『真贋鑑定士』
「これは贋物だよ」
歓声で湧いていた『ブランド物』の売り場が一瞬で静まり返る。
静まり返らせたのはたった一人の男。スポーツサングラスをかけ、黒いTシャツに前のボタン全てを開けた白いワイシャツを羽織っている。彼のような赤いバンダナを頭に巻いた二十台ほどのその男は、どう考えてもこの場には似つかわしくない。
「贋物で稼ごうにもそれなりのプライドを持ってほしいな、この程度の造りで某ブランドを語るのはいかがなものかと思うけど?」
その男は売り場の直ぐ側にいる赤いネクタイにブレザーを羽織った恰幅のいい店員に一歩詰め寄る。
「で、でたらめを言うな!」
「その言葉、そのままあんたに返すよ。あんたの言うことをだれが信じるかな?」
指を差す、恐ろしい剣幕の店員を軽くあしらうその男は小さくため息をつく。
「まず、皮の艶が少ない、それを誤魔化すために塗ったんだろうが……ニスが多すぎる時点でアウト」
店員の顔から怒気が消え、冷や汗が流れ出る。
「そしてプリントのインクが荒い。荒稼ぎするつもりでもこのプリントのクオリティの低さはないぜ?」
店員の顔は既に血液を抜かれた生肉のように真っ青になっている。
突如、その店員はその男の耳元で囁いた。
「何が望みだ」
「命」
ビクッと店員が身体を震わせる。
「冗談に決まっているだろ? 『誠意』だ、お前が『誠意』を見せればこの売り場にいる人間全てを説得してみせる」
クッとその男は奥歯を軽くかんだように短く笑う。
「……おいくらで」
「『誠意を見せれば』と言ったはずだぜ」
店員は後ろの仲間に目配せする。
「おっと、弾丸が誠意なのかい? あんた達にとっては?」
スーツのうちポケットに手を伸ばそうとした店員の仲間達は豆鉄砲を食らった鳩のように硬直する。
「トカレフ三丁……替えのマガジンは一つ。それを撃ったらここにいる四十二人の人間全てを殺さないといけない、が……弾数が足りないぜ?」
「な、何者なんだ……お前は……」
恐怖に顔を歪めたその店員は腰を抜かし、その男を見上げるようにへたり込む。
「通りすがりの『鑑定士』」
ふっ、と短く笑ったその男は一言だけ囁く。
「お、奏。どうだった?」
『ブランド物安く売ります!』と言う看板の下の掲げられたやや古いビル。その自動ドアから出てきたその男にシルバーの車に乗った男が声をかける。
「こんなところで人の名前を叫ぶなよ。大和田数規君?」
「それは、それは、失礼しました秋色奏さん?」
助手席に座った奏はだまって福沢諭吉の書かれた茶色の紙切れの束を後部座席に放り投げた。数規は感激したように短く口笛をふく。
「しめて20万、といったところでしょうかねぇ?」
「依頼大成功だな! 二重でお金もらえて万々歳だ」
奏と数規はインターネット上で『真贋鑑定士』と銘打ったサイトを運営している。この世のことであれば表裏の世界関わらず、内容と金額によって依頼を受け、鑑定する。そういったことでお金を稼いでいる大学生だ。
「何が、大成功だ。今回みたいなやばい仕事はもうお断りだぞ」
「へいへい」
正直うんざりした、と言った表情の奏に対して数規はホクホクとした表情で車のアクセルを踏み、発進させる。
奏は数規が放り投げた缶コーヒーを手に取り、口に一滴含む。
「この缶コーヒー、今日は酸味が強いな……」
「それにしてもお前の鑑定眼には恐れ入るよ、本当」
唐突に数規が、頬杖を付いて流れていく景色を眺めていた奏に語りかける。
「別に……」
奏は小さく呟いて眼を閉じた。
奏は普通ではない。『真贋鑑定士』をしているからと言うわけではなく、『感覚』が普通ではないのだ。
数規は知らないが奏の五感は異常に鋭い。
触覚なら空気の流れを感じ、人がどのように動いているかまで
視覚なら紫外線による看板の退色具合を一時間単位で
味覚ならコンマ一ミリの塩加減の差まで
聴覚なら普通人間の耳には聞こえないような音波まで
嗅覚なら人や動物以外にも無機物の匂いを追っていけるほど。
その全てを、その気になれば、半径800メートル内で感知できる。
もちろんこの感覚を開きっぱなしでは気が狂ってしまう。だから奏は普段は『人間並み』に制御しているのだが。
「いや、お前のそれは才能だ、間違いなく」
少しの間が空いて数規が力説する。
「だから今のうちにお金をためておけ」
奏は頬杖から外れた頭をドアミラーにぶつけてしまった。
「何の関係があるんだよ……」
奏は心底呆れたように自分の頭を撫でる。
「どこかで読んだんだけどさ、才能って奴は神様が与えてくれるらしい」
「……おまえどっかに入信でもしたのか?」
数規は目の前でいやいやと手を振る。
「今も昔も無神論者だよ」
「そうですかい」
「でさ、神様が才能を与えてくれるのはそれに比例した困難に立ち向かうため、らしいぜ?」
奏は信号に捕まって止まった車の中でため息をついた。そんなものありがた迷惑だ。どうせならその困難自体を何とかしてほしいもの。
「でさ、お前の才能は桁外れに優れている。だからでかい事に巻き込まれた場合、金があったほうがいいだろ?」
にかっと笑う数規から奏は無言で目を背ける。いつの間にか流れ始めた車の景色は少しずつオレンジ色に染まりつつあった。
「……次の角で左に曲がって止まろう、そこで運転交代」
奏は低い声で運転席の数規に促す。
「もしかして、と思うけど……何時もの『勘』が働いたのか?」
軽く前につんのめるようにガード脇の三車線道路に車が止まる。
「ビンゴ。奴らしつこくして女に嫌われるタイプだな」
車の中で助手席と運転席で入れ替わる。
「乗客の皆様、シートベルトを正しく着用の上、手摺りにつかまり……」
バスのアナウンスのように奏はシートベルトをし、チェンジレバーに手を置く。
調節したバックミラーに左に曲がってきた黒い車が一台、二台と映る。
「舌をかまないように……」
数規は大袈裟にもマウスピースを口に放り込む。
「私語はご遠慮ください……なっと!」
ファーストギアで急加速し、一瞬でトップスピードへ。
数瞬遅れて黒い車達が加速する。
追跡『車』は二台
他には無い
奏は感覚を閉じ込めた感覚を開く。
頭痛がするほど流れ込む洪水のような情報に軽い目眩を覚え、地図を頭の中に描いた。
「行くぞ!」
ハンドブレーキを引く
タイヤが固定された車は右に90度回転し、タイヤとアスファルトが高い音を奏でる
90度回転した車は若干傾いた車はそのまま直進し両輪が地面に着く。
黒い車は同じくドリフトをする要領で二台とも付いてくる
このまま進めば中央分離帯のある広い車道に出ることになる
丁度帰宅ラッシュの直前で車道は込みだしている。
「数規、つかまれ!」
数規は手摺りにつかまり目を閉じる
トップスピードのまま、アクセルから足を離さずハンドルを右に切る
車は遠心力で左に傾き、右の車輪が浮かび上がる。
乗用車二台の間をすり抜け奥の車線に強引に入り込む。
車は横に180度回転しクラッションの嵐の中で両輪がアスファルトに食いつく。
アクセルを眼いっぱい踏み込む
再び急加速。
サイドミラーを見るまでも無く背後の黒い車達の気配が『聴こえる』
「混んでいるのにご苦労なことで……」
奏は感嘆とも呆れとも取れるため息をつく。
奏達の車は次の交差点でUターンし、少し空いている反対車線に入り込んだ。同じ車線に入ってきた黒い車は徐々に差を詰めてきた。
道なりに直進
中央分離帯の無い先程より少し狭い道路に出る。
「お、おい赤信号だぞ!」
目の前に出てきた次の交差点
交通量は多くはないが少なくもない。
目の前を複数の車が行き交う
後ろの車はさらに距離を縮めている。
「奏!」
「黙って歯を食いしばれ!」
左斜め前、ビルの陰から聞こえてくる低く大きなディーゼルエンジン音とウインカーの音。
「three……」
ブレーキを軽く踏み、黒い車との距離をさらに縮める
「two……」
アクセルを踏まない車はさらに減速する。
黒い車は奏の運転する車の両脇につけようとしている
数規は観念したようにぎゅっと目を瞑る。
「one……」
アクセルにしっかりと足を置く
左隅の視界に僅かにトラックのバンパーが映る。
「……act!」
アクセルを踏み込むと同時にハンドルを右に切る
当然のように黒い車は追いつこうと加速し
左側の車両の運転手の凍りつく顔がサイドミラーに映る。
ブレーキ音の直後、派手な衝突音
「……死んでないよな?」
「当然。怪我は間違いなくしているだろうけどな」
まだ残っている一台の車はさらに躍起になって追いかけてくる。
止まった車のエンジン音が多数、左手から聴こえる
規則的なリズムを刻むものに混じるカタンという小さな音
そしてはるか遠くから聞こえる風を切る音
「……! いける!」
奏はハンドルを左に切り右車線を逆走する。
目の前に見えたのは黄色と黒の縞々。
「まさか……」
顔を青くする数規を横目にアクセルを完全に踏み込む
「待ってくれよ……」
迫り来る遮断機のバー
「まっ……」
「舌を噛むぞ!」
「うわああぁあ!」
遮断機を突き破り、車が空に跳ねる
右手に見える鉄の怪物
背後でチリっという微かな音が聞こえ反対側の遮断機も突き破る
その電車の向こうで聴こえる急ブレーキ音と電車の急ブレーキ音
「ざまぁみさらせ!」
そのまま次の交差点を曲がり、加速する。
「奏……」
「どうした?」
奏は顔を真っ青にした数規を見やる。
「吐きそう……」
「……あと三分待ってくれ」
逃げ切った、と思った瞬間またアクセル全開で道路を走りぬける。
「うええぇ」
吐き気をもよおした数規のために奏は駐車場に車を停めた。その近くの公園のトイレで数分ほど吐きっぱなしだ。
「よくもやってくれたな……」
「二度と味わいたくなかったらもうこんな仕事持ってくるな。以上」
弱々しく呟く数規に奏はキッパリと言い放つ
「肝に銘じておく」
そのまま少し考え込んだ数規は目を瞑る。
「なあ、新しい商売始めない?」
奏は眉をひそめあからさまに嫌そうな表情を見せる。
「運転代行……とか言わないよな?」
沈黙が響き渡る。
奏はその沈黙を肯定ととる。奏は全く懲りていない相棒に大きなため息をついた。
「却下」
夜空にカラスが鳴いた
がっくりと肩を落とす数規を馬鹿にするように。
「これが『困難』ならもう乗り越えたから……」
奏は夜空の月を見上げる
「後は平穏に暮らせるかな?」
再びカラスが鳴く
奏の甘っちょろさをあざ笑うように。