




ある日の晩、沢口商店の食卓には栗御飯が並んだ。


秀夫はあの男がもう店に来ることはないと判断したのだ。それに、男が来るのをずっと待って美味しそうな薫りを放つ栗を虫の餌にしてしまうのはあまりにももったいないことだと思えた。


「父さん、今日の栗御飯はいつも食べるものと違うね。とても美味しいよ。どこからもらってきた栗なの?」


哲が飯をかき込む箸を休めて口いっぱいに飯を頬張りながら尋ねる。


「この栗は実はな、客が落としていった巾着袋の中に入っていたものなんだ。しばらく待ったがその客が店に来ることはなかった。こんなもの虫にやるのはもったいないから俺たちで頂くことにしたんだ。そんなに美味いのか?」


秀夫は箸を取り、湯気の立つ茶碗を持って顔に近づけた。栗の甘い薫りが食欲をかき立てた。頬張ると、心地よい食感と仄かな甘味が口全体に広がった。哲の言うように今まで食べてきた栗とはどこか違う不思議な味だった。二人はまるで東洋人が西洋の料理を初めて食べたときのような気持ちで箸を動かした。量こそ少なかったが二人はこの晩の夕食に十分満足していた。


秀夫は栗を八個すべて食べずに一個残して庭に埋めることにした。


将来、できることなら秋に実るこの栗を毎日のように食べてみたいと思ったのだ。秀夫は庭の片隅に適当な深さの穴を掘り、そこに栗を置いてそっと土を被せた。そうして埋めた場所に如雨露で軽く水をかけて手を合わせた。


翌日、秀夫がふと庭を確認してみると、なんと小さなかわいらしい芽が顔を出していた。


秀夫は手を合わせていたものの、芽を出すこともなく忘れ去られて終わりだろうとあまり期待していなかったところがあったので驚かされた。


早速如雨露で水を与えてやると、小さな双葉が日光と滴を受けて鮮やかな緑色に輝いた。如雨露の雨に打たれて小さく芽が揺れている様はまるで苗が喜んでいるかのように見えた。それを見た瞬間、秀夫の中ににわかに苗に対する愛着が沸き起こった。


秀夫は雨天の日以外は忘れずに水を与え続けた。また、苗木店から肥料を買ってきて苗の周辺にばら蒔いた。


秀夫の手入れのおかげか栗の苗はもの凄いスピードで成長していった。日を追うごとに苗の背はどんどん伸びていき、葉の数はますます増えていった。芽を出して三週間後には茎の表皮がゴツゴツした樹皮で覆われ始めた。梅雨入りには栗の樹の背丈は秀夫の腰の高さにまで及んだ。蝉が鳴き始めるころになると、樹は哲を超えて秀夫の背丈に迫る勢いだった。また、このときの樹の太さは秀夫の足首ぐらいはあった。栗の樹の成長速度は驚異的であった。


秀夫は栗が発芽したころと同じ時期に、村の小学六年生の卒業の記念樹として、校庭の花壇に数十本の桜の苗木を植樹するボランティアに参加していた。しかし、栗の樹は七月のはじめにはそれらの十倍以上の高さと太さを誇っていた。秀夫にはこれら二種類の樹がほぼ同じ時間を経て育っているということが信じられなかった。


栗の樹のもととなったあの栗はふとしたことで異世界から紛れ込んだもののような気さえした。それくらい、栗の樹の成長速度は非現実的に速かった。


六月の終わりには薄いやわらかな黄色の花がいくつか咲き、やがてそこに黄緑色の小さなかわいらしい(いが)ができた。毬は日を追うごとに樹が成長するのと同じように膨らんでいった。秀夫はいつしか、毎朝樹の成長を確認することが楽しみになっていた。




2




暑かった今年の夏もあっという間に過ぎ去り、村はすっかり秋の気配に包まれていた。


夏の猛暑と日照りに耐えた庭の栗の樹の毬は茶色く色付き始め、叢からは取り外し忘れた風鈴の音とともにコオロギの鳴き声が聞こえてくる。村を取り囲む広葉樹林は秋一色に染まる。村人は美しく彩られた紅葉を眺めて感嘆するが、秀夫の気持ちは沈んでいた。


今年もこの村に奴が来た。


奴とは元蔵のことである。


元蔵は大手企業の社長の息子だ。彼は東京在住だが、日本各地に別荘を持っていて時折赴くのだ。この山中の小さな村の東側にも別荘を持っている。


秀夫は元蔵を横暴で自己中心的な性格を持つ人間だとみなしていた。


元蔵は、ある日突然この村にやって来て(村長曰く、許可は得ていないとのこと)、自分が持っている金と権力を誇示し、その粗暴な振る舞いで周囲の人間を困らせていた。しかも、一旦頭の線が切れてしまうとブレーキが効かなくなり、何をしでかすかわからないのだ。そのため村人は元蔵を嫌っていたが、彼の持つ独特な威圧感と金と権力を背景にした脅迫的な文句に多くの者が彼に口出しできないでいた。村に元蔵がやって来ると別荘近くの村人は家に閉じ籠った。


秀夫と元蔵はトラブルが絶えなかった。

秀夫はいつも元蔵の問題行動に対してまったく臆すことなく真っ向から抗議していた。村の外から来た者が身勝手な行動で村の秩序を乱すことが、彼には我慢ならないことだったのである。元蔵は秀夫より十歳近く年下だが、秀夫の抗議にいつも汚い言葉と威嚇するような態度で応戦した。元蔵も自己の言動に対してただ一人堂々と批判する秀夫を好ましく思っていなかった。




ある晴れた日の午後、秀夫は箒を片手に店内の掃除をしていた。


この日は思いついたように続いていた残暑が弱まって気温が落ち着いていた。どこかから小鳥たちが囀ずっているのが聞こえてくる。


秀夫はふと自分の名前が呼ばれたような気がして振り向いた。見ると、三軒隣の女の子が後ろに手を組んで立っていた。


「おじさん、五円チョコを九つと味噌団子を三つちょうだい」


女の子はにこやかにそう言った。


「はいはい、今日はいつもより多めに買うんだね」


「うん!今日はね、お友だちのユキちゃんとミナちゃんが家に遊びに来てくれたんだ。三時のおやつは昨日でなくなっていたから、今日の分を買うついでに二人の分のおやつも買ってあげることにしたの」


秀夫は穏やかな気持ちで小さなお客さんに応対した。女の子はこの店の常連客だった。客が減っていく中、この女の子は毎日のように店を訪れてくれるのだった。秀夫は女の子にお釣りを渡す際、いつもありがとうねと感謝の言葉を贈った。


精算口で会計を済ませた女の子は小さなビニール袋を片手にぱたぱたと駆け出していく。途中、店の入口付近で秀夫を振り返り、「おじさん、ありがとう」と笑顔で言い残して再び駆け出そうとした。


そのとき、秀夫は息をのんだ。


女の子が走り出す先に人がいたのだ。


どん。女の子は誰かに勢いよく衝突した。ビニール袋が地面に落ちる。


「ごめんなさ……」


思わず謝ろうとする女の子。衝突された相手はゆっくりと振り返る。


その様子を見ていた秀夫は秀夫は思わずあっと声を洩らしていた。


突如、見上げようとする女の子の顔に容赦のない平手打ちが飛んできたのだ。


大きな音が辺りに響く。


倒れた女の子は右頬を片手で押さえながら戸惑いを隠せないといった様子で相手を仰いだ。


しばらく鉛のような沈黙があった。やがて、その目にはあっという間に涙が溜まっていった。女の子は相手に殴られるほどの悪いことをしてしまったという罪悪感、そして何より、子供相手に平気で手をあげる周りとは完全に異質な大人を前にした恐怖を抱いているに違いなかった。


女の子は買った商品はそのままに、わっと泣きながら逃げていってしまった。


女の子は運が悪かった。ぶつかった相手は元蔵だったのである。


その一部始終を目撃していた秀夫は、声を荒げて元蔵に詰め寄った。


「おい、ひどいじゃないか。いくら相手からぶつかってきたとはいえ、相手は小さな子供だぞ!」


悪態をつきながら服の埃を払う仕草をしていた元蔵は秀夫の怒声に反応して振り返った。瞬間、彼の瞳に暗く澱んだ光が差した。


「誰だと思えばまたお前か。俺のことがひどいだって?お前、今の光景見てて、どっちが悪いのかもわからねえのか。あのガキ、俺の北九州限定名残橋饅頭を台無しにしやがってよ。殴られて当たり前だろうが。なあ、そうだろう?」


元蔵が両脇に立っている黒いスーツの男たちに目配せすると、二人は無表情で首をこくんと傾けた。その様子は事務的であった。見れば、元蔵の足元には食べかけの饅頭が転がっている。


「確かにそれについてはあの子が悪かったよ。でも、だからといって人を殴っていいのか?それにあの子はちゃんと謝ろうとしていたじゃないか」


秀夫が諭すようにそう口にすると、元蔵は眉根に皺を寄せて舌打ちをした。


「すいませんでした、なんて謝って済む問題じゃねえよ。あの饅頭いくらしたと思ってんだ?十個入り九八〇〇円もしたんだぜ。アイツには弁償してもらわなくちゃあな。

そもそもお前とアイツはまったく関係ないんだろ。何でお前がムキになる?他人のガキなんかどうでもいいじゃねえか」


「他人といっても目の前であんな光景見せられて黙っちゃいられないよ。大の大人が子供相手に本気で殴るなんて……。そんなことしていると周りから人がどんどん離れていくぞ。大人のくせに行動が幼稚なんだよ。それにこの前もあんたは……」


「ああ、うるせえぞ!」


パンッ。突如響き渡る破裂音。


驚いて見ると、元蔵の右足が女の子が落としたビニール袋を踏み潰していた。中からはぐしゃぐしゃになった味噌団子が覗いていた。秀夫の眉間に思わず皺が寄る。


「――うちの商品に!」


「行くぞ、こんな奴相手にしてても話にならねえ」


元蔵は言い終わらないうちに秀夫に背を向け二人の付き人を従えて道の向こうへと歩いて行こうとした。途中で元蔵はこちらを振り返り、


「口の聞き方に気をつけろ。俺は金持ちで権力者だ。思ったこと、考えたことはどんなことでも実現できる」


と言い、含みのある笑い方をすると、再び秀夫に背を向けてそこから消え去った。


嵐のような騒動は収まり、通りはいつもの静寂に戻った。秀夫は無残な姿となった商品と食べかけの饅頭を前にしばらく呆然とするしかなかった。




その日はいつもより幾分肌寒い日だった。


秀夫は栗の樹の確認のために厚着をして裏口から外に出た。太陽はまだ顔を覗かせたばかりで空は白く空気は澄んでいた。道端の紫陽花の葉や畑のレタスには白く薄化粧をしたように霜が降りていた。少しずつ冬の気配が感じられるようになっていた。


庭に目を向けると、昨日まで確かにそこに実っていたはずの毬がすべて消えていた。水分や養分を失って変色した長くて大きな葉のひとつが、ひらりと宙に舞って地へと着陸した。一瞬、頭に嫌な考えが浮かんで秀夫は焦ったが、よく目を凝らすと樹の根元に茶色くて刺々しい物体が確認できた。それは紛れもなく栗の毬であった。毬は一夜ですべてが落果していた。


秀夫はおお、と声を上げ、思わず口を綻ばせつつ毬の一つを両手で包み込むように慎重に拾い上げた。


大きな毬だった。秀夫の手のひらからはみ出しそうなぐらいである。秀夫は裏口の脇からバケツを持ち出し、落ちている毬を手に刺さらないように注意しながらすべて拾い集めて室内へ持ち帰った。


その日の夕方、秀夫は早速栗を用いて調理に取りかかった。


まず、毬でいっぱいのバケツから一際大きな毬を取り出し、刺に気をつけながら包丁で切り開いてみた。瞬間、不思議な甘い薫りが室内に広がった。中には、大きな栗が窮屈そうに五個詰まっていた。それを目にした途端、秀夫の心の中に自分が一から栗を育てあげたという達成感と、自分の育てた樹から実った栗を食せるということに対する喜びがにわかに沸き上がったのだった。


秀夫が作ったものは、やはり栗御飯だった。


美味しそうな薫りの漂うそれは、春に食べたときのあの味を思い起こさせた。口の中に広がる旨味は食欲をかき立て、箸を持つ手は止まらなかった。哲は、今食べている栗は半年前の栗が樹となり成長してつけたものだと知って驚きを隠せないといった様子だった。翌日からは哲も毎朝樹の成長を確認するのが日課となった。


冬が到来するころには、栗の樹は夏の間にたくさん身につけていた緑の衣をすべて払い落として一糸纏わぬ姿となった。その姿は少々情けない印象を与えたが、決して枯れてしまったわけではなく、春の陽光を夢見て枝の側面に新たな命を育んでいるのだった。


栗の樹は二人が見守る中、一つ季節を越えるたびに大きく成長を重ねていった。夏に襲来する台風に負けないようにより深く根をはり、頂芽は果てない空を目指してより高く伸長し、空を覆い尽くさん限りに枝を広げた。幹は強風や冬の豪雪に襲われるたびに太く堅固になっていった。栗の樹が大きくなっても驚異的な成長速度が落ちることはなく、むしろ年を重ねるごとに上がっていくように思われた。




3




十九年の歳月が流れた。


顔に皺が増え、頭に白いものが混じり始めた秀夫はもうすぐ五十歳を迎えようとしていた。


あれから相変わらず売れない年が続いたが、彼は店を潰す気など更々なかった。というのは、沢口商店は昔から先祖代々受け継がれてきた歴史ある老舗であり、経営を続けることが彼には使命感のように思えたからだった。ギリギリの生活の中、秀夫はかつての忙し過ぎて寝る暇もないような時期が再び訪れると信じていた。


息子の哲はというと、すっかり成長して長身の好青年となっていた。哲は他の若者たちのように町へ働きに出ていくことなく、父親の家業を継ぐ意志を持っていた。毎日売れ残りの商品を前に頭を抱える父親の背中を見て育った哲は、自分がなんとかして売り上げを伸ばしたいと考えていた。そんな息子の思いが秀夫には何よりも嬉しかった。


そして、栗の樹はこの十九年で巨大な大木へと成長を遂げていた。


幹回りは大人十八人が手を広げてやっと囲める太さで、高さは沢口商店の五倍近くはあるだろうと思われた。枝は人間の手のように枝分かれしていて、まるで沢口商店を守るかのように葉を広げていた。夏には店に斑模様の影を落とし、冬には迷路のような枝の影を映し出した。栗の樹は樹齢二十年にして周りに生えているどの樹よりも大きく、遠くからでも目立つ存在感を放っていた。


だが、秋に栗の毬が落下して下を歩いている人間に直撃するという事故が何度か発生していた。


位置エネルギーを持つ毬の長く鋭利な針は皮膚を傷つけ痣を作らせた。これは栗の樹が大きく成長したことの代償であった。秀夫や哲の元へは被害者の苦情が相次いだ。危険なので樹を切ってしまえという声も少なくなかった。


しかし、二人には愛情を込めて育てた栗の樹を切ることなど到底できることではなかった。秀夫にとって栗の樹は第二の息子、哲にとっては唯一の弟のような存在だった。このころには、栗の樹は二人にとってかけがえのないものとなっていたのだ。切らないなら対策を立てなければならないが、毬の落下を防ぐ術などなく手の施しようがなかった。


毬の落下を恐れて客はさらに減少することになってしまい、二人は頭を抱えた。栗の樹が店を守るように覆っていることが、皮肉にも店の経営状況を悪化させていたのである。




「あら、秀夫さん、こんにちは。お仕事ご苦労様」


段ボール箱を両手に店内に入ろうとする秀夫に声がかかった。秀夫は業者に注文していた商品の受け取りを済ませてそれを整理している最中だった。店先には中に商品の詰まった段ボールが堆積している。


「お、平子さんじゃないか。久しぶりだね。ああ、ちょうど今頼んでいた品物がトラックで届いたところなんだ」


話しかけてきたのは村の西側の仁口峠という場所に住んでいて、その近くの八百屋に務めている平子だった。


「どう?売れ行きの方は順調?」


一旦その場に段ボールを下ろした秀夫はその質問に難しい表情をした。


「……うーん、正直なところ売れ行きはあまり良くないなあ。若い者はみんな町へ出ていってしまって客の数自体が少ないからな。幸いにも、うちの息子は俺の後継ぎになってくれるみたいだが」


「あら、うちの店も同じよ。お客さんの数は最盛期の半分もないの。私たちの店だけじゃなく、この村のどこの店もそうみたい。困ったものよね。あ、息子さん、哲くんだったわよね?ずいぶん長い間会っていないけど年はいくつになったの?」


「あいつももう二七になったよ。おかげさまで。子供のころは何でも素直に言うことを聞いてくれたもんだが、今では自己主張をするようになって店のことなんかで揉めたりすることが多くなったよ。思ったことは口に出さないと気が済まないらしい。親父に意見するのは三十年早いといつも言ってるよ。ハハハ、あの性格、いったい誰に似たんだか。」


平子は口に左手を当ててフフフと笑った。


「どうやら哲くんは秀夫さんにそっくりなようね。あなたのその少し抜けているところも似てなければいいけど……」


その言葉に秀夫は自分の頭に手を当て、眉を八の字にして苦笑した。平子は続ける。


「哲くんは自分が秀夫さんの後継ぎだということを自覚しているのよ。ここぞというときに言いたいことが言えないような人に店を守っていくことはできないわ。哲くんに任せておけば、この店は安心ね」


平子は秀夫の背後の沢口商店を一瞥してから秀夫に視線を戻してにっこりと微笑んだ。


「俺はあいつに店を任せるにはまだ不安があるよ。今まで二人三脚でこの店を経営してきたからあいつ一人に店のことをやりくりさせるのはイメージできないな。それに、俺と元蔵のヤツとは仲が悪いから、いつ火の粉が息子の哲に降りかかるかわからない。あいつは何をやらかしてもおかしくないからそれも少々不安だな……」


そのとき、平子は何かに反応して肩をすくめた。その顔からは笑みが消えて視線は地に落ちた。どの単語に彼女が反応したのかは、秀夫にはすぐに見当がついた。


「……どうした。元蔵が、また何かやらかしたのか?」


平子は視線を落としたまま、黙っている。一昨日、秀夫の元には村の別荘に元蔵が入ったという凶報が入っていた。


「話してくれ。あいつの言動のために何か困っていることがあるなら、俺は問題解決のためにぜひとも協力したい」


秀夫が平子に話すように促すと、しばらく平子は話すかどうか迷っていた様子であったが、やがてゆっくりと顔を上げると、口を開いた。


「実は、私の働く八百屋の隣で――」




十分後、秀夫は哲に店番を頼み、軽トラックに乗り込んで村の西を目指していた。


平子が最後に放った言葉を思い出すと、秀夫の顔つきは険しくなり、ハンドルを握る手には力が入った。


正直、少しゾッとした。


あの話は本当なのだろうか。いや、そんなはずはない。まったくのデタラメだ。そうであってほしい。いくら元蔵といえども、そんなことをするはずが――。


でも、あの話がもし本当だったら?


今まで元蔵に気圧されて誰も奴に抗議できなかったので俺一人が奴に表立って抗議している形になっていたが、もう奴には関わらない方がいいのかもしれない。俺だけならともかく、俺には息子がいる。これ以上奴のやることに口を出して哲に手を出されるという可能性を考えると、おとなしくしている方がいいに決まっている。


しかし、秀夫は今、軽トラックを飛ばして元蔵に抗議をしに行こうとしている。彼は自分の行動の意味がよくわからなかった。


秀夫は現場近くの路肩に停車して軽トラックの扉を開けた。


瞬間、機械が発する騒音と人々の怒号か喚声が悲鳴かよくわからない叫び声が秀夫の耳に飛び込んできた。その音源は平子の働く八百屋の隣、寺川の家であった。


秀夫は急いで道路を横切って寺川の家へ向かった。現場を半円に囲んで野次馬がいたが数はそれほど多くはなかった。秀夫に気づいた野次馬の一部はまるで正義のヒーローが現れたときのように顔を輝かせた。


「秀夫さん、こんにちは。今ちょっと大変なことになっているんですよ!」


野次馬の女性の一人が向かってくる秀夫にそう叫んだ。秀夫に向ける眼差しには(いつものようにあのならず者に村人全員の思いを突きつけてやってくれ)という無言の圧力が含まれていた。他の野次馬も同じだった。秀夫は誰にも目を向けず、何も応えずに前に進んだ。


現場にはブルドーザーやショベルカーといった重機、半分近く解体された寺川の木造建築の家屋、何人かの付き人を従えた元蔵、元蔵を説得しようとする村長、そして頭を抱える寺川がいた。


平子の話によると、数日前、寺川の元に元蔵の使者がやって来て、

(別荘を移動させたいと思う。どこに移動させようか検討した結果。あなたの住む仁口峠がふさわしいと我々は判断した。そこは景観か非常に良く村を見渡せる位置にある。あなたのお宅は良い景色の妨げになるので解体させてもらうが、そのかわりに私の現在の別荘をあなたに差し上げることにする。別荘といっても巨大で豪華な邸宅なので安心してもらいたい。我々の移住にぜひとも協力を。上記のことに同意するなら下記に判子を……)

という内容の契約書を渡されたらしい。


寺川は断って判子を押さずに契約書を返戻した。


しかし、今朝になって寺川の家に元蔵が重機を率いてやって来て、寺川の判子の押された契約書を掲げて彼の家を壊し始めたらしい。


「ぼくは契約書に判子なんて押してないよ!」


寺川が涙声で元蔵に訴えかける。その間にも無情なことに彼の家はただの木屑と化していく。


「寺川君がこう言ってるんだ、とりあえず家の解体をやめて話し合いをしよう」


村長が元蔵に必死に説得を試みるが、彼はまったく耳を貸そうとしない。


「何言ってんだ。あんたら、往生際が悪いな。これを何回も見せただろう。寺川さん、この印は間違いなくあんたのものだろ?契約っつうものは印を押した瞬間に成立するんだよ」


元蔵は印の押された契約書を顔の高さまで掲げて人差し指で二、三回叩いた。重機の音が辺りに響く。


「それに、こんなボロくて薄汚い家なんかよりも、俺の綺麗で豪華な邸宅の方がいいじゃないか。あんたも知っているだろう。あんた一人が住むには広すぎる家だ。こんなガラクタのような家に何の未練があるんだ。よく考えてみろ、こんなラッキーな話はそうそうあることじゃねえぞ」


元蔵は今にも泣き出しそうな表情をしている寺川を横目に煙草に火をつけた。


「あんな家なんて住みたくないよ!……そんなはずはないんだ。なんでそこにうちの印があるんだよ。やめてくれよ、壊さないでくれよ。ぼくの家なんだ。それはぼくの家なんだ!」


寺川はその場に崩れ落ちてしまった。その背中に野次馬の哀れむような視線が容赦なく突き刺さる。共通の敵が元蔵という認識があっても、やはりどこかで他人事のように見ているのだ。野次馬にとっては、今、目の前で自分の家を破壊されて泣いている村の仲間も、テレビに映る地球の反対側で飢餓に苦しんで死んでいく子供たちも変わらないのだ。自分さえ良ければそれでいい。自分さえあの厄介者の世話にならなければそれでいい。秀夫は村人たちのそんな利己的な考え方が嫌いだった。


「……寺川さん、あんた、本当にあの紙に判子を押していないんだね?」


秀夫は肩膝をついて寺川の背中に手を置いた。寺川は顔を上げた。


「秀夫さん――。はい、ぼくはあの紙に判子など押していません」


秀夫は寺川の顔を覗き込んだ。寺川は涙でいっぱいの目を秀夫に向けた。そうしてしばらく時間が過ぎた――。


「寺川さん、わかったよ」


秀夫はそう言って立ち上がった。やはり、俺はよそ者の横暴に指をくわえて見ていられる性分ではないようだ。秀夫は思った。


秀夫はひとつ息を吐くと、解体作業を続けるショベルカーを見据え、飛びかかった。


「おい、誰なんだあいつは!取り押さえろ!」


背に男の野太い怒声とこちらへ駆けてくる大勢の足音を感じながら、秀夫はショベルカーのフロントガラスまでよじ登ってガラスを拳で叩き、力いっぱい叫んだ。


「家の解体をやめろ!」


ショベルカーは動きを停止した。運転席の男は秀夫を見て唖然としている。野次馬のざわめきは大きくなった。村長と寺川は秀夫の行動に呆気にとられている。


秀夫はすぐさま駆けつけた黒いスーツの男たちに拘束された。秀夫は激しく抵抗することはなかった。ざわめきは次第に収まり、みなが固唾を飲んで見守る中、秀夫の元へ煙草を片手に口の端を引きつらせながら元蔵がゆっくりと近づいてきた。


「……またお前か。なぜ工事の邪魔をした?今回ばかりは、お前にもどちらが正しくてどちらが間違っているのかわかるはずだろう。

この契約書の印を見ろ。これはまさにアイツの印鑑だ。このことが意味するのは俺とアイツとの間に契約が成立したということだ。なのにアイツは直前になって契約を破棄したいと泣き喚いてんだ。お前はあんな人との約束も守れねえようなヤツを庇うのか?」


「……俺は犯罪者から村を守っているだけだよ」


「何だと?」


秀夫は男に羽交い締めをされながらも元蔵の目をまっすぐに見て言った。


「昨日の午後四時半ごろ、黒いスーツの男が寺川さんの家の周辺をうろついているのを目撃したという人がいる。それはあんたのところの使用人だったらしい。あんたの別荘は村の東の端にある。返事はもらったのに、わざわざ村の西まで来ていったい何をしていたんだ?」


目撃者が平子だということはあえて伏せておいた。元蔵は口から煙を吐いて怪訝な顔をする。


「それは、送り返された契約書に印が押されていたからよしと思ってこの土地の測量に向かわせていたんだ。

それで犯罪者呼ばわりか?お前の言いたいことがわからない上にとても心外なんだが」


「寺川さんはうちの店の常連で長い付き合いだが、嘘を言うような人間じゃない」


そこで秀夫の眼光が鋭くなった。秀夫は続ける。


「その日、あんたの使用人は印のない契約書を手に何らかの方法で寺川さんの家に侵入した。そして、屋内を物色した末に印鑑を見つけて契約書に印を押した。それから気づかれないよう痕跡を十分に消してから契約書を持って逃走したんじゃないのか?そのとき、寺川さんの車は車庫になかったと目撃者は言っている。今だって、侵入した痕跡を完全に消すために慌てて解体作業を続けている。そうじゃないのか?」


秀夫の発言に野次馬がざわめき出す。

元蔵のこめかみには徐々に青筋が立っていく。彼は煙草を落として勢いよく踏み消した。


「だいぶ厳しい推測だな。俺には断片的な情報を繋ぎ合わせて無理やりこじつけたとしか思えないが。馬鹿ばかしい。

……ビンボーで何の取り柄もねぇヤツが俺に楯突くんじゃねえよ。俺はお前らと違って忙しいからおメエらの相手してる暇はねえんだよ!今後二度とこの俺に生意気な口を聞くんじゃねえ!わかったか!」


元蔵が突然獣のように吠えた。何かが元蔵の逆鱗に触れたようだ。そのあまりの気迫に野次馬たちは思わず後ずさる。


元蔵が男たちに目で合図すると、男たちは秀夫をその場に手荒に倒した。そして、元蔵は近くに停めてあった青いセダンの後部座席に乗り込んで道の向こうへと消えてしまった。重機はその場に放置されていて人はいなかった。


工事は一時中断のようだ。


後には叢に片手をついてセダンが消えていった方角を睨みつける秀夫と、半壊した自らの家の前で嗚咽する寺川、二人の会話に呆気にとられている村長と村人たちだけが残った。




その日の夕方。


まだ少し明るい時間帯であったが、秀夫と哲は早めの夕食を摂ることにした。


箸を進めながら秀夫は哲に今日の出来事を話した。


食卓に並んでいるのは、御飯、山菜の味噌汁、冷奴、鮎の塩焼きだった。今の季節は六月なので、栗を使った料理を口にできるのは少し先になりそうである。


「――それは寺川さんは気の毒だったね。家を半分も壊されるなんて……。それで、寺川さんは今夜はどうすると?」


哲が味噌汁を一口啜ってから秀夫に尋ねる。


「とりあえず彼の家が修復されるまでは村長さんの家にお世話になることになったらしい。そして明日以降、元蔵のところまで行って交渉を続けるつもりらしい。どうなるかはよくわからないけどな。でも元蔵のことだから、正直寺川さんの主張を素直に受け入れて工事をとりやめるとは思えないな。重機もそのままだったし」


「それなら、寺川さんは元蔵の邸宅に住むことになるのかな」


秀夫は哲のその言葉に茶碗を食卓に置き、眉間に皺を寄せて難しい顔をした。


「いや、寺川さんは住み慣れた今の家に愛着があるからそんなところに住むつもりはないと言っていた。大切な家をこんな風にしたあいつは絶対に許せないと怒っていたよ」


「そりゃそうだろうね。いきなり家に押しかけられて今からこの家を壊しますなんて言われたって納得できる人はいないだろうし……。まあ、寺川さんの方が正しいという前提の話だけどね」


哲は味噌汁の御椀から手を離して腕を組んだ。哲は続ける。


「僕もやっぱり元蔵がムチャクチャなことをして勝手に工事を進めているとしか思えないな。家を譲るってのに同意して自分から印鑑を押しておいて、当日にいきなり気が変わって家を壊すななんて言い出すもんかなあ。寺川さんの印があっても、明らかに元蔵が怪しいだろうよ」


哲はそこまで言い終わると、食卓の上に置いてあった木製の盆に自分の食器を載せて台所へ向かった。秀夫は、戻ってこようとする哲に、「これも持って行ってくれ」と叫んで自らの空になった食器を指さした。哲は「親父は人遣いが荒いなあ」などと文句を口にしながらも、盆を持ってきて渋々秀夫の言う通りにした。再び居間に戻ってきた哲の右手には二リットルの瓶に詰まった日本酒、左手の盆の上には杯が二つ載せられていた。


二人は杯を酌み交わした。「そんじゃ、乾杯!」


二人は酒を飲みほしてから同時に杯を置いた。それから間もなく、秀夫が少し語気を強めて語り出した。


「俺は元蔵の奴も許せなかったが、現場周辺にいた村人たちにも腹が立ったよ。

目の前で同じ村の人間がひどい目に遭って苦しんでいるのに誰一人助けに行こうとしない。ただ興味本意で見に来てるだけなんだ。それで俺が現れるとみな一様に『あんたがなんとかしてくれ』って顔をするんだよ。まったく人任せとしか言いようがない。まあ寺川さんを助けたいとは思っていたんだろうが、元蔵を相手にするのが億劫だったんだろう。

でもよ、俺たちは同じ村に住んでる仲間だぜ。仲間ってのは困ったときにお互いに助け合うもんじゃないのか?今回に限らず、あいつが誰かを困らせているときに立ち上がるのはいつも俺だけのような気がするが。

俺は、自分のことばかりを考えて他人を見捨てるような、自分勝手で利己的な人間は嫌いだ」


哲は秀夫の話に時折相槌をうちながら聞いていた。しかし、話を最後まで聞くと突然神妙な面持ちをして何かを考え込むように黙ってしまった。


しばらくして、哲は空になった秀夫の杯に酒を注ぐと、自らの杯にも注いでから口を開いた。


「親父の言いたいことはわかる。そういうときにみんながみんな傍観者になるのは良くないと思うし、親父が言うように僕たちはお互いに助け合わないといけないと思っている。

でも、親父はもう、元蔵のやることに首を突っ込むのはやめた方が良いと思うよ」


「何だと?」


秀夫は顔を上げた。その眼光は鋭く光っている。秀夫の杯を持つ手がわずかに震えた。


「どういうことだ。お前は、俺のやってきたあいつへの抗議が、間違っていたというのか?」


「いや、そういうわけじゃないよ。親父のやっていることは正しいと思っている。

――ただ、僕はあの元蔵って奴の目を見ていると、怖くなるんだ。何というか、冷めきっていて、人間的な温かさを感じさせない、飢えた狼のような目をしているんだよ。これ以上関わり続けたらあいつは本当に何をするかわからない。危険なんだよ。僕は親父のことを心配しているんだ」


「……そうか」


秀夫の頭に一瞬、平子の話が浮かんだ。

窓の方に目を向けると、真っ赤な太陽がまさに山の向こうへと沈もうとしていた。山、家屋、水車、様々なものが長い影を地に落としている。どこかで烏が鳴いていた。


しばらく沈黙が続いたが、秀夫が視線を外に向けたまま話し出した。


「……村長と話したんだが、村人たちに呼びかけて、元蔵を村から追い出そうと思う。そもそもあいつは勝手に村に入ってきて我が物顔で村の東に別荘を建てたんだ。俺たちはあいつの言動に日々困っているし、あいつの傲慢さにはもう我慢できない。悪行も日々エスカレートしているし、お前の言うようにこの先何をするかわかったもんじゃない。あいつがどんなに力を持っていようとも、村人みんなで協力すればあいつを村から追放することはできるはずだ」


「うん、そうした方がいい」


哲は呟くように言って杯に口をつけた。


そのとき、二人の耳に扉を叩く音が聞こえてきた。台所にある裏口からだ。


「ん、誰だろうな。哲、応対してきてくれ」


秀夫は台所の方を振り向いて言った。哲は立ち上がってはい今行きますと叫んで裏口へ歩いて向かった。その間、秀夫は空になった哲の杯に酒を注いでやった。


「はい、どちら様……うっ!」


扉を開けた哲は目を見開き、呻き声を上げた。


ゆっくりと下を見ると、左胸から刃物の柄が飛び出ていた。


「おい哲!どうした!」


鈍器が床に落ちるような大きな物音を聞いた秀夫は台所を振り向き駆けて行った。


秀夫は台所で目を疑うような光景を目の当たりにした。


哲がうつ伏せの状態で倒れていた。そこには血溜まりができている。それは見る見るうちに広がっていった。


「哲!」


秀夫は目も口も限界まで大きく開いて叫んだ。


哲の側には誰かが立っている。男と思われた。黒のジャンパー、フード、サングラス、大きなマスクを身に付けていた。

そして、手には血に染まった出刃包丁――。


「キサマァァーーー!」


秀夫が怒りを露にして絶叫するのと同時に男が包丁を逆手に持ちかえ突進してきた。


秀夫はとっさに台所のまな板の上に置いてあった包丁に手を伸ばすが、男と衝突したはずみで取り損なって右手が食器に接触してしまった。


大きな音を立てて粉々に砕け散る陶器製の食器。秀夫は両手で包丁を持つ男の右手を押さえつけた。


しかし、男の力は強く、包丁の刃が徐々に秀夫の顔に迫ってくる。秀夫は体を反らして一撃をかわし、男の包丁を持つ右手を力いっぱいはたいた。


包丁は宙を舞い、居間の食卓の近くに落ちた。


二人は走った。必死の形相で。血にまみれた包丁を目指して。その様はビーチフラッグを行っているようでもあった――。


食卓にいち早く到着した方の右手が、包丁の柄をとらえた。


わずかに遅れをとった方がヘッドスライディングのような形で突っ込んでくる。


この瞬間が二人の生死を分けた。


包丁を手にした方は、包丁を左手から右手に、また逆手に持ちかえ、もう一方の背に深々と突き刺した。


ズブッという音。


刺された方は、電池の切れたロボットのように動きを止めた。


包丁が抜かれると、弾けるような勢いで鮮血が溢れ出した。刺した方は、息を整えながら、黙ってその様子を見下ろした。


立っているのは男で、倒れているのは秀夫だった。


男は先程の乱闘でフードが頭から外れていた。露になった男の額には大きな傷跡があった。


男はそれから何も盗ることなく、速やかに裏口から逃走した。


秀夫にはまだかすかに意識があった。

焼け石を置かれたように背中は熱く、心臓が鼓動するたびに血液が失われていくのを感じた。

秀夫は今朝、平子が半ば叫ぶようにして放った言葉を思い返していた。


『秀夫さん、行かないで!……私、聞いたの。どこかの別荘地で、元蔵と対立していた男の人がいたんだって。二人が道端で口論しているのを近所の住民がよく目撃していたそうよ。その男の人……殺されちゃったみたい。何者かに刃物のようなものでズタズタにされて。犯人に繋がる手がかりはほとんどなく、今も犯人は捕まっていないそうよ。

――でも、もう、わかるわよね?絶対とは言い切れないけど。

この話を聞いてもまだ行くの?あいつに関わっちゃだめ!あなたまで殺されてしまうわ!』


あなたまで殺されてしまうわ!――もう一度、頭の中に響いた。


秀夫は頭の向きを変え、哲の方を向いた。哲は床に伏したままぴくりとも動かない。哲の上の窓は墨を一面にこぼしたように真っ暗だった。太陽はもう沈んでしまっていた。


ごめんな、哲――。


秀夫はゆっくりと口を動かすと、静かに目を閉じた。




翌日。


沢口商店には大勢の警察官や村人が集まり騒然としていた。


店の周囲には黄色いテープが張り巡らされており、『関係者以外立入禁止』の看板がいくつも立てられている。二人の知人・友人の多くがテープ前に立っている警察関あ係者に事件の詳細、二人の安否を知るために質問しようと詰め寄った。しかし、彼らは「申し訳ありませんが、事件関係者以外には我々の口からはお答えできかねます」の一点張りでまったく相手にしようとしない。そのことに腹を立てて冷静さを欠いた村人の一人が

「どうして、どうして秀夫は刺されたんだ!秀夫は生きているのか?無事なのか?教えろ!」

と喚きながら店に突進しようとして取り押さえられるという騒動もあった。


昨日の晩、沢口商店の隣人の女性が争うような騒々しい物音を聞いていた。


心配になった女性はすぐに店を訪ねることにした。見れば中の電気は点いていた。女性は店の裏口の扉を叩いて二人の名を呼んでみた。この時間は閉店しているので正面玄関は施錠されており、そこから入ることはできなかった。誰かがこちらに歩いてくるような音はなかった。


女性はもう一度扉をノックし、名前を呼んでみた。


しかし、中からは物音ひとつなく、店の中は外の世界と同化してしまったかのように静寂に満ちていた。


女性はいよいよおかしいと思い、黙って扉をゆっくりと開けていった。半分ほど開けたとき、女性は目に飛び込んできた光景の処理をうまくできなかった。それぞれの情報のパーツがはまるべき場所にはまると、女性はそこで初めて目の前の惨状を理解して夜空に響き渡るような悲鳴を上げた。



それからすぐに村に一台だけ存在する救急車が駆けつけ、重傷の二人は村を下った隣町の大学病院に搬送されていった。村には小さな診療所が一ヵ所あるだけで大きな病院は設置されていなかった。村から町へ下るのにかかる時間は決して短くはなく、その点が村の重傷者には不利だった。


病院では医師による懸命の治療が続けられた。二人は大量の血液を失っており、とても危険な状態だった。輸血作業は一晩中続けられた。生死をかけた天秤は常に激しく動いて止まることはなかった。


正午過ぎ、二人の回復を願っている村に、町の病院から訃報が届いた。


亡くなったのは、秀夫だった。


刃物の一撃が肝臓を打ち抜いており、それが彼にとっての致命傷だった。秀夫は生死の境をさまよっていたが、運悪く死の世界に飛び込んで二度と戻ってくることはなかったのである。


息子の哲は意識不明の重体で治療が続けられていた。左胸の傷は幸い心臓を避けており、致命傷にはならなかったが、転倒した際に頭を強打して脳の一部が損傷しており危険な状態だった。やがて、容体は安定し、人工呼吸器で命を繋ぎ止めることができるようになったが、昏睡状態で寝たきりのいわゆる植物人間になってしまう可能性があると医師は指摘した。




村では昨晩から犯人の捜索が始まっていた。


警察は室内の状況から情報を得て犯人を特定しようとしていた。しかし、犯行現場に残された犯人の手がかりはほとんどなく、また目撃者もいないので捜査は難航していた。


警察は室内を物色した形跡がないことから私怨による犯行と判断し、近所の人間に一家と口論していた人物がいないかという目撃情報を求めた。


すると、人々は口を揃えて元蔵の名前を挙げた。警察の元には事件の日の朝に二人が争っていたという情報も入った。


元蔵の別荘はすぐに家宅捜索の対象となった。

元蔵は警察の姿を見ても臆することなく、この邸宅の中にあるものはすべて貴重なものだ、捜索は好きなだけしていいが、物品は丁寧に扱えと怒鳴った。元蔵は堂々とした態度で事情聴取に応じた。元蔵は、確かにその日に言い争いはしたが、俺は殺してはいないと語った。結局証拠となるものは見つからず、警察は肩を落として帰っていった。


経営者を失った店とその周辺は、寂れていた。

沢口商店からは警察が去り、やがてテープの檻からも解放された。しかし、店の正面玄関は朝になって太陽が昇っても開かれることはなかった。昼はまるで何かが訪れるのを待っているかのようにただそこに佇み、夜は人目を避けるように栗の樹の枝葉に隠れて闇に溶けた。何かが変わるわけでもなく、何か特別なイベントが起こるわけでもなく、ただただ無意味に時間だけが過ぎていった。一度だけ小学校低学年ぐらいの少女が店の前にやって来たことがあった。少女はもの寂しげな目を店の奥に向けたが、すぐに来た道を走って戻っていってしまった。また時が過ぎた。




5




季節は移り変わって夏になった。

村を囲む広葉樹は青々と茂り、風によって葉と葉の擦れ合う旋律を奏でた。油蝉が力の限り命を燃やさんばかりに鳴いているのと対照的に、家の軒下にぶら下げられた風鈴は風の音と共鳴して実に穏やかな音色を立てた。


その日は、太陽は朝から厚い雲で覆われて顔を出しそうもない日であった。前日は容赦なく夏真っ盛りの太陽が照りつけていたので、村人は湿度の上昇を顕著に感じることができた。狭くて青い空は一面雨雲が敷き詰められており、雨は少し降っては止むことを繰り返していた。風はほとんど吹いていなかった。


あの事件からしばらく避けられているかのように人が寄りつかなかった沢口商店だが、この日店の周囲には多くの村人が集まっていた。


なぜなら、元蔵がとんでもないことを実行しようとしていたからである。


その内容は、秀夫と哲が育てた栗の樹を沢口商店の方角へと切り倒し、栗の樹も沢口商店もまとめて処分してしまおうというものであった。


栗の樹を撤去することにした理由は、仁口峠の新たな別荘から村を見下ろしたときに栗の樹が目立ちすぎて良い景観の妨げになるからというものであった。確かに村では同じような高さの家屋や木々が立ち並んでいる中、この栗の樹だけは圧倒的な高さと太さ、そして存在感を持ち合わせていた。村より少し高いところに登れば、栗の樹がまず最初に目に入った。

ちなみに寺川の家は交渉もむなしく結局すべて取り壊されて木片さえも残っていなかった。


沢口商店まで撤去することついては元蔵は次のように語った。


空き家をそのままにしておくのは危険な上に土地の無駄だ。この機会に沢口商店を片づけてかわりに新しい施設でも何でも建てた方が村にとっても助かるんじゃないか。それに、樹が倒れるときのパワーを利用して建物を破壊したらあとは木屑を片づけるだけだからそう金がかかることもない。解体にかかる費用はすべてこちらが負担するので村の住人たちにはぜひとも理解してもらいたい。


ほとんどの村人たちはこの考えに反対した。それは、近隣の家々への被害の懸念や村の中でも数少ない長い歴史を持つ沢口商店への愛惜からくるものが多かった。亡き秀夫への配慮や哲の意識が戻って村に帰ってきたときに備えての考慮を理由に挙げる村人もいた。元蔵は何度も村人に理解を求めたがなかなか受け入れられることはなかった。


そこで、元蔵は沢口商店跡に自費でデパートを建てることを宣言した。沢口商店と周辺の家々とはある程度の距離があり土地面積も小さくなかったのでそれは可能なことだった。

すると、元蔵の計画を頑なに拒んでいた村人たちの態度は一変、その多くが賛成にまわった。そんな村人の中には、いつデパートが開店するか、どんな便利な品が売られるのかという話を始める者もいた。もっと早い時期に沢口商店が潰れてくれれば良かったのにと呟く者もいた。一方、それでも反対する少数の村人たちはそんな彼らの様子を見て溜め息を吐いた。


そんなわけで多くの村人の同意を集め、今日の伐採予定日を迎えたわけである。


元蔵は遠方の有名な農林組合を招いて伐採の作業にあたらせていた。切り倒す樹は一本だが、幹の周りをせわしなく動き回っている作業員は五十人以上はいると思われた。それは栗の樹の規模を考慮すれば妥当な人数といえた。付近には農林組合の大型トラックが停まっていたがその数は十台にも及んだ。作業員はその荷台から安全柵をまるでバケツリレーを行うようにして手際よく運んだ。大木に最も近い作業員数人は受け取った安全柵を順に並べていった。


元蔵は遠く離れた路上からその様子を見物していた。野次馬が多いため、彼の周りの付き人はいつもより多かった。


元蔵の左には赤色の派手な服に身を包んだ若い女がいた。女は元蔵の左腕に自らの腕を絡ませていた。女は、元蔵の四人目の妻で、名を牧子といった。ドレスのような衣装にハイヒールを履いた彼女の姿は、田舎の中の田舎と言ってもいいようなこの村には明らかに不釣り合いで周囲から浮いていた。


「あの樹、まーた大きくなったのね。三年前に見たときよりも背が伸びてるし、ずいぶんと太くなってるわ」


牧子はアイメイクで真っ黒に染まった瞼を瞬かせながら言った。


「ああ、俺も目にするたびにデカくなってる気がするよ。まだまだ成長途中なんだろうが、もうすぐこの樹の成長は永遠に止まる。まあ、俺が切り倒すと判断したんだから仕方ねぇよな。まあ可哀想ではあるがな」


元蔵は胸のポケットから煙草を取り出して口にくわえ、ライターで火をつけた。赤と白の二人は黒の集団に囲まれ大いに際立っていた。


「まあ、あなたってゆう人は、ひどい人ね。マキコはこの樹がどのくらい大きくなるのか見てみたかったのにぃ」


「すまんな。この樹だけは今切り倒しておきたいんだ。別にこの樹自体に恨みがあるわけじゃないがな。計画どおりに倒れてもらわないと困る。失敗は俺が許さない」


元蔵は樹をまっすぐ見据え、計画どおりにを強調して呟いた。


「……元ちゃん、その顔。さては、何かを企んでいるわね?」


牧子は元蔵の耳元で囁いた。元蔵は牧子を横目で見遣ると、口元に妖しい笑みを浮かべた。


「さすがは俺の嫁。そうさ、俺が頭の中で考えていることは村の連中も農林組合の連中も誰も知らない。もし、連中がこのことを知ったら、間違いなくこの大木伐採は猛反対されて取り止めになるだろうがな」


「エっ、なになに~めっちゃ気になる!元ちゃん、マキコにだけ教えてよ。誰にも言わないからさ」


牧子な元蔵の腕にしがみついて甘えた声を出す。元蔵は愉快そうに笑い声を上げながら牧子の肩を持った。


「仕方ねえな。お前だけに教えるよ。実はな……」


「おい、お前、こっちを向け!ちょっと話がある!」


そのとき、二人の右前方から怒鳴り声が上がった。


目を血走らせた若い男が村人をかき分けて元蔵目掛け接近してくる。


男に反応して付き人が二人を守るように両手を広げて男を睨みつけた。いずれの付き人も、筋肉隆々だったり、スキンヘッドだったり、頬に傷があったりと相手を脅すには十分すぎる容姿だった。


しかし、男に怯む様子はなかった。


元蔵はというと、大声で呼ばれているにも関わらず、気にする素振りもなく牧子と談笑を続けている。男はもう一度吠えた。


「聞こえねえのか!オレが呼んでるのは元蔵、テメエだよ殺人者!」


場の空気が凍りついた。元蔵に唯一立ち向かった秀夫でさえ、ここまで強い口調でまくし立てたことはなかった。元蔵の動きが止まり、ゆっくりと男の方を向く。


「……あァ!?」


そのときの元蔵の形相は凄まじかった。充血した目は見開かれ、こめかみには青筋が立ち、眉間にはこれでもかというほど皺が寄っている。その迫力は大の男でも後退するほどであったが、男は一歩も退かなかった。


「オレは哲の同級生で親友だ!秀夫さんを殺し、哲をあんな状態にしたのはテメエだろ!秀夫さんはとても親切で、哲は友達思いのイイ奴だった。秀夫さんと哲は人から恨みを買うような人間じゃなかったんだ。恨んでいる人間がいるとしたら、秀夫さんといつも喧嘩していたテメエぐらい……犯人はテメエ以外に考えられないんだよ!」


男は右手をまっすぐに伸ばして元蔵を指さした。その手は震えていた。それは緊張からくるものではなく、怒りからくるものだった。


現場は静寂に包まれ、その場にいた数百人の村人全員が固唾を飲んで事の成り行きを見守った。作業員さえも自分の仕事を忘れて見入っていた。


「お前……自分がいったい誰に向かって口聞いてるのかわかってんだろうな?ありもしねえ罪をこの俺になすりつけて、無礼極まりねぇ。何をされても文句は言えねえな?」


元蔵が凄みをきかせて一歩前に出る。その目つきは虫をも殺せそうな勢いだ。男も負けじと一歩を踏み出す。


「うるせえ!お前が、お前が殺したんだ」


「いいか小僧、俺は確かにあいつを忌々しく思っていたが、殺してはいない」


男は拳を血が滲むほど握り締めて下を向いた。男の額に浮かんでいた汗の玉がひとつの大きな滴となって地に落ちていった。


「ここまで来ても罪を認めねえとは……。もう我慢ならねえ。秀夫さんと哲があんな目に遭ってテメエがのうのうと生きているのが許せねえ……。オレは今ここで、お前を、お前を……殺す!」


男は懐からサバイバルナイフを取り出した。野次馬がどよめく。付き人たちは全員元蔵の前に集まって戦闘体勢に入る。しかし、元蔵はナイフの鋭い光沢を放つ刃先を見ても取り乱すことはなかった。


「死ね!元蔵!」


荒れ狂う男を黒いスーツの男たちが迎え討った。


激しい乱闘になる。


男は武器を持っていたものの、相手は鍛え上げられた筋肉質で体格のいい人間たち。男はナイフの一撃を見舞うこともなく、殴られ、蹴られ、徹底的に叩きのめされた。


砂埃が舞う中、戦いが終わると、男は体中傷だらけになって気絶していた。


「正当防衛だ。死んではいない。刃物だけ取り上げてあとは放っておけ」


元蔵は付き人たちに静かに命じた。


付き人が男から去ると、村人が慌てて男に駆け寄り「た、大変、救急車だ!」と叫んだ。現場に以前の騒々しさが戻った。




「すまん、思わぬ邪魔が入ってしまったな」


喧騒の中、元蔵は牧子に言った。その表情から先程の殺気はすっかり消えていた。


「……あーびっくりした。あんな顔した元ちゃん、初めて見たもの」


牧子の顔は引きつっていた。元蔵の腕に植物の蔓のように巻きつくこともやめている。二人の間にはわずかに距離があった。


「あらぬ疑いをかけられてちょっとイラッとしただけさ……。もう怒ったりしねえから、そんなに怯えるな……」


元蔵は牧子を抱き寄せた。しばらくそうしていると、牧子は元蔵の腕に触れて言った。


「ちょっと怖かった……けど、そんな元ちゃんもカッコよかった。やっぱりマキコは元ちゃんが好き♪」


「そうか、俺もだ」


もはや二人は誰がどう見てもバカップルだった。


「……さて、さっきの話の続きだけどな、俺は連中が思い込んでいるのとはまったく別のことを考えているんだ」


「えっ、つまりぃ、村の人たちが思い込んでいるのとは別の計画を実行しようとしてるの?」


「いや、計画は変えねえ。俺が連中に隠しているのは今回の計画を立てた動機だ」


元蔵はくだらねえ動機だがな、と付け加えた。短くなった吸い殻を足下に落とし踏みつける。地面から細い煙が昇った。


「ドウキ?」


牧子が呆けたような、呑み込めないといった表情で元蔵の顔を見つめる。


「そうだ。俺があのデカブツを沢口商店のある南の方角に向かって倒すという今回の計画を立てた理由だ。それは決して、良い景色の邪魔になるからだとか土地の無駄だからとかそういう理由じゃねえ。まあ連中にはもっともらしい理由を並べ立てておいたがな。俺が今回の計画を立てた本当の目的は、あいつの店が文字通り潰れるのをこの目で見るため、ただそれだけだ」


「エッ、それだけ?どーしてそんなことだけのためにこんな大がかりなコトを?」


牧子はわけがわからないといった様子でクエスチョンマークを顔面に張りつけている。元蔵は牧子のそんな様子を見て笑った。


「ハハハ、当然そんな反応をするわな。それじゃ、わけを話そうか。

この村の連中の連中の多くはな、俺を見るとすっかり縮こまってしまって俺の言うことに黙って従っていたんだ。金持ちで権力者の俺を恐れていたんだよ。俺はそんな蛇に睨まれた蛙のような奴らの顔を眺めて回るのが好きだった。

でも、あの男だけは違ったんだ。あいつだけは俺の目をまっすぐ見て話した。俺は、何かをするたびにこの俺に臆さず真っ向から歯向かってくるあの男が本当に忌々しかった。鬱陶しかった。気にくわなかった。おまけに、あいつは俺が寺川に対して行った策略をすべて見抜いていた。自信ありげに俺に抗議するあのときのあいつの顔も俺のカンに障った。どうして俺の言いなりにならねえのかと憎しみさえ沸いた。なんとかしてあいつを屈服させたかった。俺はどうしたら自分をより恐ろしく見せることができるかを考えて奴にいろいろと試した。だが、結局あいつは死ぬまで俺に逆らい続けたのだ。俺は納得できなかった。死んでもあいつが許せなかった。

そこで俺はあいつが大切にしていたものに注目した。それは、沢口商店、栗の樹、息子の哲だとわかった。この三つを俺がこの手で奪ってやることで、生前の俺への態度に対する制裁をしてやろうと俺は考えたんだ。また、大切なもの同士が傷つけ、壊し合った方があいつへの制裁はより重くなる。本当は店の屋根に哲を寝かせてやりたいが、さすがにそうもいかねえ。哲については後で使用人を送り込んで酸素チューブを外させる予定だ」


牧子は話を聞いても驚かなかった。それどころか、妖魔のような無慈悲な笑みを浮かべて、ただ言った。


「……そっかぁ、なあるほどね。元ちゃんに逆らったんだから、そんぐらいの報いは当然だよねえ。マキコ、これから起こることが、すっごく楽しみだよ」


二人は笑った。




元蔵と牧子が声をひそめて話をしている間に農林組合によって安全柵を並べる作業は完了した。


栗の樹の周辺には数百もの柵が整然と並べられた。野次馬たちは倒木の瞬間をもっと間近で見ようと柵の近くまで押しかけた。彼らは市場でのマグロの解体ショーを前にした見物客と何も変わらなかった。


そして、作業員たちは最後尾に停めてあるトラックの荷台から栗の樹を切るための鋸を持ち出した。


それは普通の鋸ではなかった。


両端に黄色の取っ手が設置されている変わった形状をしていた。大きさは桁違いで、鋸の端から端まで大人三人分ほどの長さ、刃の横幅は大人の身長の半分程度はあった。作業員はそんな巨大な鋸を端にそれぞれ三人ずつついて重そうに樹の下まで運んでいった。


「いよいよ始まるわね」


牧子が長い茶髪の先を弄りながら呟いた。


「ああ、ついにあいつへの制裁を下すときが来たんだな。切り倒された樹が沢口商店を木っ端微塵にしたとき、俺の心の中のわだかまりは拭われてすっきりするだろうよ。ああ、楽しみだ」


元蔵はまるで泥酔したときのような目をしていた。


「ねえ、マキコ、樹が切り倒される瞬間をもっと近くで見たいわ。危なくない位置へ移動すればいいから一緒に行こう。ね?」


牧子は元蔵を見上げながら子供のように服の袖を引っ張った。


牧子に誘われるまま、元蔵は栗の樹の下へとまっすぐ歩みを進めた。元蔵の威圧感に先程の一件も手伝って、元蔵たちの行く先にいる野次馬は彼らの接近を知ると、まるで大名行列がやってきたときのようにことごとく道を空けた。元蔵と牧子の周囲には先程のような事態に備えて屈強な男たちが常に配置されていた。二人は樹のちょうど西側の安全柵の近くに陣取った。


「わぁー、近くで見てみるとまたさらに大きく見えるわね。見て、あの幹の太さ。まるで何本もの木々が一つに集められたようだわ」


「俺もここまで巨大な大木は見たことがねぇな。この大きさでまだ樹齢二十年だと言うから普通の樹じゃねえよ。この樹はバケモンだな」


二人は栗の樹を仰いで感心したように呟いた。


いよいよ最期を迎えようとしている村の大樹は雨雲による遮光で仄暗い中、沈黙を保ちながらも確かな存在感を纏ってそこに佇んでいる。地面には境界線が曖昧な影が映し出されていた。


鋸は栗の樹を挟んで沢口商店のちょうど反対側、店の庭にあたる場所に運ばれた。管理者がいなくなって一ヶ月ほどで、そこは大人の背丈をゆうに超える草木が支配する世界となっていた。栗の大樹のことといい、この付近の土壌には何か植物にとって特別な栄養成分が含まれているのかもしれなかった。草木は栗の樹を切り倒す下準備として刈り取られて庭はすっかり綺麗になっていた。


いよいよ太い樹の根元に鋸の刃が当てられた。鋸の端には作業員が三人ずつ。いずれも体格の良い男たちだった。


「準備万端、周辺住民の安全を確認、無風状態にて条件は良好。ただちに栗の伐採を開始せよ!」


組合長の号令に、六人の作業員は同時に威勢のいい返事をして腕を前後に動かし始めた。


栗の樹の伐採が始まった。


作業員は綱引きをしているような動作で太い幹に斜め下に向かって切れ込みを入れていく。辺り一帯には犬が小刻みに鳴いているような音が響いていた。樹も鋸も大きければ切る際の音も大きかった。作業員が鋸を動かすたびに粉末状に削り取られた木屑が空中に舞った。少しずつではあるが、樹に生じた亀裂は反対側に向けて確実に進行していっている。


その様子を見つめていた牧子がちらっと元蔵を一瞥して、彼の耳に近寄って囁いた。


「ねえ、元ちゃん。ちょっとだけ不安になったんだけど、まさか、こっちに倒れてくるなんてことないよね……?」


「何言ってんだ。そんなことありえねえよ。農林組合の連中には倒す方角は南だとしつこいぐらいに何度も言ってあるし、それに、あいつらは俺がわざわざ遠くから呼んだ優秀な土木業のエキスパートだぜ」


元蔵は作業員と栗の樹から目を離さずに牧子にそう返した。牧子はそうだよね、心配いらないよねと胸を撫で下ろして切られていく栗の樹に改めて視線を戻した。


やがて、切れ込みが幹の半分ほどに達すると、作業員は鋸はそのままに取っ手から手を離し、他の作業員から清涼飲料水の入ったペットボトルを受け取って休憩した。かなりの重労働らしく、作業員たちは滝のように汗を流しており、息も上がっている。切れ込みの下には木屑が山のようにうず高く積み上がっていた。しばらくすると、六人は汗を拭って立ち上がり、それぞれの定位置について作業を再開した。

切れ込み線の終着点は鋸の一定の動きとともに徐々に移動していく。


栗の樹は作業員が鋸を動かすたびに粉塵と化した命の一部を散らしながら、自らの体を襲う激痛に叫び声を上げているように見えた。人間に置き換えると、生かさず殺さずじわじわと苦痛だけを与えられて泣き叫んでいるようなものだろうか。快楽に溺れている時間はあっという間に過ぎ去ってしまうが、苦痛に悶える時間は一秒一秒が長く感じる。そのため、苦しい時間は永久に続くように思われるが、やがては死が訪れてすべてが終わる。

ここで、栗の樹が死ぬということは、沢口商店の長い歴史に終止符が打たれるということであり、また、元蔵の私怨が絡む願望が実現するということであった。


四分の三ほど切り進めたとき、火の中でものが破裂したような大きな音が周囲に響いた。それは、接着していたものが勢いよく剥離された音で、栗の樹の繊維が断裂した音だった。


栗の樹は一、二秒の間を作ってから、バランスを失って体を傾け始めた。


ついに、元蔵にとって待望の瞬間がやってきたのだ。元蔵は体の内から沸き起こる達成感と爽快感に顔を輝かせる……はずだった。


しかし、実際の彼の顔はそんな表情とは程遠かった。


目は飛び出さん限りに剥かれ、口は拳が入るぐらい大きく開かれてそこから涎を垂らしている。その表情は驚愕、混乱、恐怖からくるものだった。


その場にいた全員の間に一瞬の沈黙が走り抜けた直後、現場は焦燥と混乱の色に染まった。


栗の樹が、当初の予定の南側、沢口商店の方角ではなく、西側、つまり元蔵たちのいる方角へ倒れ始めたのである。


先程牧子の脳裏に一瞬よぎった懸念が現実のものとなった。


樹の西側に立っていた野次馬は一目散に避難していく。厳つい顔をしていた元蔵と牧子の付き人たちは途端に真っ青になり、主人に背を向けて蜘蛛の子を散らしたように逃げていった。さすがの付き人も倒れてくる大木には敵わなかった。


付き人と同じように青くなって逃げていた牧子は振り返って叫んだ。


「元ちゃん!何してんの早く逃げなきゃ!」


元蔵はまるで金縛りにあったかのように先程の表情を崩さないままその場に立ち尽くして動こうとしなかった。もしかしたら驚きのあまり動けないのかもしれなかった。


彼の周りにはもはや誰もいない。誰も守ってくれない。倒れてくる大木を前に、大金や権力はまったくの無力であった。彼に声をかけたのは妻の牧子だけだった。


「元ちゃん!」


牧子の絶叫は栗の大樹が倒れる耳をつんざくような音にすべてかき消された。


その音は村中に響き渡り、音の衝撃波が近隣の家々を震動させ、近くの樹にとまっていた小鳥たちは驚いて飛び上がった。もくもくと砂煙が上がり、しばらく空中を漂ったあと、ゆっくりと下降していった。


しばらく呆けたような沈黙があった。多くの目撃者は何が起こったのか理解できずにいた。しかし、誰もが太い幹の下に消えていく驚愕した顔のまま動かない元蔵を見ていた。呆然と倒木を見つめる者、目を見合せる者、何をしていいのかわからず挙動が不審になる者、そして耳を塞ぎたくなるような悲鳴を上げて倒木に駆け寄る者……。


倒れた栗の樹が動かされるまでにはしばらく時間があった。村人、作業員、組合長、付き人、みな誰もが予想外の事態に取り乱すわけでもなく、悲しむわけでもなく、怒るわけでもなく、ただひたすらに混乱していた。ヒステリックに泣き喚く一人の女を除いて――。




6




当然ながら、元蔵は即死だった。何トンという重量の大木に押し潰されて体は見る形もなかった。


栗の樹の死がもたらしたものは、沢口商店の破壊や元蔵の願望の具現化などではなく、元蔵の死と、彼の願望の崩壊であった。


栗の樹が西へ向かって倒れた原因はまったくの不明だった。

農林組合は北側から南側へ斜め下に向かって幹を切っていた。この切り方だと確実に樹は南へ倒れるはずである。また、栗の樹は沢口商店を守るかのように枝葉が南へ大きくせり出していたため重心は少し南側へずれていた。地面と平行に切っても樹は南へ倒れることが予想されていたのだから、それ以外の方角に向かって倒れるのはとても考えられないことだった。


しかも、倒れた方角は西で、これは自分を育ててくれた秀夫の敵である元蔵が立っていた方角。加えて、大木が迫ってきても、元蔵だけが逃げ遅れて彼だけが下敷きとなった。


そこには、偶然だとかたまたま元蔵は運が悪かっただとかそういう言葉では片付けられない何かがあった。


「これは、今は亡き秀夫の呪いじゃ!」


村の長老が言った。

殺された秀夫の魂がずっと大切に育ててきた栗の樹に憑依し、自分の老舗を守り抜いたと同時に、宿敵の元蔵の息の根を止めたというのだ。


村人の中には秀夫を殺して哲を植物状態にした報いを受けたんだと言う者も多かった。


切り倒された栗の樹は長老の助言によって、村の西に新しく建てられた祠に解体されずに運ばれてそこに祭られた。切り株と沢口商店も撤去されずにそのまま残った。


村の外からやって来て金と権力を背景に威張り散らしていた暴君がいなくなったにも関わらず、素直に喜ぶ者はあまりいなかった。




季節は移り変わって春になった。


村では沢口一家殺傷事件と元蔵の怪死からの混乱がようやく落ち着いてきたころだった。


わずかに雪が残る道端にはいくつかのふきとう蒲公英たんぽぽが顔を出し、穏やかな陽の光の下、畑を菜の花が宝石のように黄色く彩り、その上を紋白蝶が華麗に舞っている。そんな春の日の光景が見られるはずだった。


村は再び大混乱に陥っていた。


朝早く目覚めた人たちは、地面からいくつも顔を覗かせているものを見て目を丸くした。


路傍や畑、花壇に息づいていたものは蒲公英やチューリップやレンゲなどではなく、数え切れないほどの栗の芽であった。


栗の芽は村中の至るところから顔を出していた。棚田の中部や道路の真ん中も例外ではなかった。足の踏み場もないほど生えていたので、その日は村人総出で草刈りに追われて一日が終わってしまった。


翌日、昨日できなかった仕事の遅れを取り戻そうと家を出た村人たちは、眼前に広がる光景に目を疑い、それが事実だとわかると肩を落とした。


庭先、道端、畦道、様々なところからひょっこりと顔を覗かせている栗の芽。芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、芽、……。


その数はおびただしく、村人を嘲笑うかのように昨日抜いた場所からもたくさん生えていた。むしろ昨日よりもその数は増えているように思われた。


村人の一人が畑の地中を通っている太くて細かく枝分かれしている木の根を発見した。他の村人も芽の生えているあらゆる場所を掘ってみると、同じように太い木の根を見つけることができた。


栗の樹は地上の根が根元から切られたあと、その止めどなく溢れる生命力を地上から地下へと向かわせ、冬の間に村中にその根を伸ばしていたのである。


村人は芽が生えてくるのを止めようと地下を通る根を切断してみたが無駄だった。ほんの数日間は栗の芽は出なくなるが、またすぐに筍のごとく地上に出てくるのである。芽はいくら摘んでも踏んでもあとからあとから生えてきた。舗装された道路にも硬いアスファルトを突き破って芽が出ていた。栗の樹の再生能力は驚異的だった。


村の長老は、これは栗の樹に乗り移った秀夫の祟りだと言った。

秀夫は、元蔵に抗議するときに自分の味方についてくれるのではなく、ただ傍観しているだけだった村人たちに対して怒っておるのだ。お前たちのうち誰か一人でも俺の肩を持ってくれれば俺は死なずにすんだ。そもそも俺が殺される羽目になったのはお前たち村人のせいだと秀夫はわしらを恨んでおるのだ。思えば、わしらはあの厄介者のことは秀夫にすべて任せてしまっていた。ああ、わしらはなんと罪深いことをしたのであろう。もはや何を施そうと無駄なこと、この村はまもなく栗の樹に覆われて滅びるのだ。

長老はそう嘆いて肩を震わせた。


長老の話を聞いた村人たちは芽や根を除くことを諦め、栗の樹が祭られた祠に出向いて秀夫に対して土下座をして懺悔した。あのとき、自分の身ばかりを案じてあなたを助けなかったことをお許しください、と横たえられた巨体な樹を前に額を地面にこすりつけた。しかし、栗の芽は相変わらず生命力をみなぎらせており、その勢いが止まることはなかった。


地上に顔を出した芽は、秀夫の栗の樹がそうだったように、驚異的なスピードで成長していった。そのため、撤去の行き届かなかった場所は緑色の葉で覆い尽くされた。やがて、木造の古い家屋では、住人が朝目覚めると、芽から樹へと成長を遂げたものが床を突き破って飛び出しているということまで起こった。栗の樹の根は水道管に甚大な被害を与え、水道が使えなくなった家も多かった。家の外は見渡す限り栗の苗に覆われて歩くのは難しくなった。先述のように、屋外だけではなく、屋内にも栗の苗や樹の手が伸び始めていた。


栗の樹は村から村としての機能を次々と奪っていった。村は村として在り続けることが困難となった。


やがて、生活が苦しくなって栗の苗に囲まれた家を捨てて村を出ていく者が現れた。すると、それを知った村人は彼に倣って次々と村を出ていってしまった。村の人口はみるみるうちに減少していった。そして、長老の予言通り村は村でなくなり、栗の樹ばかりが生える廃墟と化してしまったのである。




7




それから二十三年後。


かつて村であったその場所に三人の付き人を連れた男が訪れた。


男は深い山の中にも関わらず紺色のスーツを身に纏っており、口にはキセルがくわえられていた。男はスーツに絡まりつく草や虫を気にする素振りもなくせわしなくあたりを振り返っていた。


あれからかなり太ってしまっていてあまり面影はないが、その男は秀夫の一人息子、哲だった。


哲は村が壊滅して一年後、病院のベッドの上で昏睡状態から奇跡的に目覚めた。

このころには、誰もが哲が再び目を覚ますことを諦め、哲の一生寝たきりの生活を覚悟していた。そのため、哲の回復を知ると、一同はとても驚き、そして手を叩いて喜んだ。哲の友人たちはすぐに病院に駆けつけ意識を取り戻した哲の姿を見ると、涙を溢しながら彼を抱き締めた。哲は意識が戻った直後はひどく頭がボーッとしており、意識を失う前の記憶が失われていた。自分が誰なのかということは記憶にあったものの、それ以外のことはまるで覚えていなかった。そのため、友人に抱き締められても、無感動に虚空を見つめることしかできなかった。だが、リハビリを繰り返していうちに、かつての記憶を徐々に取り戻していった。もちろん、あの日の夜、突然全身黒ずくめの男の刃物で襲われたことも――。


哲は秀夫の安否を看護師に問い詰めた。答えるのを躊躇う看護師だったが、そばにいた友人が静かに口を開いた。


哲はあの日の翌日に親父である秀夫が死んでしまい、もうこの世にいないことを知った。その後、元蔵が栗の樹を撤去する工事中に事故死したこと、翌年の春に自分の故郷の村が異常に繁殖した栗の樹によって失われたことも知った。


友人の口から語られる言葉の数々は、哲を動揺させるには十分すぎるほどの力があった。それらのどの情報も哲にとっては衝撃的なものばかりであった。哲は激しい過呼吸を起こして再び医師や看護師のお世話になった。哲は大きなショックを受けて、三日間は昼も夜も泣きはらして過ごした。


哲は退院すると、その町のアパートを借りて住み始めた。アパートの自分の部屋は黴臭くて天井に蜘蛛の巣が張られているような古いものであったが、沢口商店も似たようなところだったので我慢できた。


哲はアルバイトによって得た金を極力使うことなくコツコツと貯めた。食材はいつもお金のかからない質素なものを選び、衣服は友人たちからいらなくなったものを譲り受けた。町の人はいつもボロきれのような服装をして働いている哲を嘲笑った。彼はギリギリの倹約生活や人々の好奇の目にひたすらに黙って耐えた。彼には大きな夢があり、それに向けて必要な資金を集めているのだった。やがて、アルバイトではお金が足りないと感じた哲は、アルバイトを辞めて町の会社に就職した。そこで哲は働きながら商売技術を学んだ。


このころ、街頭の新聞でかつて村だったあの栗林が放火されて山火事になっていたことを知った。火は栗林を全焼したのちに消しとめられ、犯人はすぐに特定された。逮捕された犯人は元蔵のかつての妻、牧子であった。新聞によると、彼女は自分の夫を殺した栗の樹をひどく憎んで犯行に及んだらしかった。


就職してから十五年後、哲は会社を辞めて貯めたお金で沢口商社という小さな会社を立ち上げた。売る商品は駄菓子ではなかったが、彼には亡き秀夫の意志を継いで店を存続させたいという強い思いがあったのだ。


しかし商品は、はじめのうちはまったくと言っていいほど売れなかった。沢口商社は都会にたくさんある小さな会社の一部に過ぎず、その存在さえ知らない人間がほとんどであった。商品を買っていった一部の客は、品質が悪い、こんなゴミ捨て場から拾ってきたようなものを商品として売り出すなと罵声を浴びせた。哲は電話口で頭を下げて謝った。


沢口商社の売り上げは最悪であったが、哲は決して諦めなかった。


昔、哲の母が秀夫の嫁として店に入ったときは沢口商店は客が絶えなかったという話を秀夫は遠い目をしながら哲に話して聞かせてくれた。あのとき、秀夫は親しかった故人を回顧しているかのようなどこか物悲しい目をしていた。そんな秀夫を見て哲は誓ったのだった。僕が、この店の景気を復活させてやる。苦労して働いている父さんを喜ばせてやる、と。哲の本当の夢は沢口商社を立ち上げることではなく、沢口商社を有名企業にすることだったのだ。


哲は商品の売り上げを伸ばすために努力を惜しまなかった。

自社の商品を多くの人々に宣伝し、他社の商品の売り方に関する戦略を研究し、研修会にはできるだけ多く参加した。客の苦情は素直に受け入れて商品の改良に役立てた。新商品の開発にも積極的に取り組んだ。

その結果、商品の品質や客への待遇などは改善されていき、少しずつではあるが客が増えていった。


そんな中、哲のアイデアによって作られたとある日用品が口コミで評判になり、瞬く間に爆発的ヒットを飛ばした。それをきっかけにして沢口商社という小会社にスポットライトが当てられるようになった。他の商品もまた飛ぶように売れていき、会社は従業員が膨れ上がるように増えてたちまち大きくなった。その人気は衰えるところを知らず、会社は東京に本拠地を移すことになった。そこでも沢口商社は他のライバル社を押しのけて、ついに日本各地に支店を持つ大企業の仲間入りを果たしたのだった。




ある日、社長の哲はかつて村であったその場所にある秀夫の墓を訪れようと考えついた。自分の父親の初めての墓参りと沢口商店のその後の報告をするためである。


村へ行くための道はずいぶん前に使われぬものとなったため、草木が伸びたい放題で周りの森と同化しており、もはや道とは呼べなくなっていた。哲は業者を呼んで道を整備させてから森に入った。ずいぶん長い間同じ草木の景色が続いた。哲は目に入る情報を頭の中で復元させて少しずつ記憶を甦らせようとしていた。


道が途切れたところで、哲は異様な光景を目の当たりにした。


辺りにはさまざまな種類の広葉樹や針葉樹が立ち並ぶ中、ある境界線から先には大きな栗の樹ばかりが佇む鬱蒼とした栗林が広がっていたのである。それはまるで異世界への入り口のようにも見えた。


哲はそこで下車して、付き人を三人だけ引き連れて栗林の東から中に踏み入った。


そこでは村の痕跡はすっかり消えてしまっていた。家屋の一部もなく、ただただ栗の樹が並び立つ光景が広がっていた。栗林では栗の樹以外の樹は一本も生えるのを許されていないようだった。地表は長い枯葉で埋め尽くされて一歩を踏み出すたびに乾いた音が森に響いた。さっきまで喧しく鳴いていた鳥の声が遠ざかり、森は静寂の支配下に置かれた。栗の樹はいずれも大きく、山火事からたった二十年ほどで成長したとは信じ難いものばかりだった。


栗林は村の西にあったため、哲は栗林の真ん中を通っていかなければならなかった。


途中、栗林のちょうど中央あたりに一際大きな切り株があるのを哲は見つけた。周囲の栗の樹とは違い、その切り株は黒く焼け焦げてしまっていた。


それは、間違いなくかつて沢口商店の庭に生えていて、この栗林の生みの親であるあの栗の樹だった。


哲はゆっくりと近づいて切り株にそっと触れた。二、三秒そうして手を離して見ると、黒く煤けた炭が付着していた。


哲は記憶を辿る。


秀夫があのとき庭に埋めた栗は、もの凄い速さで成長してほんの二十年間で立派な巨木となった。栗の樹がまだ小さい時期は二人で協力して水や肥料をやって世話をした。毎年栗の樹の成長を実感するたびに二人の樹への愛着はどんどん深まっていき、やがてその存在はかけがえのないものとなった。だから毬の落下の被害を恐れて客が減っても、栗の樹を切ることはできなかった。店の経営への不安はあったが、哲は栗の樹のさらなる成長をどこかで期待していた。


栗の樹は樹齢二十年目にして切られてしまったが、あのまま成長を続けていたら間違いなく世界一の巨木となっていただろう。栗の樹は伐採と火事によって二度死んでしまったが、そのたびに生き返って今や巨大な栗林を形成している。この栗林は秀夫と哲が育てた栗の樹そのものであった。


哲がかつて望んだ栗の樹の成長は今も続いていることがわかったが、その成長によって故郷の破壊という弊害が発生したということを考えると、哲は複雑な気分になった。


哲は切り株をあとにしてしばらく歩みを進め、栗林の西端まで辿り着いた。


ここは本当に栗林の最西端あたる場所のようだった。哲の目と鼻の先には境界線があり、その向こうにはさまざまな種類の木々が生い茂る空間が広がっている。地面の枯葉もそこから明らかに違っており、本当に世界が隔てられているかのようだった。


付近を捜索すると、数多の墓石が荘厳に佇むかつての墓地を発見した。


ここには、今でも村で亡くなった人たちが安らかに眠っている。もちろん父親の秀夫もそうだ。墓石のいくつかは下から生えてきた栗の樹に押し出されて倒れてしまっていた。


哲はその場で付き人三人にここで待っているように命じ、墓地跡に入って沢口家の墓石を探した。


哲は沢口家の墓石が名前が彫られた面を下にして倒れているものだった場合や、倒れていなくても名前のある面が樹の幹に隠されてしまっている場合のことを少しばかり心配していた。しかし、哲は直立している『沢口家之墓』と刻まれた墓石をすぐに見つけることができた。『沢口』という名字の家は村に一家しかなかったので秀夫の墓に間違いなかった。


哲は墓石に積もった枯葉を払い、懐から小さな容器を取り出して苔に覆われた墓石に水をかけた。水は泥を含んですぐに茶色く変色し、枯葉の下の地面に吸い込まれていった。


哲は墓石の前に立ってその様子を見つめる。しばらくそうしてから、哲は墓石に語りかけるように静かに口を開いた。



……僕のことがわかるかい?



哲はそう言って返ってくるはずのない返事を待った。


墓石は沈黙していた。しばらくそうして音を孕まない時間が通り過ぎていった。


五分近く経ってから、上空の樹の葉が風に揺れてかすかに音を立てた。哲はそこで久しぶりに声を発した。



――そう、哲だよ。沢口哲。あなたの息子だよ。ずいぶんと年をとったものだろう。もう親父の年を超えてしまったよ。



哲は墓石を前ににっこりと微笑んだ。その様子は端から見ると、まるで誰かと会話しているようにも見えた。哲は穏やかに続ける。



親父が死んでからね、いろいろなことがあったんだよ。


僕たちが刺された後、元蔵が僕たちの家族のような存在の栗の樹を切り倒してしまったんだ。しかも元蔵は、沢口商店の家屋を倒れる栗の樹の勢いで潰してしまおうと考えていたらしいんだ。許せないよね。あいつは僕たちからすべてを奪おうとしたんだ。でも、農林組合の人たちが完璧な計画を立てて事に臨んだにも関わらず、栗の樹は沢口商店とは別の方角に倒れたんだ。しかも、そこには元蔵が立っていて奴を押し潰してしまったんだよ。不思議なことだよね。こんな偶然ってある?もし起きても漫画や小説の中だけで現実ではありえないような話だけど、実際に起こっているんだ。僕はこれには何か特別な力が働いたと考えている。天罰とか霊力とかね。もしかしたら、親父がやったのかもしれないけど。


そんなことがあった次の年の春、村のあちこちで栗の芽が突然一斉に発芽し始めたんだ。僕たちの栗の樹が、冬の間に村中に根を伸ばしていたらしいんだよ。栗の芽や根はどれだけ除去しても後から後から生えてきた。村の人々はこれは親父の祟りだと言った。親父が元蔵に抗議するとき、村の誰も親父の肩を持たなかったことに親父は激怒しているんだと。笑っちゃうよね。親父は確かに村人のそういう点に不満を持っていたけど、そんなことを理由に村人を困らせるようなことをする人間ではないと僕は知っているよ。結局、村は栗の樹に侵食されて失われてしまったんだ。僕は初めて栗の樹に対して怒りを覚えたよ。もちろん、この出来事に親父は一切関わっていないよね?僕はそう信じているよ。


ここまでは、僕が直接体験したのではなく聞いた話なんだ。



哲はそこまで一気に話して再び黙り込んだ。ほどなくして栗の樹の葉が風によって囁くと、哲は嬉しそうに一つ相槌を打って語りを再開させた。



僕は村がなくなってからおよそ一年後に病院のベッドの上で意識を取り戻したんだ。僕は頭を強く打っていて医者から植物人間になると言われていたらしく、昏睡状態からの回復は奇跡だと言われた。そこで僕は意識を失っていた一年間の出来事をすべて知った。特に親父の死と村の壊滅の話はショックだったよ。


僕は退院後に町でアルバイトによってお金を貯蓄する生活を始めた。アルバイトでの収入は高が知れてるから途中で会社に正式に入社したけどね。


このぐらいの時期だったかな、この栗林で放火による山火事が発生したのは。犯人は元蔵の妻で、動機は夫を殺した栗の樹への私怨だったらしい。栗林は全焼してしまって、聞いたところによると栗の樹は一本残らず灰塵と化してしまったようだ。この墓石も炎に包まれたんだろうね。その後はこうしてまた再生したのだけれど。僕は生まれ育った村を潰してしまったことで、栗林を少しだが恨んでいた。でも、燃やされた栗林は僕たち二人がかつて愛したあの栗の樹そのものだった。だから僕はそのニュースを知っても、喜ぶことも悲しむこともできなかった。ただ、正体の掴めないモヤモヤとした感情が胸中に燻っていく一方だったよ。


ある程度貯金がたまると、僕はそれまでの仕事を辞めて小さな会社を設立したんだ。僕は沢口商店や勤めていた会社での経験を元に商品の販売を始めた。でも、はじめから上手くいくはずもなく、商品の売り上げは一向に伸びなかったよ。何度も挫折しかけたけど、諦めずに努力を重ねていったんだ。来客数が少しずつ増加していたある日、うちの会社のとある商品が世間で大きな話題を呼んだんだ。それを引き金にして、他の商品にも注文が相次ぐようになって、うちの会社は注目の的となったんだよ。それからはあっという間だった。会社の規模は急激に拡大し、商品の需要はますます高まっていき、小会社は日本中に名を轟かせる大手企業へと成長を遂げたんだ。そして、僕は今やその会社の最高のポストである社長という座についている。


親父、よく聞いていてほしい。ここからが大事なんだ。


僕はただ思いつきでお金を貯蓄してそのお金で会社を立ち上げたわけでは決してない。僕は病院のベッドの上で友人から親父の死を聞かされたとき、ある夢を立ててそれに向かってひたむきに努力し、そしてその夢を現実のものとすることを誓ったんだ。


二人で村で生活していたころは照れ臭くてなかなか言えなかったけど、僕は親父を心から尊敬しているよ。世界中で一番。


親父は、店の売れ行きがどんなに悪くても愚痴の一つも溢さずに働いていた。僕が幼いころは少ない収入でうまくやりくりして自分で使えるお金をほとんど削って僕に不自由ない生活をさせてくれていた。他人のことを第一に考えて他人が困っていれば自分のことを後回しにして助けていた。自己中心的な振る舞いをする者には相手が誰であろうと物怖じせず正面から意見を言った。そして、店を最後まで守り抜こうとした――。


親父は、店主としての責任感が強く、か弱き者に手を差し伸べる優しさを持ち、ダメなものはっきりダメと言える勇気と正義感に溢れる男だった。


何度も意見の衝突はあったけど、僕はそんな親父を店主として、親父として、人生の先輩として、一人の人間として心から尊敬していたよ。もちろん今でもね。


だから、僕は親父の願いである沢口商店の存続を実現させようと決心したんだ。再び店が繁盛することを期待して日々働いていた親父のために、親父の後継ぎの僕が沢口商店を有名な大企業に成長させて親父に報告しようと思ったんだよ。


うちの会社の名前は『沢口商社』……もう、わかるよね?


沢口商店は一度死んだ。


でも、切られても燃やされても何度でも再生して成長したあの栗の樹のように、沢口商店は再生して著しく成長を遂げたんだ。


……親父、聞こえているかい。沢口商店は今や、客が絶えることのない大企業なんだよ。親父がずっと夢見ていた、沢口商店の繁栄という夢は、叶えられたんだよ――。



哲は墓石の前で涙を流していた。さらに言葉を付け加えようとしたが、唇が震えてうまく話すことができなかった。


栗林に一陣の風が吹いて栗の木々たちがざわざわと音を立てた。それは、かつて沢口商店の庭に生えていた栗の樹が風とともに奏でる音と同じであった。


ハンカチで涙を拭いた哲は顔を上げた。



そういえば、大切な話をするのを忘れていたよ。親父も気になっているだろ。


――僕たちを刺した犯人は、いったい誰なのかということを。


村のほとんどの人は、捕まることはなかったけど犯人は元蔵だと考えている。確かに親父と元蔵は仲が悪かったし、あいつはそこまでのことやらかしてもおかしくないような奴だった。殺された親父自身も犯人は元蔵だと思っているかもしれないね。


実は、僕は犯人を知っている。


――犯人は、元蔵じゃない。


僕は、あの夜、自分が刺されるとき、犯人のフードの下に大きな傷跡がある額を見たんだ。風でフードが捲られた一瞬だけだったけどね。


村で額に大きな傷がある男は……“あいつ”しかいないよね。背格好や体格もよく似ている。


……親父も当然、知っているよね?


確かあの日は、冷たい霙が降る夜のことだったよね。


親父と幼かった僕は、同じく幼かった“あいつ”とその母親に対して死傷事故を起こした。母親は死亡し、“あいつ”も重傷を負った。“あいつ”の額の傷はそのときにできたものだ。この事故はあまりにも予想外の出来事で、特に親父にとっては重大な過失だった。親父は村の診療所に電話をして救急車を出してもらったけど、母親の方は首が飛んでしまっていて即死状態だった。それを知った親父は、犯人へ結びつく痕跡をすべて消して犯人は僕たちであるということを“隠蔽”した。親父はそのとき、青ざめている僕に真剣な表情で言ったよね。



――哲、俺たちは決して許されることのない罪を犯してしまった。このまま逃げたり罪を自白したりしてしまえば、まだ幼いお前は大丈夫だろうが俺は確実に逮捕される。でも、そうなってしまえば沢口商店はどうなる?犯罪者の店というレッテルを貼られて客は誰も寄りつかなくなり、やがては潰れてしまうだろう。沢口商店の長い歴史に泥を塗りつけることになるんだ。お前だって、一生犯罪者の肩書きを背負って生きていくことになるんだ。罪を重ねることになるのはわかっている……。お前は、このことを決して誰にも言うな。沢口商店と、お前の未来のためなんだ……わかってくれ。



親父の僕の肩を持つ手は震えていたよ。僕は、この状況と初めて見る親父の言動にただただ怯えて黙って首を縦に振ることしかできなかったのを覚えている。


僕たちにとっては運が良かったと言ったら聞こえは悪いけど、“あいつ”は事故の衝撃で記憶喪失になって事故の記憶がごっそり抜けたみたいになった。


親父の日ごろからの良行のおかげで僕たちに嫌疑がかかることはなく、“事件”は闇に葬られた。


それ以来、沢口商店に“あいつ”が屈託のない笑顔で訪れると、親父の顔は少し引きつるようになったよね。僕たちはあの出来事を綺麗に忘れていると思っていたけど、あるとき、ふとした瞬間に記憶が甦ったのかもしれない。あるいは、本当は何もかもはじめから覚えていて、あの笑顔の下でひそかに憎しみを育てていたのかもしれない。


この事件は、まじめに生きてきた親父と僕が唯一犯した大きな罪だった。


実は、親父がたびたび「自分勝手で利己的な人間は嫌いだ」と発言するときに、僕は親父の言動に矛盾を感じていたんだ。あの日の晩も、確か言っていたよね。


僕は親父を敬愛していたけど、親父のそういうところが唯一嫌いだった。自分だって、店と子供を守るために償うべき自分の罪から逃げ続けている、自分勝手で利己的な人間じゃないか、と、そう思っていたよ。だが、今となっては親父の気持ちはわかる。


店を守るか義に従うかで親父は悩んだ末に苦渋の決断を下したんだよね。その店主として店を守り抜く精神は尊敬に値するよ。


僕は町で働き始めたときからずっと“あいつ”を捜していたんだ。


僕たちが“あいつ”に対して行ったことを考えると、恨みを買って復讐を受けるのは当然のことだったのかもしれない。過失だったとはいえ、決して許されることではないからね。殺されてしまうのが僕だったのならまだ良かった。店の後継ぎに関しては養子をとればいいしね。


でも、“あいつ”は親父を殺した。


尊敬する、僕の親父を。


僕は“あいつ”とその母親には今でも本当に申し訳なく思っている。禁固刑百年になっても償い切れないほどのことをしてしまったと思っている。


でも、親父を殺したことについては、僕は絶対に許さない。


そして僕は、ついに先日、“あいつ”を見つけることができたんだ。……どこにいたと思う?なんと、沢口商社のオフィスで社員として働いていたんだよ。整形をしたらしく、顔はずいぶん変わっていたけれど、どこか昔の面影があった。一人だけ深々と帽子を被っていたことから僕は確信できた。


そして、今日は“あいつ”を付き人として連れてきた。


――そう、僕の後ろに立っている三人のうち、黒い帽子を被ったヤツだよ。


今日、僕がここを訪れた理由は三つある。一つは親父の初めての墓参り、二つは沢口商店のその後についての報告、そして最後は……親父の仇討ち、だ。


親父、残念だけど、人間はみな利己的なんだよ。自分に危害が及ぶのを恐れて人を助けない村人たちも、店の存続のために自分の罪を隠し続けた親父も、怨恨から僕たち二人を刺した“あいつ”も、今から犯罪に手を染めて仇を取ろうとしている僕も……結局、みんな、他人などどうでもよくて自分が一番かわいいんだよ。



そのとき、哲の話を背後からの男の悲鳴が遮った。


哲が振り返ると、三人の付き人のうち二人が枯葉が積もる地面に倒れ伏していた。気絶しているだけで死んではいないようだ。


立っているのは黒い帽子を被った付き人だった。

付き人は自分の主人であるはずの哲に鋭い眼光を向け、腰から大きな刃物を取り出して哲に刃先を突きつけた。ひどく興奮した様子で息は上がっていた。付き人はずっと被って外すことのなかった帽子を投げ捨てた。そこには額を横に走る大きな傷跡があった。



……親父、どうやら向こうの狙いも僕だったみたいだ。こうなることは予想していたけどね。



哲は墓石をちらっと一瞥してそう呟くと、懐から折りたたみナイフを取り出した。哲が刃物を持っていることを予想していなかった付き人は少したじろいだ。哲はナイフを逆手に持ちかえて、緊張した面持ちで刃物を握る付き人を見据える。


唐突に栗林に強烈な風が吹いて、栗の木々が叫ぶように騒いだ。


哲は笑うように顔を引きつらせて口を開いた。



親父、少し待っててくれ。親父への手土産に“あいつ”の首を持ってくるから――。



哲の目が狂気に染まった。


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